綾乃 晶 の 場合 08
ボクは守野さんの付き添いで七階の部屋まで辿り着き、守野さんと、
「晶ちゃん、体温計は?」
「ありません」
「風邪薬は?」
「ありません」
「え……」
というやり取りのあと、今は制服から上下スウェットの部屋着に着替えて寝室のベッドで布団を肩までかぶり横になっている。
守野さんは「少し電話してくる」と言い残し寝室から出ていったきりしばらく戻ってきていない。
外に出てまた熱が上がったのか部屋着が薄いのか、ちゃんと布団をかけていないと寒気がしてくる。
ボクはいったいなにをやってるんだ、今日は守野さんに迷惑をかけただけの日だったな、お金も使わせちゃったし……。
ボクは自分が情けなくなり大きな溜め息を吐き目を閉じると、右の目尻から涙が溢れてこめかみを伝い、耳に到達したので、寝る態勢を仰向けから右半身を下にした横向きにして枕で耳を拭いた。すると左の目頭から涙が零れて鼻梁を滑って枕に落ちる。
やはり瞼を閉じると目に涙が溜まってくるが、今のそれは熱のせいだけではない気がした。
もう一つ大きな溜め息を吐いたとき、ドアがノックされたのでボクは慌てて顔に付いた涙の筋を手で伸ばした。
「晶ちゃん、入っていい?」
「どうぞ」
ドアの向こうからした守野さんの声に答えると、L字ドアノブが倒され一呼吸の溜めのあと静かにドアが開き、今まで電話していたのだろう片手にスマートフォンを持ち守野さんが寝室へ入ってきた。ボクは上半身を起こしてそれを迎えると、
「晶ちゃん、寝てていいから」
そう言いながら大股でベッドの横まで来ると、フローリングに膝をつきスマフォをズボン尻ポケットに入れて、ボクの肩に手を置き寝かしつけると布団を肩まで掛けてくれた。
この人の優しさには頭が下がる。
「悪いと思ったけど冷蔵庫の中を見させてもらったの、あまりものが入ってないのね……薬もないって言うし買い物に行きたいのだけど、この部屋の鍵と玄関自動ドアのカードキーを貸してもらえないかしら?」
さすがにそんなことまでしてもらうのは悪い…と思うけど、正直買い物に行ける状態じゃないし……。
「何から何まですいません。カードキーはリュックの財布に、部屋の鍵はブレザーのポケットに入ってます」
ボクはベッドから腕を出して、机の横に置いたリュックと椅子の背もたれに掛けた制服を指さして言った。
ここは守野さんの親切に素直に甘えよう。
「じゃあ、勝手に取るわね」
守野さんはベッドに手をついて立ち上がると、まず壁のフックに掛けられたハンガーを取って皺を伸ばすようにして制服を掛けるとブレザーのポケットをまさぐり鍵を取り出して、次にリュックを開けると驚きの声を上げた。
「あー! お弁当箱中身入ったままじゃない、晶ちゃんお昼食べてなかったのね」
守野さんは二つのおにぎり型お弁当箱を両手に持つと、ボクに見せるようにしてそう言った。
「財布はそこじゃなくて外のポケットに入ってますから。お弁当は…忘れてました…」
「じゃあお腹空いちゃってるでしょ…」
気の毒そうな顔を向けてそう言うと振動音がし、守野さんはポケットからスマフォを取り出すと画面を確認した。
「ちょっと待ってて、二〇分くらいで戻るから」
守野さんはそう言うと、速足で部屋から出ていき、しばらくすると玄関ドアが閉まる音が聞こえ静かになった。
守野さん、お弁当箱を二つとも持ってどこに行ったんだろう……。
今まで守野さんに気を使わせないために平常を装っていたけど、一人になり気が抜けると途端に体調がツラくなってきた。
それに夕方を過ぎたこの時間帯の体温は一日の体温リズムの中で最も上昇するころでもあり、今身体がツラいのは緊張が解けただけということではなく正常な反応なんだろう。
熱に浮かされて呼吸が荒い、身体の節々が痛い、頭が脈拍に合わせてズキズキする状態で食べ物もない、薬もない一人暮らし……これ、守野さんがいなかったらボクどうなっていたんだろう。
守野さんの存在にとても安心感を覚えると同時に、迷惑をかけて申し訳ない気持ちとが考えのまとまらない頭の中でずっとせめぎ合っている。
ボクはなにか守野さんにお返しができるのだろうか……。
荒い呼吸で考えがまとまらないなか、一つだけ思い浮かんだことがあった。
神座さん、かな……。
神座さんに芽生えた新しい気持ちを知った今のボクには分かる。守野さんはどう見ても神座さんのことが好きで好きでしょうがない感じだ。
ボクなんかより、神座さんには優しくて温厚で親切でキレイな守野さんのような人が相応しいに決まってる。ボクの初めての気持ちなんて、もうどうでもいいや。なにか二人の仲を進展させるようなお手伝いをできることはないだろうか…。
しかし考えてみるとボクはそこまで神座さんと親しくはないし、前回の件で表面上温厚さは保っていたけどすでに嫌われてしまっているかもしれない。だとしたらボクにはなにもできることはなくて、神座さんがボクの気持ちに気づいているはずもなく…今後距離を取ったとして二人の間にボクが現れる以前の生活に戻るだけか。
結局ボクにはなにもできないんだな……。
高校生になったらなにかが変わると思ってたけど、一人暮らしも碌にできず、暴言を吐いた人に助けてもらって、なんとかなってる今のボクはまだ子供なんだと実感し、このまま熱を患いながら消えてしまいたいと思う。
ボクの気持ちがどん底に沈んで考えることすべてが卑屈になるも、熱のツラさにそれすらも思い浮かばなくなったとき、玄関のドアが開く音がして足音がこの部屋へと近づいてきた。
「晶ちゃん、入るわよ」
ノックのあと守野さんの声に反応してボクは上半身を起こすと、静かにドアを開けて隙間から身体を滑り込ませるように入っくる守野さんを迎えた。
「えっと…それ、どうしたんですか?」
守野さんは、蓋がされその空気穴から細く湯気が上がった小さな一人用の土鍋が載ったお盆を片手で慎重に持ち入ってくると、後ろ手にドアを閉めた手をお盆に添えてから、ゆっくりと机の前まで移動しお盆をそこへ置いた。
「お腹空いてると思って、急いで作ってきたの、それと薬も持ってきたわ」
見ると、お盆の上には土鍋に隠れるように開封され紙箱の中身が少ない市販総合風邪薬も一緒に載せられている。
「お茶碗持ってくるわね」
守野さんはボクの疑問の半分も答えずに颯爽とまた部屋を出ていった。
ボクは土鍋なんて持ってないし、そのお盆だっていったいどこから……土鍋からはとても良い匂いがしているけど、どこで食材を調達してなにを作ってきてくれたんだろう? そもそも買い物に行って食材とお盆と土鍋を買って帰ってきて料理を作って部屋に持ってきたにしては時間が早すぎるし、守野さんは玄関からこの部屋に直行だったはず。
「お待たせー」
ノックを省略してドアが開けられると、今度はボクが普段使っている見慣れたお茶碗とレンゲとミトンを手に守野さんが入ってきた。
「晶ちゃん、ツラいだろうけどこっちきて食べて」
手招きをする守野さんと食欲をそそられる匂いに誘われて、ボクはベッドから立ち上がりいつも勉強をしている机に移動した。
ボクが椅子に座ったのを見ると、守野さんはミトンを手にはめることなく土鍋蓋の上に置き、その上から右手で蓋の取っ手を掴んで開けると視界が包まれるほど湯気が一気に立ち上り、土鍋の保温性を鑑みてもまだ出来立て熱々なのが見て分かる。
湯気が落ち着き、改めて鍋の中を覗き込むと、これは……。
「卵雑炊ですね」
なんて美味しそうなんだろう。かつお出汁と生姜の良い匂い、そして短冊切りにされた茶色い油揚げも入っているけど、これはもしかして……。
守野さんはボクに微笑みかけるだけでなにも答えず、取った蓋は逆さにして机に置き、お茶碗に入れられたレンゲに持ち替えて土鍋の中身をお茶碗へとよそっていく。
お茶碗によそられて分かった。このご飯、ボクが今朝作った塩昆布おにぎりだ。
「さあ、食べて」
守野さんは少なめに盛って、レンゲを差し入れたお茶碗を机に置くとそう言った。
「いただきます」
「熱いから気をつけてね」
ボクはさっそくお茶碗を持ち上げて、雑炊をレンゲで掬うと息を吹きかけて冷まし口に運んだ。
出汁と塩昆布の絶妙な塩加減と、ただの雑炊かと思っていたらトロトロの餡になっていて口に運びやすく、よく味が絡んで美味しい。そして気になるのは、ほんのりと出汁の中に感じる甘いお味。
それを確かめるためにも今度は雑炊と一緒に茶色いお揚げを口の中へ。
お揚げを噛むと中に蓄えられた甘じょっぱい味付けの汁が口の中に溢れ出した。
やっぱりボクの好きな味付けのお揚げだ。
少なめに盛られたお茶碗を平らげて、ボクは土鍋に残った餡かけ雑炊をすべてお茶碗にさらった。
「美味しい?」
「美味しいです」
横から聞いてきた守野さんに即答すると、ボクは再び食べ始めた。
「よかったー……そうだ、お薬を飲むお水持ってくるわね」
守野さんは胸の前で軽く音が鳴るくらいに手を合わせて言うと、再び部屋の外へ出ていってしまった。
守野さんには感謝しかない。
おにぎり一個分のご飯だけでは少しもの足りないかもしれないけど、そこに出汁と卵と、好物のお揚げで嵩かさが増された雑炊にすることで丁度いい量になっている。
蓋が開けられたままになってよい具合に冷めた二杯目の雑炊は食べやすく、すぐに食べ終わってしまった。
そこに水を満たしたコップを持った守野さんが入ってきて、机に置いてくれたのでお盆に載った風邪薬を服用した。
ご飯を食べたからか少し元気が出てきた気がする。薬も飲んだし、じきに身体も楽になってくるだろう。
「晶ちゃん、食べて温まったからか、いっぱい汗かいてるね」
守野さんは土鍋の中にボクが使ったお茶碗とレンゲを静かに入れて上から蓋をすると、お盆に手を掛けた。
「私は洗い物してくるから、ベッドに入る前に一回着替えた方が良いかもね」
ボクはお盆を持ち上げようとする守野さんの手首を掴んだ。
「守野さん…」
今、元気になった内に言っておかなきゃ。
「どうしたの?」
守野さんは不思議そうにボクを見ながらお盆を持ち上げる動きを止めた。
「今日ボクが守野さんに会いたかったのは、謝ろうと思ってて……」
「いいのよ、もう気にしてないし」
守野さんは自分の手首を掴んでいるボクの手にそっと手を重ねると、優しくそう言った。
「私も晶ちゃんと初対面のとき、あなたがとても気にしてることを言ったでしょう。お相子ということでいいんじゃないかしら」
守野さんは、あのことを終わったこととして水に流そうとしている。
でも違う、これじゃボクが伝えたかったことをなに一つ守野さんに伝えられていない。こんな優しさに導かれて解決をしたんでは駄目なんだ、あのとき守野さんは勇気を持ってボクに秘密を明かしてくれたんだ、ボクも普通になるために押し隠しているものを言わないと守野さんに対して不公平過ぎる、対等じゃないじゃないか。
「ボク守野さんが羨ましくて、ボクこんな小さいんですけど大きい男になりたかったんです。けど、なれなくて」
どこまで守野さんに言えばいいんだろう。
「でも初めて自分が女でもいいかなと思えて、それなら守野さんみたいな女になろうと思った矢先、守野さんが……男、だと知って……」
守野さんはボクの言葉を無言で頷いて聞いてくれている。
「その身体は長身で手が大きくて男で、それが羨ましくてボクのなりたかったものを持ってるのに、女の格好をしてるそれが許せなくて……」
ボクは一旦言葉を切って悩んだ。ボクが守野さんに伝えるべきことは、もうここまででいいんじゃないかと、ここでボクの告白を終わらせればボクも守野さんとは性別が真逆のトランスジェンダーだったで終わる話だ。
怖い…人に秘密を告白する恐怖……そっか、あのとき守野さんもこんな恐怖と戦ってボクに秘密を打ち明けたんだろうな。
じゃあボクも、この恐怖に立ち向かわなければフェアじゃない。
守野さんの手首を握る手に力が入ってしまっていたことに気づき、力を緩めると一度大きく深呼吸をして、言葉を続けた。
「ボクこんな身体をしてるけど本当は男なんです!」
言った! ボクも守野さんに全部伝えることができた。
「まるであのときの繰り返しみたいね」
守野さんはボクを落ち着かせるように、手の甲をさすってくれている。
「つまり晶ちゃんは男性の心を持ったトランスジェンダーだったのね、それで欲しい身体を持っている私が女性の心を持っていたから、つい怒ってしまったという訳だったと」
……あれ? 伝わってない……。
「全然気づかなかったわ」
違う、ボクの身体は男で心も男で、それが数年前から身体が女になってきて、ある人と出会ってから心も女になってきた気がしてて……どう説明したらいいのか、熱のせいで頭が回らない。
しかし真意が伝わったかどうかはさておきボクが全てを告白したことには変わりないし、いっそのこと誤解されたこのままでもいいのではないだろうか……
「そうじゃ、ないんです」
いや駄目だろう、ボクは再び覚悟を決めた。
「見てください」
ボクは守野さんの掴んだ手首を離すと椅子から立ち上がり、上半身のスウェットとTシャツを同時に掴むと、お腹から捲り上げて床に脱ぎ捨てた。
「ちょっと…晶ちゃん?」
守野さんはいきなりスポーツブラを残して半裸になったボクに驚きを隠せなかったようだ。
でもこれだけじゃ足りない。
ターミネーター2でもダイソン家を襲撃しダイソン殺害を決意したサラ・コナーをすんでのところで止めたあと、ジョン・コナー、T-800、サラ・コナーを交えてこれから起こる未来を説明するためダイソンに対して行ったことは、見せることだった。
次にボクは緩めに結んだズボン紐を解いてスウェットを下げようとすると、その手を守野さんに掴まれ阻止された。
「駄目よ、突然こんなこと…」
スウェットを下げようとするも守野さんの力が強くてそれをさせてくれない。
「離してください、脱ぎたいんです!」
それでも守野さんはその手を離さない。
「駄目! 心が男性なのは分かったけど、私にも心の準備が…じゃなくて、気持ちは嬉しいけど晶ちゃんとそういう関係になるつもりはないのよー!」
だからそれが誤解なのに。
「ボクだってちゃんと守野さんに告白したいんですー!」
「ちょ、最近の告白って脱ぎながらするものなの⁉ それにしても順序くらい守りなさいよねっ!」
もうボクの手と腕は疲労の限界だ、そこに守野さんの手に更に力が入れられたので完全に負けを認めようとスウェットを下げようとしている手の力を抜いた。
「うわっ!」
「きゃっ!」
突然の肩透かしを食らった形になった守野さんは、スウェットを股に食い込ませてボクの身体を浮かすと態勢を崩して、すぐ後ろのベッドに二人で絡み合うように倒れ込んだ。
幸い倒れた衝撃はベッドが吸収してくれたのでどこも痛い箇所はない。
守野さんの方は、ボクの胸に顔を埋めて……ボク、股間を握られてる……?
「晶ちゃん、大丈夫…? 今どくから」
守野さんはボクの胸に埋もれた顔を上げて、股間に手をついたまま起き上がろとした。
「イタタタタ! 守野さん、そこに手をつかないでください!」
「え?」
守野さんは手を置いた股間の膨らみを確認するように、軽く数回揉んだ。
「んっ…やめっ……」
守野さんの表情がみるみる変わってくる。
「…えーーーーっ!!」
守野さんが驚きの声を上げると、廊下から走って部屋に近づく足音が聞こえ、勢いよくドアが開かれると意外な人がそこに現れた。
「どうした眞緒⁉ 綾乃さんになにか……」
部屋に入ってきたのは神座さんで、薬局のビニール袋に風邪薬やポカリスエットにウイダーインゼリー、レトルトのお粥などを入れて手に下げたまま、部屋に一歩入ったところで固まっている。
「どういう状況……? これ冷蔵庫入れてくる」
神座さんは回れ右をして部屋から出ると静かにドアが閉められ、足音が遠ざかっていった。
「え、なんで神座さんがここに?」
そしてなにより、半裸で守野さんに押し倒されてた状態でベッドに二人で横たわっているシーンだけを切り取って見られてしまった。
守野さんはボクの股間から手を外して、ボクに覆いかぶさった体勢から起き上がると、神座さんを追うように部屋を出て、
「神座くーーん、違うのーー!」
と声が遠ざかっていった。
ボクはこの隙に汗を吸った残りのスウェットと下着も脱ぎ、タンスから別の部屋着を出して着替えるとベッドに潜った。
もう、ここはすべて守野さんに任せよう。
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