綾乃 晶 の 場合 03

「さっきはごめんね、なにか用だった?」


 ボクは目線をテーブルから上げると、この場では数少ない知った穏やかな顔がそこにあった。


「あ、いえ、用ってほどのことでは……」


 神座さんはボクと対面する椅子を引き、静かに座ると手に持ったリュックを隣の空いている椅子に置いてボクの方に向き直る。


 神座さんの服や髪に着いた葉巻と珈琲の匂いがボクの鼻腔をくすぐった。


 あれ? なんだろう神座さんを前にした瞬間、頭が真っ白になって聞きたいことを全部忘れちゃった……えっと、葉巻のこととか、身体の鍛え方とか、あと……そうだ。


「神座さん、ボクのことをアルビノって言いましたけど、いつから気付いてたんですか?」


 ボクはまず、そのことを聞きたかった。


「最初から気づいてたよ」


 やっぱり……。


「見れば分かる、っていうのも中学生のときクラスメイトに一人アルビノの人がいてね、そのことを知らない人間から好奇の目に晒されているのを見ていて気の毒に思っていたんだ」


 そうか、だから神座さんはボクの外見のことは何一つ言わなかったんだ。


「アルビノ、眼皮膚白皮症は平成二七年七月一日施行で国から難病指定をされた症状でもある。昼食のときは眞緒がそれをキレイだとか羨ましいなんて言って、綾乃さんが気分を害した気持ちも分かるよ」


 この人は分かってくれていた……見た目についての偏見の言葉や悪気は無いけど傷つく言葉はボクにいつも付き纏っている。でもこの人は見た目なんか関係なく、気遣う所は気遣い、ボクをボクとして見てくれる人なんだ。


「彼女にはあの後、少し言っておいたんだけど、そしたら謝らなきゃ、って言っていたよ。だから謝罪があったときは彼女を許してあげて欲しい」


 あー、守野さんか……あれはアルビノである外見について言われただけでなく、ボクが高身長に嫉妬していたのも一因でもある訳で……今にして思えばあんな去り方しなければよかった。


「はい、あれはボクの方も大人気なかったと思ってますから、ボクの方からも謝りたいです」


 ボクは目の前の神座さんに笑顔で言った。すると神座さんは少し曇った表情が明るくなり、


「そっか、ありがとう」


と自分のことのように言った。


「そういえば守野さんと一緒じゃないんですね」


 謝るんだったら早い方が良いし、神座さんがいてくれた方がやりやすいんだけどな……。


「眞緒ならゼミが終わったらバイトがあると言って別れたよ」


「そうですか」


 ああ、もう大学内にはいないのか……。


 ボクは残念なような少しホッとしたような気持ちを誤魔化すために、珈琲を一口飲んだ。


「綾乃さんも珈琲を飲むんだね、缶コーヒーとかではなくコンビニの一杯点たて珈琲を飲んでるあたり珈琲好きと見た」


 神座さんも相当珈琲が好きなんだろうな、やっぱり珈琲好きの人は外で珈琲を飲むときコンビニ珈琲を選ぶ傾向にあるんだと思う。


「はい、珈琲は好きでよく飲みます」


 そりゃ珈琲は男の飲み物だからね。


 ボクも神座さんに色々質問したい事があったんだ。


「あの……」


 神座さんは自分の紙コップに手を伸ばしているところで、カフスボタンが留められていない袖口からは手首が露あらわになり、発達した前腕部の筋肉が見え隠れした。


 あ…太い腕、触りたい……。


「なに?」


 神座さんは紙コップを口の高さまで持ち上げ、ボクに首を傾げながらながら言った。


 前腕が立てられると白いボタンシャツの袖は肘辺りまで落ち、神座さんの太い前腕部が丸見えになった。


 そこで神座さんは静かに紙コップに口を付けて珈琲を流し込む。


 ボクはその一連の動きに見惚れてしまい、神座さんの口が紙コップに付いた瞬間、ボクの胸は一度だけ大きく脈動した。


 なんだろう今の、誰かに驚かされたときのように心臓が跳ねた。


 ボクは今起きた身体の異変を悟られないよう少し呼吸を整え、


「あの、守野さんとは付き合ってるんですか?」


と自分が思ってもいない言葉が口から出たことに驚いた。


 なんでだ⁉ こんなことを聞こうと思ってたわけじゃないのに……。


「綾乃さんにはそう見えたかな?」


 神座さんは軽く笑いながらそう言うと、紙コップをテーブルに置いた。


 やっぱり付き合ってるのかな……。


「眞緒とは付き合ってないよ」


 まだ少し笑っていて手で口元を隠しながら言った。


 でも、守野さんは神座さんの腕に絡みついて顔を近づけたりしてたし…。


「でも、二人共くっついたりしてましたよね?」


 あれ、ボクはさっきからいったい何を言っているのだろう?


「あれね、眞緒は仲良くなるとパーソナルスペースが極端に狭くなるんだよ。あと仲良くなりたいと思った相手ともね、綾乃さんにもそう接してたでしょ」


 ああ確かに、初対面のボクに話しかけるときも近かったし手も突然握ってきたっけ。でも男にやるのと女だと思っているボクにやるのとでは違うのでは……じゃあボクも神座さんの腕に触っても、良いのかな?


 ボクはテーブルに置かれた神座さんの手を見ると、そこからだんだん視線を上げていき黒いTシャツのⅤ字襟から覗く胸元で止まった。


 そういえばボクはさっき抱き付いてあの胸に顔を埋めてたんだっけ、思い出すと変な気持ちに……。


「綾乃さん、顔赤いけど大丈夫かい?」


「え⁉ あ、赤いですか?」


 ボクは思わず両手を軽く握り、指の甲側を頬に当てて顔の温度を確かめる。


 ボクはなんでこんなにもさっきから動揺しっぱなしなんだろう。


「本当に大丈夫かい?」


 先ほどからボクの視線が胸元に囚われていることを露も知らない神座さんは、テーブルに両手を付いて座りながらも対面からボクの顔を覗き込むように身を乗り出してきた。


 神座さんの上半身が屈むような形になったためにシャツの胸元が開き、更にそこから見える面積が広がったのをボクは見逃さず、尚更視線を逸らせなくなってしまった。


 神座さんはボクのことを心配してくれるのに……どうしよう、さっきから変な感情が湧き上がってきて神座さんをちゃんと見れない。


「サンバーン、っていう訳じゃないよね」


 ボクらアルビノは日差しの強いとき、短時間でも日光に当たると皮膚が赤くなる日焼け状態になってしまう。


 アルビノはメラニンの量が常人に比べて圧倒的に少ない。メラニンには紫外線による日焼けやDNAの破壊から身を守る働きがあるが、それがないボクらは紫外線の耐性が極めて低く皮膚で紫外線を遮断できない。


 それは皮膚だけではなく色彩や瞳孔にもいえ、脈絡膜および網膜色素上皮における色素欠乏のため網膜上での光の受容が不十分で視力が弱い人が多い。色彩に色素がないために遮光性が十分ではなく光がとても眩しく見える。


 そこを分かった上だと思う、神座さんがいうサンバーンの心配は今まで医者と家族以外でかけられたことがないものだった。


「あ、いえ…屋外に出るときは帽子とサングラスで日光を防いでますし、UVカットクリームもちゃんと塗ってあるので日焼けじゃないです」


 原因の心当たりはあるけど。それを言いたくないしボク自身それを認めたくない。


「えっと、珈琲のカフェインで少し興奮しちゃったのかな、たぶん……」


 あまりにも無理矢理な言い訳を誤魔化すように、ボクは言葉の最後で乾いた笑いが出てしまう。


 神座さんはボクの言い訳を聞き終えると、テーブルに乗り出していた上半身を椅子の背もたれに預け、右手の親指人差し指で顎を摘まみ考えるようなポーズを取った。


 それと同時にボクの視線は神座さんの胸元から、顎に当てられた手と袖が肘まで落ちて露あらわになった太い前腕に再び釘付けになる。


 ボクが変なこと言ったから、神座さん悩んじゃってる。


「なるほど…カフェインによる血管の収縮と、その反動による血管の拡張によって顔面の血管が……色素が薄いからそれでも顔に出るということなのか……」


 神座さんは何やら小声でブツブツ呟くと納得がいったようで、頭の良い人は勝手に答えを導いてくれるから楽だと思った。


「ああ、ごめん…」


 顎に手を当てていた神座さんはハッとなって、手を顎から外してテーブルの上に置くと、


「体質的にそうなってしまうことを指摘してしまって……」


ボクに言葉を続けた。


 守野さんの何気ない言葉がボクを不快にさせた、ということを指摘した手前、自分も同じことをしてしまったのでは? という後ろめたさからの言葉だろうか。


 でもボクの顔が赤いのはカフェインのせいでもアルビノ特有の色素が薄いからという理由でもなくて……謝られているこっちが申し訳ない……。


「いえいえいえ、全然気にしてませんから。むしろ日焼けの心配をしてくれてありがとうございます」


 ボクは胸の前で手を振りながら言い、罪悪感を誤魔化すためだろうか、また言葉の最後に乾いた笑いを出してしまった。


「カフェインで赤面か……今の綾乃さんに進める訳ではないんだけど、」


 ああ、本当はカフェインのせいじゃないと告白した方が楽になれるかもしれない……。


 神座さんは一つ前置きを言うと、その先を続けた。


「カフェインや薬剤など生体異物を摂取するとCYP1A2という酸化酵素が働いて、カフェインの場合約四.九時間で半分に代謝してくれるんだけど、煙草などに含まれるニコチンはそのCYP1A2を誘発することが知られていてね、ニコチンとカフェインを一緒に取るとカフェインの作用を約五九%弱める効果があるんだ」


 へー、じゃあ煙草と珈琲ってある意味飲み合わせが良いのかもしれない。


 ボクは珈琲に口を付ける。


「今の話を頭の片隅にでも置いておいて、もし将来、珈琲やチョコレートなどカフェインを含む食品を取ったとき表れるその症状が気になるなら、ニコチンと組み合わせてみると良いかもしれないね。もちろん喫煙を進めるわけでもないし、赤面に効果があるかは分からないけど」


 ボクが言った適当なことで、こんなにも親身に考えてくれるだなんて……。


「勉強になりました、ニコチンとカフェイン覚えておきます。教えてくれてありがとうございます」


 いや、本当にありがとうございます……。


 神座さんは紙コップに口を付けると三〇度ほどまで傾けたあと、カップの蓋を外して紙コップに直接口を付けると、再び三〇度ほどまで傾けた。


 コップ内に入った液体の容量が少なくなると蓋に空いた飲み口からは液体が出にくくなるよね。


 上向きになることで神座さんの喉仏が見やすくなり、ボクとは違う男の身体の特徴を見せつけられた。


 ボクの喉からは、とうとう喉仏が出てくることなく、そして声変りもしないまま高校生になってしまった。


 神座さんはコップに残った少量の珈琲を飲み干すと、上向きだった顔を戻し……


「あっ…」


その際、喉仏に見惚れていると神座さんと目が合い、ボクの心臓はまた一度大きく跳ねて息が詰まった。


 空いた紙コップは乾いた音とともにテーブルに置かれ、プラスチック製の蓋は天地を逆さにして被せられた。


 ボクは締め付けられるような、そして動悸がする胸に右手を当てて鼓動を聴く。


 やっぱりだ、さっきから神座さんの身体や仕草を見る度たびに心臓の鼓動が早くなっていく、それと同時に湧き上がってくるこの嫌な感じではない気持ち。でもまさか、そんなはずは……。


「あの、よかったらメルアド……」


「じゃあおれはこれで失礼するよ」


 え……?


 神座さんはボクの言葉に被せるよう言うと、椅子から立ち上がり、隣の椅子に置いたリュックを右肩のみにかけてから空の紙コップを手の平で飲み口全体を包み込むようにして掴み拾い上げた。


「これからも見かけたら気軽に声かけてよ。それじゃまた」


 神座さんはそう言い残すとボクに背を向けて、この場から離れていく。


 途中で右肩のみに掛けられたリュックに左腕も通し、カフェテリア内のゴミ箱へ紙コップとプラスチック製の蓋を分別して捨てる姿を観察し、カフェテリアから退出後見えなくなるまでボクはこの場から見送った。


「メールアドレス交換しませんか……?」


 ボクは見えなくなった神座さんの方を向きながら、誰にも聞こえない小声で独ひとり言ごちた。


 次に会ったときは、ちゃんと言えるように。

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