綾乃 晶 の 場合 05

 この高校では、その日最終の授業が終わると中学校の頃のようなホームルームなどは行われず即解散となり、授業を大学キャンパス内で行う国立大学進学科の生徒でも部活に入っていならば放課後はほど近い高等部の校舎へと移動して部活動に専念することになっている。


 今日も部活に所属している約半数が素早く帰り支度を済ませて教室を退出していった。


 ボクは帰宅部なのと急いで家に帰る必要もないので、ゆっくりとDeuterリュックサックの上部開口部を開けると、捻じって四分の一に折り畳まれたつばの広いサファリハットを取り出して被り、リュックサイドポケットから眼鏡ケースを抜き取るとブラウンの丸レンズサングラスを取り出してその場でかけ、ケースは元の場所へ差し込んだ。


 紫外線対策をした後に、開口部から教科書や筆記用具をしまい入れるとリュックを背負い、チェストストラップとスタビライザーストラップを素早く留める。


 これで屋外を移動する準備は整った。といってもこれから帰路に就くわけではなくニ~三分外を歩き、図書館に向かうだけだ。


 この棟から図書館へと続く連絡通路はすでに発見しているのだけど、連絡通路を利用するのは真夏と真冬くらいだろうと今は考えていて、図書館の荘厳な外観を見ずしてあの建物に入りたくはないと思い、こうして外用の格好に身を包んでいる。


 図書館に行くのは、その日に出た宿題や明日の予習を済ませるためで、それが終わるとしばらく手持ちの本か図書館にある雑誌を読む、というのが放課後に行うボクの行動パターンとして定着してきている。どうも帰宅してしまうとスイッチが切り替わってしまい、宿題などをする気が薄れてしまうのだ。


 そんな身の入らない状態で嫌々机に向かうよりかは、素晴らしい外観と内装と本に囲まれて集中力が持続した環境の下で机に向かう方が身になるというもの。


 けっしてあれから会えていないあの人が図書館に来るかもしれない、という淡い期待をしてのことではないのだ。


 この日も宿題と予習を済ませて雑誌コーナーを回ったが、興味のある今月号の雑誌はあらかた読み終えてしまっているので、無理に興味の湧かない雑誌は手に取らず、ボクは荷物をまとめて図書館を後にした。


 スマートフォンの時計を見ると一七時四〇分。


 この時刻になると日は沈み、キャンパスに等間隔で立てられた外灯には明かりが灯っており、もう帽子もサングラスも必要ない。


 ボクは外灯の下を行き、カフェテリアへと向かう。


 カフェテリアの中は外とは違いLED照明で煌々としており、この部屋の特徴ともいえるガラス面は薄く外を窺い見ることはできるも大半は室内を反射するのみ、中途半端な時間帯で今はボク以外に利用者がいないことも相まって昼間とは違った雰囲気を醸し出している。


 ボクは食券販売機の前に立ち止まり、少し悩んで肉野菜炒め定食三六〇円のボタンを押すと財布をICカード読み取り部にかざした。


 ボクが図書館で過ごす理由にはもう一つの理由があって、大学カフェテリアで夕食を取るためでもある。


 ここは二〇時まで営業していて実験や研究やサークルに同好会活動、あるいは遅い講義時間その他諸々の理由で夜間も大学に残っている生徒たちの空腹を満たしている。驚きなのはこのカフェテリア、実はお持ち帰り専用容器も用意されており、夕食のお弁当として買っていく生徒も多いんだとか。それだけではなく夜間限定で大学キャンパス内ならお持ち帰り容器に詰めた状態で宅配もやっているという至れり尽くせりのスタイルだ。


 でもお持ち帰りや宅配だとお味噌汁が付かない。


 ボクは少し早い夕飯としてご飯とお味噌汁と二切れのきゅうりの漬物に、メインの肉野菜炒めが乗ったトレイをガラスに面したテーブルに置いてそこへ座った。


 日のある時間帯には避けている場所だけど、この時間なら大丈夫。でもガラスに映った女子高生姿の自分を見るのはまだ慣れない。


 ボクは右手のガラス面に反射し浮かび上がる自分の座った姿の全体像を左手で頬杖を突きながら観察すると、スカートの裾を少し摘まみ上げヒラヒラとさせてみた。


 自分は男だと思ってはいるけど、この姿はもう男のそれではない。


 ボクが男か女か、という街角一〇〇人アンケートを取っても女と書かれた側にだけ一〇〇枚のシールが貼られるだけだ。


 ボクはスカートの裾から手を離し、制服の上から自分の右胸を掴む。


 せめて低身長や女顔だけだったら誤魔化すこともできただろうに…こんなモノが、こんな大きなモノさえなければ……。


 ボクは手に力を込めて、掴んだ胸をスポーツブラのパットごと握り潰す。


 こんな膨らみさえなければ……潰れてしまえ。


 痛い、痛くて涙が出てくる。


 それでもボクは止めない。


 全部こいつが悪いんだ、こんなもの……


 こんなもの腐って落ちてしまえ!


「綾乃さん……?」


 後ろからした聴き覚えのある声で我に返り、ガラス面を見ると長身で筋肉質の人間が一人立っているのが分かる。


「なに、してるの……?」


 驚きで無意識に目が見開かれ、広がった瞳孔で改めてガラス面に反射した今している自分の姿を見てみると、スカートははだけ頬杖を突きながら自分の胸を掴んでいる女子高生なわけで……。


「あんまり、その…そういうことは……外では……」


 後ろで言いにくそうに頬を人差し指で掻きながら、しどろもどろに喋る様がガラスを通して窺い見れる。


 どうしよう……。


 あまりの恥ずかしさにボクの顔は今確実に真っ赤となっていることだろう。


「あー…おれ、行くね……」


「ちょ! 違うんです!」


 ボクは勢いよく後ろを振り向いて、この場から離れようとする人を呼び止める。


 何はどうあれ、今このままこの人を絶対帰すわけにはいかない。


「神座さん、ちょっと待って」


 ボクは急いで椅子から立ち上がり、歩き出そうとして後ろに振られた神座さんの右腕を両手で身体に掴み寄せて、それを制止させた。


「うわ、ちょっと」


 神座さんは咄嗟のことに驚いたようで、上半身を仰け反りボクから離れようとするが、ボクはそれを許さないために掴んだ腕を抱き寄せるようにして引っ張る。


「さっきのはですね…そういうのじゃ…ないん、ですよー……」


 自分の胸に腐って落ちろと念じてた、なんて言えない……。


「じ…実はですね、身体測定の結果を見たらボクおっぱいが大きくなってまして、ブラのサイズが一個上がっちゃったんですよー」


 ボクって今まで語尾を伸ばすような喋り方なんてしてたっけ……?


 神座さんの顔が困惑濃厚になっていくのが分かる……それもそのはず、神座さん相手になにを言ってるんだボクは……でも、もう今更止めることはできない。


「それでブラがキツくなっちゃいまして、こう…楽な位置をですね……誰もいないと思って胸ポジっていうんですか? 整えてただけなんですよー」


 これはもうボクの癖なんだろう、最後の乾いた笑いが苦しい言い訳だと物語っている。


「分かった、分かったから、そろそろ離してくれないかな……」


 本当に分かってくれたんだろうか、ボクは神座さんの顔を見上げて内心を推し量ろうとするも未だ困惑の表情と仰け反った上半身のままだ。


「綾乃さん…ちょっと、くっつきすぎだよ…」


 ん?


 視線を下げると、神座さんを行かせまいと腕にしがみついたこの体勢、筋肉が詰まって弾力のある逞しい腕にボクの胸が押し潰されている。


 この状況を理解したボクの心臓は跳ね上がり、激しいリズムを刻んだ。


 ボクの女の部分が男の腕に押し潰されてる。


 この腕を通してボクの鼓動は伝わってるかな? 伝わっていたらちょっと恥ずかしい……彼の腕を離さなきゃいけないのに、ボクは太く逞しい腕を放したくない。


 こんな腕をした男になりたいと思ってた。


 背が高く逞しい男に憧れ、自分もそうなるんだと夢見ていた。


 でも、もしかしたらそれは、なりたいという願望ではなく、強い男に惹かれていただけだったのだとしたら……。


 ボクはスネークになりたかったんじゃなく、スネークに恋をしていたのだとしたら……。


 神座さんの腕に抱き付き、押し潰されている胸の感触が気持ち良い……


「神座さん……」


 ボクは彼を見上げて名前を呼んだ。


「ボク……」


 このまま女になってしまっても……


「ちょっと神座くん、さっきから晶ちゃんと何やってるの…」


 ボクは慌ててしがみついた腕を放し、神座さんから飛ぶように一歩後退あとずさって身を離した。


「また転びそうになっちゃったの? 大丈夫だった?」


 守野さんがボクの横に小走りで近づいてきて、その長身を少し屈ませボクの目線と合わせると心配そうに言った。


 ボクは少し蒸気した頬に右手を当てると、その手を真っ直ぐ下ろし胸に手を当てる。


 心臓から、速いリズムで一回が力強い鼓動が手に伝わってくる、心なしか呼吸も少し荒い。


「あー、晶ちゃん、怖かったねー」


 そう言うと、横にいる守野さんは左腕を後ろからボクの左肩に回し右手を二の腕辺りに当てて軽くさすった。


 一度大きく息を吸い、長く静かに口から息を吐く。


「もう大丈夫です、落ち着きました」


 ボクは横にある守野さんの顔を視界の端にとらえるくらいに向いて、そう言った。


 長身の守野さんにこうして肩を抱かれると、このまま包み込まれてしまうんじゃないかと錯覚するほど自分の低身長さを実感してしまう。


「神座さんも、変なこと言ったりして、すいませんでした」


 ボクは守野さんから視線を正面に戻し、神座さんに向き直るとそう言った。


「こっちこそごめん…タイミングが悪かったね……」


 神座さんは人差し指で耳の後ろを掻きながら、皆まで言わずに言った。


「タイミング?」


 守野さんはその言葉に反応し、まだボクの肩を抱いたまま神座さんの方を見て、


「あー…神座くんのタイミングの悪さ、ね……」


なにかあったらしい、納得したようにそう言った。


「あの、守野さん……」


 ボクは後ろから腕を回され左肩に置かれた守野さんの手を静かに剝がして、その場で身体を彼女に向けると、彼女も身体をボクから離して屈んだ姿勢を正し、ボクに向き直った。


「この間は……」


「ううん、いいの! 晶ちゃんは悪くないの」


 守野さんはボクの言葉を遮るように両手を胸の前で振りながらそう言うと、あとを続ける。


「私が晶ちゃんのことをなんにも考えずに、苦労も知らずに、羨ましいだとかジロジロ観察するようにしたこと、悪気はなかったのだけど本当にごめんなさい」


 守野さんはお腹の前で緩く手を組むと、腰から身体を前に倒しボクに謝罪した。


「ボクの方こそ、一言でもちゃんと気持ちを伝えればよかったんです。それを何も言わずに去ったりして、すいませんでした」


 ボクも守野さんに頭を下げた。


 お互いが向き合い、頭を下げ合って何秒過ぎただろうか。


「長くなりそうだし、これくらいにして。綾乃さん、ご飯中でしょ」


 神座さんの言葉でハッとなり頭を上げて座っていたテーブルを見る。


 そうだ、神座さんが助け船を出してくれるまで肉野菜炒めに一口も手を付けてないということをすっかり忘れていた。


「え、晶ちゃんご飯中? 邪魔しちゃってごめんなさい」


 守野さんも頭を上げると、また申し訳なさそうに謝った。


「ねえ神座くん、今から私たちも晶ちゃんと一緒にご飯食べようよ」


「えっと、一緒にいいかな?」


 守野さんの提案に神座さんはボクを見てそう尋ねてきた。


「もちろんです」


 ボクはそれを笑顔で許諾すると、守野さんは神座さんに歩み寄り彼の手を取って引っ張るように食券販売機の方へ移動していく。


 そこ別に手を繋いで行かなくてもいいよね。


 神座さんは守野さんをパーソナルスペースが狭いと言っていたけど、ボクは自然に彼の手を取れる彼女が羨ましいと思えた。


 でもやっぱりあの距離が近いベタベタ感は怪しいと思うしモヤモヤする。


 ボクは手を繋がれた姿から目を逸らすようにして、定食を放置していたテーブルへ戻り、腰を掛けて二人を待った。


「お待たせー」


 一足先にトレイを持った守野さんがテーブルに近づくと、そう声をかけた。


「食べてくれててもよかったのに。でも晶ちゃんなら待っててくれると思ったから…」


 守野さんはボクと対面する椅子の前で立ち止まると、自分の持ってきたトレイをボクの定食が載ったトレイの横に置き、ボクのトレイを自分の方に引き寄せて向きを変えた。


「晶ちゃんの冷めちゃったでしょ、同じの買ってきたからそっちを食べて」


 守野さんは背負っていたリュックを椅子の背もたれにかけて座りながら言った。


 たしかに守野さんが持ってきたトレイにはボクが注文したのと同じ肉野菜炒め定食が載っているが……。


「悪いですよ」


 さすがにすんなりとは受け取れない。


「いーの」


 守野さんは歯を見せながら手の平をボクに向けて制止し、


「好きでやってるんだから遠慮しないで」


と笑顔で言うと、手を合わせてからお箸を取って野菜炒めを口に運んだ。


「あ……じゃあ遠慮なく」


 横に置かれたトレイを正面に引き寄せると、ボクも手を合わせてからお箸を取り、温かい野菜炒めを口に入れた。


 火を通し過ぎていないシャキシャキの野菜の歯ごたえを感じ、噛むたびに小気味いい音が口から響いてくる。


「お待たせ、って待ってないか…」


 神座さんは二枚のフライの上にタルタルソースがたっぷりとのった白身魚フライ定食を載せたトレイを守野さんの隣へ置いて椅子の背もたれにリュックを掛け、そこに座った。


 自然と守野さんの隣に座っちゃうんだ…。


 ボクはリュックに塞がれた隣の椅子を見て、次からは自分のリュックは空いた椅子の座面には置かず、座る椅子の背もたれに掛けようと思った。


「ところで、なんで晶ちゃんはこんな時間まで大学に残ってるの?」


 守野さんはお茶碗とお箸を持ったままボクに視線を向けて言った。


「図書館で今日の宿題と明日の予習を済ませてたら、この時間になっちゃいまして」


 ボクは口の物を飲み込んでから答えた。


「へー、偉いね。でも、帰ったらご飯用意されてるんじゃない?」


 守野さんは少し不思議そうに首を傾げながら言った。


 ボクのことを大食いだとでも思ったのだろうか。


「いえ、今親とは離れて暮らしてて、ボクはこの高校に通うために一人暮らししてるんです。お弁当を買ったり、一人分を作るよりはここで食べて帰った方が良いと思いまして」


「え、そうなの⁉ 高校生から女の子の一人暮らしだなんてご両親心配でしょうに」


 守野さんはお箸を持った手で、口を塞ぎながら驚き、


「あっ、あんまり一人暮らししてるって人に言っちゃダメよ」


と付け加えた。


「あー、親からもそう言われているんでした」


 でもなんで言わなくてもいいことを、ここで言ってしまったんだろう……。


 ボクは目だけを動かし神座さんの方を見ると半分ほどになった白身魚フライをお箸でタルタルソースを落とさないよう挟み上げ、サクサクっと衣を鳴らしながら大口で齧かぶり付いていた。


 その男らしい食べ方からはボクの一人暮らし云々の話に関心があるかどうか伺い知れない。


 神座さんはそこからご飯を口に入れて、しばらくしてから全てを飲み込むと、


「じゃあ眞緒と連絡先交換して、何かあったときヘルプをお願いできるようにしとけば?」


突然の提案をした。


 連絡先⁉ この流れでいけば、神座さんのメールアドレスもゲットできるかも。


「あ、それいい。晶ちゃん、そうしよ」


 守野さんは背もたれに掛けたリュックのサイドポケットからスマートフォンを取り出してなにやら画面をタップし始めたので、ボクも期待に満ちた心中を顔に出さないよう隣の椅子に置いたリュックのサイドポケットに入れたスマートフォンを抜き取って電源ボタンを押した。


「はい、これ」


 そう言うと守野さんは腕を伸ばして画面が見えるようボクの前にスマフォを置いた。


 見ると画面にはQRコードと下部にソーシャルゲームの動く広告が表示されていた。


「そのQRコード読み込んだら、私のメールアドレスが出るからメールを送ってくれる」


 ボクはスマフォをタップしてQRコードスキャナーのアプリを起動させ、守野さんのスマフォ画面にフロントカメラレンズを向けると、一瞬で読み取られ表示されたメルアドをタップする。画面がメール作成画面に切り替わり、ボクは本文に自分の名前とスマフォの電話番号を入力し送信した。


 数秒経つと守野さんのスマフォが振動し、彼女はまた腕を伸ばして自分のスマフォを拾い上げると画面を確認して親指でタップを始めた。


「あ、名前と電話番号も書いてくれてる。晶ちゃんありがとうね」


 そう守野さんが言い終わると同時くらいにボクのスマフォが一度振動を開始し、止んだ。


「今のワンコールは私、電話番号も登録お願いします。あと……」


 今度はメールが届き、着信を告げる振動が終わらない内にボクは新着メールをタップして受信したメールを確認した。


「私の名前の漢字はこう書きます」


 受信メールには[守野眞緒 よろしく]と書かれていた。


「登録しました、よろしくお願いします」


「こちらこそよろしくね、晶ちゃん」


 神座さんとも連絡先交換したいんだけど、教えてくれないのかな……。


 ボクはまた神座さんを盗み見ると、彼は二枚目のフライをやはり大口で食べ進めていた。


 それを見て、スマフォを置くとボクも野菜炒めとご飯を口に運び入れる。


「ねえ神座くんは晶ちゃんに教えてあげないの?」


 守野さんは隣の神座さんへ上半身を傾けながら言った。


 守野さん、それ聞いてくれてありがとうございます。


「え、女子高生と連絡先交換していいの? 綾乃さんだっておれに教えたいとは思ってな……」


「神座さんの連絡先教えてください!」


 ボクはお茶碗とお箸を置くと、スマフォを急いで拾い上げながら前屈みになって言った。


「お、おう」


 神座さんはボクの押しに少したじろぎながらも、お箸とお茶碗を置いてジーンズ右ヒップポケットからスマフォを取り出す。


「神座くん、私が晶ちゃんにメールで送るよ」


「ああそっか、お願い」


 神座さんは少し考えると、そう言ってスマフォをテーブルに置いた。


 本当は神座さんから直接教えてもらいたかったけど……たしかに、お互いのメルアドを知ってる守野さんからメールで送ってもらった方が楽だし自然な流れだ。何はともあれ神座さんの連絡先が手に入るのは願ったりだ。


 しばらくすると手に持ったスマフォが振動したので新着メールの通知をタップする。


「晶ちゃんのメルアドと電話番号を送るから、ちょっと待ってて」


「いえ、神座さんには自分で送りますから大丈夫です」


 守野さんがスマフォに指をかけようとしているのをそう言って止めさせ、自分のスマフォ画面に表示されている彼女からのメールに貼られたメールアドレスをタップし神座さん宛のメール作成画面を出し、


[綾乃晶です。さっきはお騒がせしました、守野さんに言わないでくれてありがとうございます。]


とフリック入力をすると送信をタップした。


 少しして神座さんのスマフォがテーブルの上で振動し、彼はそれを持ち上げるとメール内容を見たのか微かに目が大きくなり一度顔を上げてボクを見ると、視線をスマフォに戻しタップし始めた。


 返信をくれるのかな?


 予想した通り、ボクのスマフォにメールの着信があり、


[けっこう力強いんだね]


と書かれたメールが届いた。


 神座さんはこちらを見て微笑んでいる。


 さっきのことを思い出し恥ずかしさもあったが、純粋に力強さを褒められたことは嬉しい。


 神座さんから初めて来たメールの内容と照れくささと彼の微笑みにつられてボクの口角も自然と上がっていくのを感じた。


「なになに二人でー、怪しいんですけどー」


 守野さんは、スマフォで口元を隠すボクと神座さんを見比べると口を尖らせながら不平を漏らした。


 神座さんはそんな守野さんになにも言わず、中断していた食事を再開すると残った四分の一ほどの白身魚フライを口に入れてサクサクと口から音を立てながら、お皿に余ったタルタルソースをお箸で掬すくい上げて付け合わせの千切りキャベツにのせる作業をしている。


 それを見て情報は得られないと判断したのか、守野さんも渋々と食事を再開し、肉野菜炒めにお箸を付けていった。


 神座さんを見るとタルタルソースを乗せた千切りキャベツの山を口に押し込むようにして入れ二口で食べ終え、トレイの上を平らげるとお箸を横向きに置き、紙ナプキンを両手で口に当てて丁寧に拭った。


 ボクももう食べ終わりそうだけど、神座さんは食べるの早いんだな。


「相変わらず食べるの早いわね……」


 守野さんが隣を見ながら感心したような声を漏らす。


「おれ、食事中に会話するのが苦手でさ、あと人に食べてるところ見られてるのも恥ずかしくって……」


 え、神座さんにそんな一面が。


「だからさっさと食べ終えて、恥ずかしさを感じることなく気持ちよく会話に参加したいと思って、つい早食いしちゃうんだよ」


 そういえば前回一緒にお昼食べた時も神座さんが饒舌になったのは食べ終わってからだったような、珈琲を二人で飲んだときは最初から饒舌だったし……。


「分かる、知らない人の前で食事をしたりすると私も恥ずかしいと思うときあるもん」


 守野さんも概ねそれには同意見みたいだ。


「友達同士でも恥ずかしさの度合いは下がるけど、やっぱり恥ずかしいんだよね…」


 守野さんの意見とは少し違うんだと、補足を足すように神座さんは言った。


「なにそれー」


 神座さんの言葉に守野さんは笑いながらそう言う。


 食事中に無口になるのと大口で食べてるのにはそんな理由があって、神座さんも男らしいだけの人間じゃなかったんだ。


 神座さんの意外な一面が見れて嬉しい、そして神座さんのことをもっとよく知りたい。


「どうしたの晶ちゃん、神座くんのほうをジッと見て」


「えっ⁉ べ、べつに見てませんけど……」


 ボクは守野さんの指摘にハッとなって頭かぶりを振るが、こういうのをなんて表現したらいいんだろう…長身で体躯が良くて頭が良さそうで完璧だと思っていた人が見せる……ギャップ? いやこれは、


「神座さんにも可愛いところがあるんだと思いまして」


人間にも兵器にも弱みがなければ可愛げがない、というやつだろうか。


 ボクは安易に可愛いと言ったり言われたりするのは好きではないけど、この場合は素直にそう感じてしまった。


「カワイイ車にも乗ってるもんね」


 横からボクの可愛い発言に守野さんが被せて言った。


「おれは可愛くないぞ…ってあの車はカワイイんじゃなくてカッコイイの」


 神座さんは発言を訂正するように言うが、守野さんは笑いながら、


「えー、小っちゃくてカワイイじゃん」


と暖簾に腕押しだ。


「あー、晶ちゃん…」


 守野さんは神座さんとのやり取りを終了させると、身体を正面に向けて対面のボクを見ると少し声のトーンを落として名前を呼んだ。


「はい」


 なんだろう?


「私と仲良くなって、もしかしたら他の人から言われちゃうと困惑すると思うから先に言っておくね」


 え…? やっぱり神座さんと付き合ってるとか、そういう話なのかな? そうだとしてボクは神座さんを諦められるだろうか……。


「眞緒…」


 神座さんも守野さんを少し気遣うように声を発するが、


「大丈夫、言っておきたいの」


と神座さんに手の平を向けて言った。


「もしかしたら晶ちゃんは気づいてるかもしれないんだけど……」


 やっぱり、二人は付き合ってるってボクに言っておきたいんだ。ボクの方こそ守野さんに気づかれていたなんて……でもなんであのとき、神座さんは守野さんと付き合ってないって言ったんだろう。


「私、女の子じゃ……ないの」


 えっと、もしかして……守野さんもボクと同じ両性具有の身体をしていているってこと?


 すごい、初めてボクと同じ身体を持った人に出会えた。こんな特異な身体をしているのはボクだけじゃないっていうのは分かりきっていたことだけど、こうして実際に目の前にすると今まで靄のようなものだったものをやっと掴み取れた気分だ。


「すごい、初めて見ました」


 嬉しさに湧き上がったボクの口からは自然と、そう言葉が溢れた。


「そうよね、高校生がトランスジェンダーを見る機会なんてないものね」


 トランスジェンダー……?


「でも良かった、晶ちゃんがそういうの気にしない人で」


 守野さんは緊張の糸が切れたのか、胸に手を当てると顔を綻ばせ息を吐いた。


「トランスジェンダーって……じゃあその胸は?」


 ボクは守野さんの小さいが二つの膨らみがある胸に視線を向けた。


「これはエストロゲン、女性ホルモンを服用しているの」


 男なのにわざわざ女性ホルモンを飲んでる……?


「晶ちゃん、ちょっとビックリしたみたいね」


 守野さんは上半身をテーブルにもたれさせるようにして少しボクと距離を縮め、覗き込むようにして言った。


 この人はボクが憧れていた完璧な男の身体を自ら壊したんだ……ボクがどんなに望んでも手に入れることができない身長もあって手も大きい身体を。


「守野さん、男なんですか?」


 ボクはテーブルの一点を見つめながら言う。


「違うの、私は女の子なの。ただ身体が違っちゃっただけで……」


 守野さんは首を振りながらそれを否定し、右手を胸に当てながら反論した。


「身体がってなんですか、立派な男じゃないですか!」


「綾乃さん……?」


 声の大きくなったボクを諫いさめるように、静かに神座さんはボクの名前を呼んだ。


「男なのになんでそんな格好してるんですか、喋り方だって…そんな……」


 せめて身体はこのままでも守野さんくらい身長が伸びればいいなと思ってたのに、カッコイイ女の人だと思ってたのに、どうせ女になるなら守野さんみたいな女になろうと思ってたのに。


「ごめんね……騙してたと思われちゃったのかな……」


 守野さんの声は少しか細くなり、胸に当てられていた右手は硬く握りしめられた形に変わっていた。


「でもそんな、性別のこと言わないでよ……私はこの格好が私だし、女の自分でいたいの、正しい性で生きていきたいの」


「正しい性ってなんですか、それならもっと男らしく普通に生きればいいじゃないですか…ボクには……」


 ボクにはできなかった普通のそれを投げ捨てるなんて。


「綾乃さん、その人が好きなように生きちゃ駄目なのかな?」


 神座さんが穏やかな声で言った。


「普通の定義ってなんなんだろうね? 普通とはどの程度まで認められるんだろう? 多数決、人気と不人気、マジョリティーとマイノリティー。数の多い方が普通で、少ない方が普通じゃないんだろうか?」


 普通は……普通に決まってるじゃないか……。


 一呼吸おいて神座さんは続ける。


「仮に自分が普通ではないと自覚しているとして、普通を装い普通の中に溶け込んだ方が降りかかる苦難は少ないかもしれない。でも心苦しそうだ」


 普通じゃないボクはいつも奇異の目で見られていたんだ。


 幼稚園のときに手を繋ぐのを拒否された思い出、小学校のころに普通じゃない容姿のせいで虐められた思い出。


 でも中学になって友達ができて、ボクは容姿以外を普通になろうと思った。勉強が人よりできることでボクを頼ってくれた。なら友達のためにもっと勉強を頑張ろうと思った、勉強ができるただの中学生になろうと思ったんだ。


「普通ではない自分をさらけ出したら心苦しさは晴れるだろうけど、数の多い普通の人たちからは白い目で見られるだけではなく異端と決めつけられ、危害を加えられてしまうかもしれない。そんな世の中で普通ではないことをさらけ出すのはとても勇気がいることだとは思わないかい?」


 この高校へ来たのは普通じゃない自分が知られる勇気がなかったから?


 ボクは必死に普通になろうと思ってきた……胸が大きくなって、普通じゃないのが友達にバレるのが怖くて遠くの高校へ逃げた。


 あのときボクに勇気があれば、エスカレーター式にあのクラスメイトと進級し、今もまだ変わらない高校生活を送れていたのではないか。


「綾乃さんはもしかして、普通を押し付けられて普通じゃない自分を押し隠して我慢しながら生きているのかな?」


 かつての友達を信じることなく普通の高校生へ逃げたボクは、今普通ではないことを打ち明けてくれた守野さんを責めている……。


「…ボクは……」


 ボクは普通の男になりたかった。


 でも神座さんに惹かれて……でも次の瞬間、守野さんが実は高身長の男の身体を持っていて、ボクの持っていないものを持っているにもかかわらず、それを捨て去ろうとしていることに怒って……。


 いや、いつも神座さんの隣にいて女だと思っていたのが男で、ボクが欲しいものを二つも持っている守野さんに嫉妬したんだ。


 嫉妬を普通にかこつけて、ボクは守野さんを虐げようとした……。


「すいません……本当にすいませんでした」


 ボクは椅子から立ち上がり、背もたれのリュックを掴み上げ身体に抱えると小走りでこの場から離れた。


 視界の端に二人が映ったとき、守野さんは座ったまま隣へ上半身を傾けて神座さんの肩に額で寄り掛かるような形になると、その頭へ手が伸びようとしているところだった。


 こんなときでも心に嫉妬が湧き上がってしまうのが分かる。


 でも守野さんは言わずもがな神座さんにも、嫌われてしまっただろうな。


 神座さんの存在でこの身体に割り切りが付いたと思ったのに、守野さんの身体が羨ましいとも思った。


 ボクは、もうどっちか分かんなくなっちゃったよ……。

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