夜寒
「慣れない事はするもんじゃないな」
純白の間で大の字に寝転んだ尚斗。背を向けられてはいないものの、目線も向けてはくれない絃を見つめていた。
『ひまひま屋』で寿と竹蔵が様々な思惑を持った連中を待ち構えていた日。竹蔵の自室で、そろそろ騒ぎになる頃かと予想しながら欠伸をすると、次にはこの場に佇んでいた。
眼前には、大きな灰色の岩石に向かって、鞘と短刀を叩き続けている絃の姿が在った。
ああ、ここが純白の間かと現状を把握すると同時に、よくまあ、鞘も短刀も折れていないなと感心しながら、先程から存在を訴える刀を手に取り、鞘を抜いて、鞘を腰に下げてから、刀を両の手で掴み、岩石に向かって走り出した。
助成いたす。
口に出したか出していないかは分からない言葉が浮かんで、限界まで振り上げて、息を止めてから、一気に振り下ろした。
鈍い音か、鋭い音。どちらが出るかと生じた疑問はすぐに解消される。
鋭い音。しかし、玄人よろしく、岩石を見事華麗に斬り落とせた音ではなかった。
空振りの音。刀は岩石を勢いよく透り過ぎたのだ。
まあ、そうだよな。神に選ばれてないし。予想できていたから。
尚斗は自分を納得させながら、鼓舞しながら、刀を縦に横に斜めにと、振り下ろし、振り上げ、横一文字を繰り広げ続けた。
絃は気づいているのかいないのか。尚斗を、尚斗のいる方向を見ようとはしなかった。
あー、莫迦みたいだよな。莫迦だよな。透り過ぎるのに何を一生懸命やってんだか。腕も背中も腰も足も。食いしばっている歯も。どうしてか力が入る頬も。つーか、全身痛くなる。こんな体力仕事は寿や銀哉、竹蔵に任せればいい。本当なら、この場にいるべきはこの三人だ。
しかし現実にいるのは、自分。
行きたいと言ったのだ、自分。
寿と竹蔵は、恐らく、否、確実に、この場に赴きたいなど言わない。
勝手に作った、踏み越えてはいけない境界線。
主と決めた人間を、どこか神秘化してしまう性分。
刷り込み、だろう。足掻けないものはある。変えろと責める気も諭す気もない。あるだろう。どうしようもない事。
だから、ここには自分が来た。
忍びは忍び同士で手を取り合うように。
主と定められて、主を選んだ人間は人間同士、手を取り合おう。
決めたんだ。
絃が岩石を壊すまでの時間、身体のどこも休めずに動かし続ける。
空振りに終わったとしても。
ここに招かれる限りは、
例えば、
まるで氷柱のように、見ているだけで寒気と痛覚が生じたとしても。
『破壊したいのは、岩なのか。短刀なのか。絃自身なのか』
岩石を壊し続ける絃を見続けて生まれた疑問、なのだろう。
自分は思ったより色々と考えているようだ。
口から勝手に出た。おかげで、氷柱がより鋭く、より巨大化してしまった上に、元々あった溝が世界最深海よりもさらに深くなってしまった。きっとこの星を突き抜けて宇宙まで及んでいるだろう。
果てない、果てない。
(さてさて、このまま口を閉ざしたままか。ここには来るなと怒るか)
痛みを訴える身体とは裏腹に、心は穏やかだ。明鏡止水だ。
いついつまでも待ち続けよう。
真実そう思っている。思っているのだが。
如何せん、日頃こんなにも激しく身体を動かさないので、急速に眠気が襲ってきた。
眠い。瞼が重い。頭も重い。全身重い。あー。目と口以外動かしたくない。
空振りの自分でさえ、こんなにも疲労が激しい。
実際に岩石を叩き続けているのだ。慣れによって疲労が軽減しているかもしれないが、蓄積もしている。疲労と衝撃は計り知れない。なのに、立ち続けているのは、自分がいるからか。いなかったら、絃もまた寝転んでいただろうか。疲れた、疲れたと、愚痴を盛大に吐き出していただろうか。それとも、一人でも立ち続けていたのだろうか。
「岩でも、短刀でも、おまえ自身でも。竹蔵は笑うし、寿は泣くし、俺は。俺は、どうしようかな。笑わないし、泣かないし、怒らないし、止めないし、ずっと見続けるのも無理だし。おまえが……おまえと一緒にここで素振りを続ける事しか、しないだろうな。あとは、どうして、風船とおまえが気になるのか、時々考えるくらいか」
思考は休眠。口だけが勝手に動く。
寿と違って、通過点に過ぎない存在。
手繰り寄せたのは自分だけれど、寿のように未来まで強く想いを馳せられない。
絃が何をしたところで、感情はそう大きく動かない。
動きはしないが。
見ているのは、嫌ではない。
世間一般的に悪と評される行動を取ったところで、嫌悪感も抱きはしないだろう。けれど、無感情なわけでもない。希薄なだけ。
手を取り合おうと言っても、熱く握り交わしたりなどしない。五本指の第一関節が軽く、浅く触れる程度。その程度でいい。
その程度の存在が必要な時だってある。
だから。
言わなくていい。言ってもいい。どちらでも構わない。
「なあ、絃。おまえは神様を憎んでいないのか?」
意識は朦朧していたが聞き取れたと断言できた。
眠気眼が完全に閉じられる寸前に、絃が返した答え。
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