綾乃 晶 の 場合 07

「綾乃さん、綾乃さーーん」


 名前を呼ぶ声と、肩を掴まれ揺すられる感覚に気が付き、ボクは眠りの中から呼び起された。


 目を開けると、覆いかぶさるようにして肩に手を置きボクの顔を覗き込む看護師さんの顔がある。


「そろそろ起きなさい」


 そっか、ボク寝ちゃったから……。


 だんだんと意識がハッキリとしてくるも、頭が痛く重くて眼球の奥が熱く、瞼を閉じると自然と眼に涙が溜まってくるという、なんとも最悪の体調だ。


 あー…もうお昼か、じゃあお弁当食べないと。


「もう四時過ぎたわよ」


 え……?


「寝てる間にお熱測ったらまだ三八度あったけど、一人で帰れる? 車で送ろうか?」


 看護師さんはボクの目が開くと肩から手を離して屈んだ姿勢から背中を伸ばしながら言った。


 四時……?


 ボクはスイッチが入ったかのように意識がハッキリし目を見開くと肩まで掛けている布団を勢いよく剥ぎ取って、上半身を起こし足をベッド下へ垂らすと靴を履いて立ち上がった。


「いえ大丈夫です、一人で帰れますから」


 ボクは壁のフックに吊るしたハンガーからブレザーを取って羽織りながら言う。


「本当に平気? 帰るならクラスの子がカバン持ってきてくれたから」


 看護師さんはデスク横のパイプ椅子に置かれたボクのリュックを指さしたので、ボクはそれを視認すると椅子の前まで歩み寄り、サイドポケットからスマートフォンを抜き取ってからリュックを背負った。


「あと帰るならちょっと待って、これで……」


「では失礼します、ありがとうございました」


 ボクは自分のバックから何かを取り出そうとしている後ろ姿の看護師さんに軽く頭を下げながらお礼を言うと、大学保健室から退出した。


 棟の廊下を速足でカフェテリアの方へ向かいながらスマフォの通知を見るとやはり守野さんからのメールが四〇分前に受信されていた。


 [どこで会うか決めてなかったから、カフェテリアで待ってるね]


 やっぱりカフェテリアだと思った。


 スマフォの時計で時間を確認すると一六時十五分、まさかこんなに寝てしまうなんて…なんでボクはアラームをセットしておかなかったんだろう。


 ボクは行き先がハッキリしたのでショルダーストラップと胸の間に親指を差し込んで掴みリュックを背中に密着させ、大きく膨らんだ邪魔な胸を寄せて幾らか固定させると速足から小走りに変えてカフェテリアへ急いだ。


 小走りにしてからすぐさまカフェテリアへ到着し、疎まばらながらも利用者のいるテーブルを見渡すと、室内の中央壁際のテーブルで腰掛けてスマフォ画面をスライドさせている守野さんを見つけた。


 ボクはリュックショルダーストラップを掴んだままテーブルの間を縫うように進むと、守野さんがそれに気付いたようでスマフォから顔を上げてこちらに手を振った。


「遅くなってすいませんでした」


ボクは守野さんのもとに到着するなりすぐに謝った。


「いいのよ、一五時半に授業が終わるって書いてあっただけで時間の指定まではなかったんだから」


 守野さんはスマフォをテーブルに置くと、こちらを見上げながらそう言った。


「でもボクから打診してきたのに…」


 そもそもボクが全部悪いのに……。


「気にしてないから、って晶ちゃん……?」


 守野さんは怪訝な顔になりボクの顔を覗き込む。


「寝ぐせ…? あなたひょっとして寝てたの?」


 え…そうか、看護師さんがボクを引き留めようとしたのは寝ぐせを指摘してくれようとして……。


 ボクが時間に遅れたせいで守野さんはずっと待ちぼうけ、しかもその遅れた理由はボクが寝過ごしていたからだなんて分かったら……。


 ボクの顔を見つめる守野さんの眉間にみるみると皺が寄っていくのが見て取れる。


 前回のボクがした守野さんへの暴言、十日間のメール無視、誘ったボクの寝過ごし遅刻、そりゃ今まで温厚だった守野さんも怒るよね。


 守野さんは勢いよく椅子から立ち上がるとボクの目の前に立った。


 こうして目の前に立たれると守野さんってやっぱり背が高いな、いつも話すときは屈んでくれてたから分からなかった。


 守野さんは静かにボクの顔の高さまで右手を上げた。


 あーあ……完全に嫌われちゃった……。


 ボクは身をこわ張らせギュッと目を閉じ、恐怖と衝撃と痛みに備えて呼吸を止めた。


 長く感じるけど二秒ほどだろうか、なんの衝撃もなく過ぎたころ、息が苦しくなり止めていた息を鼻から出し浅く吸い込んだ。


「晶ちゃん、触るね」


 ボクの頭より高い位置から声がすると、左頬を包み込むように優しく手が触れてきた。


「やっぱり、すごい熱じゃない! 保健室で寝てたのね」


 守野さんは慌ててテーブルのスマフォを拾い上げた。


「あー、今日神座くんは車じゃないし…図書館にいるときは電源切ってるしなぁ……」


 守野さんは手に持ったスマフォを操作しようとするも、それを止めて今まで座っていた椅子の背もたれに掛けたリュックサイドポケットにスマフォを差し込み、ショルダーストラップを掴み背もたれから持ち上げると同時にリュックを背負った。


「晶ちゃん、家まで送るから帰るよ」


 ボクに向き直り、ボクの左手を取るとそう言ってゆっくり歩きだした。


「え、でも…」


 ボクは手を引かれることにとくに抵抗することなく、ゆっくりとした歩調で守野さんに続きながら言った。


「こんな熱出してフラフラしてるのに一人で帰せるわけないじゃない、いいから行くわよ」


 しっかり歩いて立っていると自分では思っていたけど、守野さんからはそう映っていたみたいだ。


「待ってください、帰るなら外に出る前に」


 ボクは手を引き返し、守野さんの歩みを止めて手を離してもらうと、ちょうど空いている横の椅子にリュックを置いて荷室からサファリハットとサイドポケットからサングラスと薄手のUVカット手袋を出して身につけるとリュックを背負い直した。


「お待たせしました、これで大丈夫です」


「そっか、また私…何も考えず……」


 守野さんは再びボクの手を握るとゆっくり歩き始めたので、ボクもそれに合わせて二人で横並びになって歩みを進める。


「晶ちゃんのお家は、ここからどれくらいかかるの?」


 また頭上から守野さんが声が聞こえる。


「バスで二〇分くらいでしょうか」


 ボクは守野さんの顔を見上げるように答えるも目深にかぶったサファリハットの広いつばが邪魔をして、この近い距離だと覗き見ることはできなかった。


「バスはキャンパスにあるバス停から乗れるのでいいのかしら?」


 この芝に覆われ木々が茂り、コートがあり幾つもの棟が建てられた広大なキャンパスには外縁に沿うようにアスファルト舗装された道が伸びており路線バスが通っていて、そのバス停が設けられている。


 ボクもそのバスを利用していて棟の最寄りバス停でいつも乗り降りをしている。


「はい、棟を出てすぐ近くのバス停です」


 上を見ながら話すもやはり帽子が邪魔だ、顔が見れずに話をするのがこんなにも違和感があるなんて。


 棟の昇降口をくぐり一六時を過ぎてもまだ明るい日の下に出ると、春の風が露出した肌を撫でた。


「この時期でも今の時間帯になると寒いですね…」


 風が吹くたび露出した部分だけではなく、首元からボタンシャツの合わせから風が侵入して容赦なく体温を奪い、ボクの身体は小刻みな震えが止まらなくなった。


「え、今日寒くないわよ…って震えてるじゃない」


 そっか、ボクこんなに体調が悪かったんだ…少し歩いただけで心なしか呼吸も荒くなってきた気がする。


 しばらく歩くと両側と中心に視認性の良い黄色い線が引かれた片側一車線のキャンパス内道路と、道に沿うようにポリカーボネート屋根が設けられ、その下にベンチが置かれたバス停が見え、ちょうどそこへバスがハザードを付けて停留するところだった。


「バス来ちゃった、晶ちゃん急げる?」


 ボクはバスを確認すると急ごうとする守野さんに首を振り、


「いや、あのバスは路線が違います」


風邪のツラさと寒さで震えていることによる、荒い呼吸を整えてから口を開いた。


 そのバスを見送り、バス停に到着するとボクの利用しているバスは今から一五分後に来ることを確認してボクは守野さんに促うながされリュックを下ろすとベンチへと腰を掛けた。


 守野さんは風上に立ってくれて幾らか風を防いでくれているけど、風通りの良いベンチは座っていると立っているよりも寒く感じ顎が震え奥歯が鳴りはじめた。


 守野さんはボクの隣に座ると自分のリュックから薄手のブランケットを出して、ボクの肩に掛けて前で合わせてくれた。


「こんなに震えて、かわいそうに」


 そう言うと、守野さんはブランケットの上からボクの肩に手を回し自分の身体へ抱き寄せると腕を擦って温めようとしてくれる。


 あんなにも酷いことを言った人間に、この人はなんて優しく接してくれるんだろう、また謝らなくっちゃ…。


 しばらくの間、守野さんはボクの腕を擦り続けてくれたが、なにかに気が付きベンチから立ち上がると道に向かって手を上げた。


 なにをしているんだろう?


 疑問に思いながら守野さんの行動を見ていると、視界の端から道を走るハザードを付けたタクシーが現れてボクたちがいるバス停留所前に停車し後部座席ドアが開いた。


 守野さんはベンチに座ったボクの前に立ち、片手をボクの脇の下に差し入れて二の腕を掴むと持ち上げるようにしてボクを立ち上がらせて、乗車されるのを待つタクシーのドア開口部までエスコートした。


「晶ちゃん、乗って」


 ボクは身を屈めてタクシーに乗り込み、お尻を滑らせて奥にズレると、続いてそこに守野さんが乗車する。


 タクシーのドアが閉まり、風に当たらなくなると次第に身体の震えが治まってきた。


「どちらまで行きましょうか?」


 タクシーの運転手さんは運転席から防犯パネル越しにこちらを振り返り、行き先を尋ねた。


「晶ちゃん、案内できる?」


「はい大丈夫です、とりあえず正門から出て左に曲がってください」


 寒さによる顎の震えも治まり、喋りやすくなった。


 守野さんがシートベルトを締めたのを見て、ボクもそれに倣ならう。


「もう…これからは体調悪いときはちゃんと学校休みなさいよ」


 震えが止まり一安心したのか、先ほどと違うトーンで守野さんは話し始めた。


「私との約束のせいで無理させちゃったのかな? でもね、都合が悪くなったり体調が悪い理由で断りの連絡が来ても、そんなことで不機嫌になったりしないから、次はこんなことしちゃ駄目よ」


 怒られているんじゃなく、諭されるような心配させたことを叱られているような、守野さんの言葉をボクは温かく感じた。


 相変わらず身体は火照り、頭は重く痛みも続いているが、外気が遮断されガラスから入る春の日差しに温められた車内の温度が心地いい。それにタクシーの運転手さんはボクの体調をすぐ察してくれて暖房を入れてくれたこともあり車の振動も相まって眠ってしまいそうになる。


 しかしボクはその眠気を堪えて運転手さんに家までの道順を伝えると、バスで二〇分かかる道のりが一〇分で到着してしまった。それだけではなくいつもなら家最寄りのバス停まで歩いて五分ほどかかるところも省略された玄関前の到着にドアtoドアの素晴らしさを改めて思い知ったところだ。


「一六二〇円になります」


 タクシーを止めた運転手さんは片手に緑のプラスチック製カルトンを持ち、防犯パネル越しにこちらを向いて料金メーターに表示された金額を伝えた。といってもボクが道案内中に「あのマンションです」と案内を締めくくると玄関口へ到着する随分前に料金メーターを止めてくれていたので、本当ならもう少し運賃がかかっただろう。


 ボクはリュックの外ポケットのチャックを開いて手を入れると、そこに守野さんの手が翳かざされた。


「晶ちゃんに払わせるわけないでしょ……」


 守野さんは少し呆れるようにそう言うと、


「Suicaでお願いします」


と運転手さんに続けた。


 運転手さんはカルトンを引っ込めて代わりにICカード読み取りパットをアームレストに置いた。


「どうぞ」


 運転手さんの声を聞いてから守野さんは財布をそこに押し付け料金を支払うと、領収書が置かれたカルトンを差し出され、それを受け取った。


「ありがとうございました、お忘れ物ないようにお降りください」


 空になったカルトンを確認すると、運転手さんは左右の後部ドアを開放した。


「お世話になりました」


 守野さんはお礼を言ってタクシーから降りるとボクもそれに続いて、


「ありがとうございました」


と一声かけてからタクシーを降り、ボクと守野さんが離れるとドアが閉まり、運転手さんはクリップボードに挟まれた紙になにかを書き込んでいる。


「って……ここ、本当に晶ちゃんが住んでるところなの?」


 守野さんはマンションを見上げながら、ボクにそう確認をした。


「そうです、なにもできませんが上がっていってください」


 ボクは驚いた表情でまだマンションを見上げている守野さんに声をかけ、マンションの玄関口自動ドア横にあるカード読み取り部に財布を近づけて開けると、守野さんを手招きした。


「晶ちゃんはなにもしなくていいし、看病するつもりで来たから、もちろん上がっていくけど……」


 守野さんはどこか納得がいかないような顔をしながら玄関の自動ドアをくぐり、ボクの隣まで来ると手を取ってエレベーターエントランスホールを先に歩いた。


「守野さん、もう手繋がなくても大丈夫ですよ」


 ボクの先を歩きエレベーターの呼び出しボタンを押す守野さんにそう言った。


「さっきからフーフー呼吸してて、ずっとフラフラで何言ってるの」


 守野さんがそう言い終わるころにエレベーターが到着して、ドアが開く。


 守野さんはボクの手を引いてエレベーターに乗りこみ、


「ほら、何階?」


と尋ねる。


「七階です」


 ボクの答えを聞いた守野さんは閉ボタンを先に押して階数ボタンを押した。

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