第4話 鯖猫心と初夏の空

 さて鯖猫の縄張りの外へと歩き出す虎次郎、後ろを行くのは東雲一匹、いってらっしゃい、ごゆっくり、と妙な言葉で見送る白雲と、姉の言葉の意味は汲まねど追従の、にゃあと一声、靄霧の姿は青草の陰にすぐに見えなくなっていった。


 初夏の青空に雲を運んで薫風吹き過ぎ、狗尾草の穂先の中を歩むのはただ二匹。


 東雲の目には前を行く虎次郎の鼻先から尻尾の先まで連なる虎縞が映る。長く旅を続けてきたのか、毛の先こそ擦れて日に焼け白っぽくなってはいるが、毛艶はまったく悪くない。足の運びもしっかりと、これならどのような土地もその足で歩いて行けるだろうと思わせる強靭さ。


 東雲はふと己の肩口、白雲や靄霧に朝な夕なに繕って貰い、毛の先までも鯖柄の、己の柔らかな毛並みと比べてみる。常日頃、成猫の雄は身近におらず、物珍しさの好奇心だと言い訳しながら、先を行く虎次郎の背中辺りに視線をさまよわせてそのまま、その耳先の両方にそこだけ雪のように白い斑点が歩みに従い上下するのを見るともなしに眺めていると、ふと、虎次郎がその足を止めて東雲を振り返った。


「ここから先の道が分からぬ、先に行ってはくれないか」


 道が分からぬから迷い込んだので案内を乞うのは至極当然、ただこの時機を見て言い出すのは東雲が、己の姿、毛並みを十分見極めたと察してのこと。人の娘であれば赤らんだ頬も、猫ならばその毛皮の内、素知らぬ顔で東雲が虎次郎の横をついとすり抜け前に出たとき、鯖と虎の腹の毛先が微かに触れ合ったような、虎次郎の尻尾が東雲の後ろ脚に触れたような。


 胡麻太が触れようものなら問答無用、爪の一閃、平手打ちだが、何事もなく袖を擦り合う縄張りの縁、葦の川原に出るまでは自分の姿を後ろから虎次郎が見ているかと思えばどこか落ち着かない心持ち。日の光にきらめく水面が現れて、ほっとしたのも正直半分。我らが縄張りはここまでで川を渡れば虎猫の縄張りと、告げて東雲はその場に腰を下ろして視線はまったくあさってに。後ろから付いてきた虎次郎がその傍らに身を寄せる。


「ここまで送っていただいて有難い。途中で放り出されたらどうしようかと思っていたが」

 面白がるようなその口調がどこか気に障り、振り向いた東雲の、その鼻先同士を軽く触れ合うのは猫同士の親しい挨拶。けれど先ほど見知ったばかりの雄猫と交わすようなものではないと前足を振り上げかけて躊躇して、虎次郎の目を睨む。なにか言ってやらねばと東雲が口を開こうとしたその時、いきなり川の向こうの葦原から、小柄な虎白の猫が飛び出してきた。


 三猫三様お互い一瞬動きが止まり、東雲は思わず黒目が丸くなる。先に口をきいたのは虎白の猫、これは白玉の君から物見を云い遣ってやってきたキナコで、豪胆というよりは若さゆえの思慮の無さ。


「あれ、二匹いる」


 と、自分の頭数は思慮のさらに外。東雲は前と後ろを虎皮に挟まれたこの状況に背の毛は逆立ち、耳は横。先ほどおそらく読まれた心の内の気まずさも隠しつつ、東雲は低い声で虎次郎に詰問する。

「もしや最初から手下をここに潜ませていたか」


 虎次郎は思わぬ事態に髭を捻る。

「いや全くそのようなことは。そもそもこの虎白とは面識が」

 そう云い掛けて虎次郎、おや、とキナコを見直して、虎皮同士が視線を合わせる。

 キナコの目の内、その金色の虹彩にちらりと覗く緑色。


 さらに丁度その時、鯖色の影がのっそりと、川原に姿を現した。


 三匹の視線を集めながらもしばらくは、その三匹の猫影に気づきもしない迂闊な鯖猫は、先ほどからアンコを咥えてうろうろしている胡麻太で、濡れた毛皮は舐めるより咥えてぶら下げ風に当てた方が乾きそうだとの思案の結果。


 視界の悪い葦原を抜けて川原に出て、さてと周りを見渡して、背を丸めて毛を逆立てる恐るべき姉の姿が目前にあるのにようやく気付き、思わず顎から力が抜け、アンコはぽちゃんと再び川の中へと落下した。東雲の耳はこれ以上無いぐらい後ろにぺったりと引き倒されて口からはしゃあと威嚇の声が漏れる。


 この事態に在って虎皮どもに背を向けるのも腹立たしいがやむを得ない、東雲は茫然と腰を抜かして動かない胡麻太を尻目に、流されるアンコに走り寄るが川の淵、水の中には入れない。どこか岩にでも引っ掛かってくれればと思うがそもそも溺れかけのアンコには何かに捕まるという判断は不可能で、東雲が必死に後を追っても手の出しようがなく焦燥ばかりが募りゆく。


 と、そこにざんぶと飛び込む水の音、虎次郎が猫には似合わぬ水練の、巧みな四肢捌きで流れを掻い分けアンコの首筋捕まえて、岸まで一気に引き上げた。

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