第5話 嵐がきそうな丘

 本日二度目の濡れ鼠、さすがに言葉少なになるアンコだが、虎次郎がそっと鼻先をつけてみるとそれでも自分で身震いするのは幼くあっても鯖猫の矜持。震える髭から水滴絞り、前足揃えてちょこんと座り、「ありがとうございます」と気丈に寄越す礼の言葉。


 その言葉が終わり切る前、血相変えた東雲が、問答無用でアンコの首筋咥えて一っ飛び、虎次郎から距離を空け、礼を伝えるどころか虎次郎こそアンコを落とした張本人とでもいうように、日向の匂いのするような枯草色のその瞳、強く睨んで刹那背を向け、何も言わずに走り去った。


 後に取り残されたのは、虎猫二匹鯖猫一匹、いずれも雄猫三匹雁首並べ、どこか気まずい雰囲気に、姉を追うべきか逡巡の沼に陥る胡麻太の動きがいっそうぎこちない。年長者の責を感じてか、虎次郎が口を開こうとしたその気配、察するやいなや胡麻太が身を翻して姉の後を追うのは、これぞコミュ障の真髄で。


 さて、鯖猫がいなくなった川辺に二匹、取り残された虎猫たちは早々に縄張りの境界付近から立ち去ることを同意する。鯖猫の縄張り去り際、名残惜し気な虎次郎、時折背後に遠くなる川を何度か振り返る。先導のキナコはそんな虎次郎の様子に気づかないまま虎猫どもの本拠地の明るい林に足を踏み入れて、そこで「待った」と一声、虎次郎から声が掛かった。


「なんでしょう」

 そう振り返って首を傾げるキナコのその目、虎次郎がしげしげと眺めても、臆せず見上げるその虹彩、やはり紛うことなき緑の光。


「瞳に差し込むその緑色、おまえの母上も白玉の君か。ならば俺がここを出たその後に生まれた弟か」

 言われたキナコが虎次郎の、瞳を覗いてもそれは太陽の金色で、自分の目のような緑色は影も形も見当たらない。


「この目の色で兄弟と、おっしゃられるその意味が分かりませんが」

「白玉の君が生んだ子猫、雄猫ならば年若い内、その瞳に緑色が煌めくが、次第に消えてなくなるのだ。俺もしばらく前までお前のような眼の色だった。雌猫ならば一生消えぬ色なのだが」

「そういえば、母上の目も碧色」

 

 近しい者でなければ気づかぬ光の加減によるその色合いを知っているこの虎次郎、どうやら自分の兄という話は信じて良さそうだと、これも似ている虎縞模様の幅を測りつつ合点する。ならば母上、白玉の君の御前まで連れて行くのが道理だろうと、キナコは尻尾を真っすぐ天に向かって立てながら、林の落ち葉を踏みしめる。


 二匹の虎猫連れだって、そこかしこの日向にごろ寝する虎猫どもを横目に見つつ、坂を登って白玉の君の前、足取り軽くキナコが走り寄り「連れてきました」と唐突に。さすがに白玉も驚いて「いったい何を」と聞き返す。


「私の兄上とのことです」

 キナコは無邪気に答えるが、白玉の君にはその答えすら想定外。そのキナコの後ろから姿を現すのは虎次郎、姿を見極めた白玉の君の目が細くなる。


「何をしに来た虎次郎、もう戻らぬというその言葉、妾は忘れてはいないぞ」


 厳しい口調を予想していたか、虎次郎は苦笑い。

「そなたの兄上、寅太郎が、雌の鯖猫と尻尾に尻尾を、もとい手に手を取って出奔し、行方知れずになったその半年後、そなたもこの縄張りを出ると聞いて妾たちがどれだけ慌てたことか。妾たちがあれほど頭を下げて頼んだのにそなたはそれを振り切って出て行ったのではなかったか。それを今更、どの面下げて戻って参った」


 返す言葉もない虎次郎、いや、そもそも返答しようとは思っておらず、ただ大人しく頭を垂れる。この辺りまで蚊帳の外、ようやくキナコも母親の不穏な気配に気づいて慌て、

「他にも鯖猫が三匹いたのです」

 場を取り繕うためのそのひと言も、白玉の不興に油を注ぐのみ。

「そうか鯖猫が三匹も。ならば虎次郎、ちょうどいい、この虎猫の縄張りをその鯖猫どもを追い払いつつ川の向こう、葦原までも広げて来やれ」


 そう命じて一言付け加え、

「雄猫どもの役割ぞ、役目を貰えて有難いと思え」

 と言い置いて、ふいと笹藪の奥へ姿を隠した。


 にわかに騒めき始める虎猫の林、その様子は川の向こう、白雲、東雲、靄霧たちの耳を震わせて、何やら剣呑なその気配、念のために応援を頼むべしと、恐る恐る姉妹猫たちの背後に隠れる胡麻太の方を振り向きもせずただ一言、行って来い、とのみ命じた東雲の、額の黒筋、幅はいっそう狭くなっていった。

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