守野 眞緒 の 場合 08

 神座くんに付き合ってる人が居ても不思議じゃないよね。


 だって神座くん、優しいし、格好良いし、博識だし、真面目だし、そんなの分かってた事なのに…なんで私は、淡い期待なんてしちゃったのかな……。


 私の目頭はまだ熱いままで、気を抜くと嗚咽が漏れてしまいそう。


 シャワーを浴びているせいで本当に泣いているのか、ただのお湯が顔を伝っているのか分からない…涙を見ていないから、ここまで保てているんだと思う……涙は涙を誘うから。


 付き合えなくてもいい、せめて神座くんがフリーなままで、その傍に私が居れれば、それだけでも幸せって思ってた。


 でも、神座くんの幸せを邪魔なんてできない…だって普通に考えれば私の方が邪魔なんだもん。むしろ彼の恋路を応援してあげなくっちゃ、今後はそうやって神座くんの傍に居よう。


 応援して、もし神座くんが今付き合ってる人と別れたら、慰めて、恋人ができたらまた応援して、神座くんの幸せのお手伝いを……。


 ここで突然さらに目頭が熱くなり、咽の奥からも急に熱いものが込み上げてきた。


 声を上げて泣けば楽になったかもしれない、でも私はシャワーの水流を直接顔に当てて自分自身を誤魔化し、濡れた手でも使えるメイク落とし用クレンジングジェルをいつもの倍以上手に取ると流れていたかもしれない涙ごと顔を洗い始めた。


 これくらいの意地悪しても、罰ばちは当たらないわよね。


 私は入念にメイクを落とすと、もう一度頭からシャワーを浴びて全身を温めシャワーヘッドをフックへ掛けて水流を止めた。


 髪を後ろに強く撫でして髪の水分を絞り、身体に付いた水滴も軽く手で払って簡単に落とすと、浴室と脱衣所を隔てる引き戸を開けて少し手を伸ばせば届くスチール棚からバスタオルを浴室内へ掴み入れた。


 私は濡れた身体のまま脱衣所まで出て身体を拭くより、暖かく湿気の残った浴室で身体を拭いてから出るのが好き。そうすると脱衣所を濡らすことがないし、なにより濡れたままの身体で脱衣所に出ると寒く感じるから。


 私はバスタオルを広げると頭に被り、タオルの上から髪を洗うようにして水分を吸わる。春の長期休み中伸ばしていた髪を切ったばかりなので、髪の量が少なくいつもより早く髪が吸った水分がタオルへと移りきるのを感じた。


 私は神座くんの脱衣所に水滴を落とさないよう、その後丹念に身体を拭くと、一応肌を隠すようにバスタオルを身体に巻き、末端の角をタオルと肌の間に入れ込むと浴室引き戸の取っ手を握った。


 ここで気持ちをちゃんと切り替えなきゃ…メイク落としのクレンジングが置いてあったことはどうでもいいの。さっき神座くんと一緒にご飯を食べていた時の私に戻らなきゃ……。


 自分自身へそう念を押すと、私は取っ手を掴んだ手に力を入れて三分割の引き戸を開いた。


「えっ…なんで…?」


 ……洗面台の前に神座くんが居る……。


 神座くんは、浴室の引き戸を開けて掴んだ取っ手から手を離せないでいる私を見ると、驚いたように目を丸くして固まり、眼球を動かしただけで私の身体を下から上まで確認したように見えた。


「えっと……」


 神座くんは申し訳なさそうにそう声を出し苦笑いをすると、頬を人差し指で掻く素振りを見せた。


 神座くんは驚き固まっているのだけど、私の方も引き戸の取っ手を掴んだまま固まっていた。だってさっき一緒に食事をしていた時とは違い髪は背中まで伸び、顔にはお化粧が施されてとても女性的な顔になっていたから。


 服もボタンの掛け方からレディースの白いボタンシャツに着替えており、そしてさっきとは徹底的に違うのは胸の大きな二つの膨らみ……。


 私も目を丸くし、さらに口を大きく開けて先ほどの神座くんとはあまりにも乖離かいりした姿を上から下まで凝視した。


 あまりにも驚いて思考停止してたけど、だんだん頭が動いてきたわ。今、目の前に居る神座くんの姿は背中までの長髪、お化粧済み、レディースのボタンシャツ、大きい胸の膨らみ……これらを考慮すると、つまり……神座くんには女装趣味があるってこと……?


 未だに苦笑いをしながら私を見ている神座くん。


 そっか、私とあんなに自然に接してくれていたのはそういう事だったのね。神座くんがトランスジェンダーかはまだ分からないけど、自分の女装趣味から親近感があって多分ずっと私に相談をしたかったんだわ。


 せっかく勇気を持ってカミングアウトしてくれたのに、こんな驚いた顔をしちゃってごめんなさい。 


 私はまだ浴室内で固まっていた身体を解き、そのまま洗面台前にいる神座くんの前まで歩み寄ると、彼の顔を正面に見て一度微笑むと両手を大きく広げて神座くんを抱きしめ、包み込んだ。


 大丈夫よ神座くん、私はあなたがこんな趣味の持ち主だって、見放したり軽蔑したりなんてしない。


 もしろ私に打ち明けてくれて、すごく嬉しい。


「や、ちょっ……」


 神座くんは私の抱擁を解こうと身動ぎするけど、私は離さない。そんな部分も含めて容認していると彼に分かってもらいたい抱擁だから。


「大丈夫よ、神座くん……」


 背中に回した手に髪の毛が触れているけど、最近のカツラの毛ってすごくよくできてるのね、すごいサラサラな触り心地。そしてブラジャーの硬い生地とワイヤー越しにある入れ物の胸の感触、これもなんだかすごくよくできてるような……。


「これからも、私はあなたの味方よ」


 んっ、おかしい……神座くんって私よりも頭一つ身長高くなかったっけ……なんだか私と同じくらいの身長のような……。 


「離せってのっ!!」


 抱きしめた私の腕は解かれて、その直後、私の脳天にはチョップが叩きつけられた。


「え? えっ⁉」


 私は両手で脳天をおさえながら、目の前の神座くんを見た。


「まったく」


 最初作ってる声だと思ったけど、その声は自然で、私の知ってる神座くんより身長が低くて、大きなお胸……。


「いやーーーーーーーっ!!!!! すいません、すいません!!!」


 私は恥ずかしさのあまり頭を抱え奇声を上げてから、我に返ると必死に腰から上半身を折り曲げ許しを乞こうた。


 私ってばなんて勘違いを…この人は神座くんの……


「どうした眞緒ー⁉ Gか⁉ アシダカさんか⁉」


 ただならぬ私の奇声を悲鳴と勘違いした神座くんがリビングから、ものの数秒で洗面所兼脱衣所前に到着すると、引き戸を勢い良く開け……


「姉ちゃんだぁぁーーー!!!!」


と殺虫スプレーを片手に驚愕した。


「ちょ…神座くん急に入って来ない……」


 私はとっさに手の平を広げながら神座くんの方へ腕を伸ばすと、身体に巻かれたバスタオルを留めている中へ入れ込まれた末端部分が親指に引っ掛かり、水分を吸い重くなったバスタオルは空気抵抗を受ける間もないままバサッっと音を立てて床に広がり落ちた。


「ヒイッ!」


 私は息を吸いこみながら声を上げると、その場にしゃがみ込み脚を閉じると膝を抱えて見られる肌の露出面を極力抑える格好になった。


「ああ…やっぱりな…」


 抱き付いた時だろうか、何かを感じていた神座くんのお姉さんが小さく声を出す。


「あぁ……ごめん……」


 神座くんはとっさに顔を背けてくれたけど、その声は見たよね……。


「とりあえず美琴、こっち来て」


 神座くんはお姉さんの手を掴み、脱衣所から自分と一緒に引っ張り出して戸を閉めた。


「まだうがい手洗いがー」


「キッチンでもできるでしょ」


 扉越しに姉弟のやり取りが聞こえた。


 全部、見られた……しかも神座くんとお姉さんに……。ううぅ、死にたい……。


 このまま神座くんに借りた服を着て帰っちゃおうか? いや、ダメだ。リビングのバックに財布もアパートの鍵も入れたままだし……。


 ううぅ、神座くんとお姉さんとしばらく顔合わせたくないよー……。でも待って、神座くんは今頃この状況の説明をお姉さんから求められてるところでしょ、ここで私が説明をしに行かないと彼があらぬ疑いを持たれたままになっちゃう…。


 私なんかのために親切にしてくれた事で、神座くんがそんな立場になってしまうのは絶対にダメ。


「私からも、ちゃんとお姉さんの誤解を解かなくちゃ」


 私は膝を抱えてしゃがんだ状態から立ち上がり、洗濯機の上に置いた自分の下着を身につけて、神座くんが持ってきてくれたパーカーを着てジーパンを穿くと裾を足首が出るまで折り上げた。


 洗面台に化粧水やドライヤーの有無など目もくれず、私は洗面所兼脱衣所の引き戸を開けて廊下を真っ直ぐ大股で歩きリビングドアの前で一呼吸置いたあと、ゆっくりとそのドアを開けて中に入った。


「あ、眞緒ちゃん、こっち来て一緒に飲む?」


 ドア正面に置かれたダイニングテーブルには、神座くんとお姉さんが対面に座っていて、お姉さんの傍らにはビアグラスに注がれたプレミアムモルツ香るエールとその空き缶に、さっき少し余ったコールスローが小鉢に盛られて出ていた。


 こちらを向いて座っているお姉さんがリビングに入った私にいち早く気づくと、私に手を振りながら笑顔で言った。


「あ…いえ…」


 さっきの事もあって、私はあまり顔を合わせられずに下を向きながらお酒の誘いを断った。


「でもまあ、こっちきて座りなよ」


 さっきまでは無かった神座くんとお姉さんの間にある折り畳みチェアを引きながら彼女は言った。


 私は椅子の前まで歩みを進め、座る素振りも見せないままお姉さんに向き合うと頭を下げた。


「さっきは急に抱き付いて本当にすいませんでした」


「ビックリしたよ、タオル一枚の可愛い男の子からいきなりだったからね。でも私を誠と間違えたって事は……」


 お姉さんは少し考え、


「あんたいつも女装して眞緒ちゃんと……?」


と神座くんに向き直った。


「いや、だからそんな事してないって。眞緒とはただの友達で、今日はたまたま夕食を食べていきなって話しになって…」


「後片付け中に小麦粉を被ったんでしょ……あんたね嘘つくならもっとマシな嘘思いつきなさいよね」


 神座くんの話を遮って、お姉さんはさっき聞いたんだろうことを全く信用してないみたいだった。


「本当なんだって」


「じゃあなんでいきなり抱き付いてきたのよ、いつもそういうお付き合いしてるからじゃないの?」


「いやそれは分からないけど…」


 神座くんが窮地に立たされてる。


 でも言えない……神座くんが女装姿で現れて、私に女装趣味をカミングアウトしてくれたと勘違いしたなんて。カミングアウトで戸惑っているような素振りだったから安心させようと抱き付いたなんて。本人の前でなんか絶対に言えない……。


「誠ってなんで、この容姿と高身長なのに彼女いないんだろうって不思議に思ってたくらいなのよね。つまりそういう事だったんだね、大丈夫、お姉ちゃんそういうの理解あるから」


 お姉さんは笑顔でそう言うと豪快にビールを一口飲み下し


「でも今日私ここ泊まるから今夜は我慢してね」


とコールスローをお箸で口に運んだ。


「本当に、違うんです……私みたいな人間のせいで神座くんを、へ…変態みたいに言わないでください…」


 私は気を落ち着かせるためにも、お姉さんが引いてくれた折り畳みの椅子に腰を下ろした。


「私の事はなんて言われてもいいんです、ホモとかオカマとかオトコオンナとかニューハーフとか……」


「眞緒、自分をそんな風に言うなよ…」


 私は構わず続けた。


「でも神座くんは、こんな私と初めて逢った時から奇異の目で見るわけでもなく普通に接してくれて。女の子の格好をして大学に通ってるんですけど、服装を褒めてくれたり髪型の変化に気づいてくれたり、さっきだって小麦粉を被った私をお風呂場に案内してくれた時もちゃんと女の子扱いしてくれて、スゴく優しくて良い人なんです。だから神座くんを私のような人間と同じ扱いにするのは……」


「眞緒、もういいから」


「私のせいで神座くんが変態って思われるのが嫌なの!」


 つい大きな声を出してしまったのと、いつの間にか涙で太ももを濡らしていることに気が付いて自分で驚いた。


「なんで眞緒と付き合ったら変態なんだよ」


 神座くんが俯いた私を覗き込むようにして優しく言った。


「だって、私…」


 神座くんは私の言葉を遮るように続ける。


「自分が好きな格好をして、人を好きになって、それの何がおかしいんだよ? 美琴が変なこと言うから…」


 神座くんは視線をお姉さんへと移し少し睨むように言った。


「あ、いや……ごめんね、私も別に偏見があって言ったわけじゃなくてさ……。眞緒ちゃん綺麗だし、弟がそんな趣味でも応援するって、茶化すつもりじゃなかったんだよね……」


「だからそれは違うって…」


「分かってません!」


 私は立ち上がってお姉さんの腕を掴み「ちょっと来てください」と引っ張り、ドアを開けてリビングを出た。


「え、眞緒どうしたの?」


 神座くんは椅子から立ち上がり、私たちを追おうとしたけど


「神座くんはちょっと座ってて!」


と私は言うとドアを閉めて二歩ほどリビングから離れて立ち止まった。


「えっと……どうしたのかな?」


 お姉さんはいきなり腕を引っ張られリビングから退出させられて困惑した顔だ。


 私は大きく深呼吸したあと口を開いた。


「さっき脱衣所で抱き付いたのは、普段そんな事をしてるとかじゃなくて……何で神座くんは私といつも普通に接してくれるんだろうっていう疑問から始まった私の勘違いで……」


 私は小声で事の顛末をお姉さんに話した。


「つまり小麦粉被って浴室から出たら私が居て、誠が女装趣味のカミングアウトしてくれた事が嬉しくなって抱き付いてきたと……?」


「はいぃ……」


 私は恥ずかしさのあまりお姉さんから顔を背けながら言った。


 なんだろう、お姉さんの身体が小刻みに震えてる気がする。


「ブフーーーーッ!!」


 お姉さんは盛大に息を吹き出すと、豪快にケラケラと笑った。


「何それ、あーダメだー、立ってられない」


 お姉さんはお腹を押さえながら身体をくの字にして息も絶え絶えに笑っている。


 なんだかさっきも同じように笑っていた人がいたような…さすが姉弟、容姿だけじゃなく笑い方までそっくりなのね。


「そんな事ってある?」


 お姉さんはひとしきり笑って息を大きく吸い込むと、笑いながらやっと言ったようだった。


「本当なんですよ……」


「そりゃ誠の前では言えないよね、とりあえず分かったからリビング戻ろうか」


 お姉さんはリビングへのドアを開けると先ほど座っていた神座くんの向かいの椅子へと腰を下ろした。


 その後を追ってリビングへ入ると私のために開け放たれたドアを閉めて、神座くんとお姉さんの間にある折り畳みの椅子へ座る。


「……なに話してたの?」


 私が座ると神座くんはそう聞いてきた。


 二人でいきなり出て行ってお姉さんが大笑いした後戻って来たんだもん、普通気になるわよね。


「内緒」


 お姉さんが間髪入れず、そう答えた。


「内緒って……でもさ、」


「そういえば、私眞緒ちゃんに自己紹介してなかったわね。私は美琴、誠のお姉ちゃんです。いつも誠がお世話になってます」


 またお姉さんは神座くんの言葉を遮るように自分の名前を名乗ると、ガラステーブルに両手を付いて軽く頭を下げた。


「ああ、いえ私こそ自己紹介が遅れてすいませんでした。守野眞緒と言います、よろしくお願いします」


 私は膝に手を置き座ったまま少し深くお辞儀をした。


「うちの誠を、どうぞよろしくお願いします」


「そ、そんなとんでもない…」


 私は胸の前で軽く手を振りながら、慌てて言った。多分、ちょっと顔が赤くなっていたと思う。


「いったい、どういう挨拶だよ……」


 神座くんは頬杖を突きながらお姉さんを見て呆れるように言った。


 あらためてお姉さんの顔を見たけど、本当によく似た姉弟でとてもキレイな顔立ち。神座くんっていつも思っていたけど女顔なのよね、お化粧してロングのカツラを被ったら見分けがつかなくなりそうだわ。


「誠も昔は可愛い顔しててね、神座さん家のミコトとマコトの美人姉妹って近所じゃ有名だったのよ」


「だぁーーーー! 眞緒送ってくよ」


 お姉さんが意地悪そうな顔をしてそう言うと、神座くんは即座に反応し立ち上がると悲鳴を上げた。


「え、うん…」


 お姉さんの話、すごく興味あるんですけど……。


「バック持ったね、忘れ物はない?」


「あとは脱衣所にある洗濯物だけ」


 神座くん嫌がってるし今度お姉さんに会った時、こっそり教えてもらおう。


「じゃあ眞緒送ってくるから、美琴は適当にしてて」


「えー、眞緒ちゃん帰っちゃうのー、まだいいじゃない」


 お姉さんはつまらなそうにビールを口に含む。


「余計な事を言う人が居るからダメです。ほら、行こう」


 神座くんはサッサとドアを開けて廊下を進み、奥の脱衣所まで行ってしまった。


「神座くんもああ言ってるし、美琴さん、今日はここで失礼します」


 私は立ち上がり、美琴さんに軽くお辞儀をした。


「うん、今度一緒に飲もうよ」


 美琴さんは半分以下まで中身がなくなったビアグラスを軽く掲げて言った。


「はい、是非」




 私と神座くんは部屋を出て絨毯敷きの共用内廊下を歩くとエレベーターを呼んで一階のエントランスロビーへ。 


 そこから駐車場へ向かい彼のロードスターNBで私のアパートまで送ってくれる。


 マンションの外へ出ると辺りはすでに暗く、星と月が太陽の輝きによって隠されていた分、この時間だけはと自己主張をしているように感じる。でもここでは地上の光もあり星の光はあまり届かないのだけど。


 神座くんの優しい運転は、やはり心地いい。シフトダウンやシフトアップ時のクラッチワークと加減速のアクセルワークは滑らかで、信号等で完全に止まる際にも衝撃なく停止してくれる。普通の人なら完全停止した時にカクンと衝撃がくるものだわ。


 旧世紀の車なのであまり良いコンピューターも付いていない、ABSさえも付いていないというこの車。


 この運転の心地良さは神座くんの性格そのものだ。


「さっきは、ごめんな」


 運転中の神座くんは顔を正面からズラすことなく言った。


「え?」


 いったい何のことだろう? やっぱり脱衣所の件かしら……。


「美琴姉さんの言葉が、もしかしたら眞緒を傷つけたかもしれない」


 神座くんからの言葉は予想外のものだった。


 少し考えて私は「大丈夫だよ」と答える。


 美琴さん、そんな偏見のあるようなこと言ったかな?


「おれはね、ヒトを大きく分けたら男女に分けられるけど、男女も一括りにしたら人間なんだ。男が男を好きだろうが、女が女を好きだろうが、そのどちらもやっぱり人間が好きなんだと思うんだ」


 神座くんは進行上の信号機が青から赤に変わったので、6速から余裕をもって5・4・3とシフトダウンしていき最後に軽くブレーキを、その後にクラッチを踏んで停止線前で静かに止まった。


「ステーキの焼き方にそれぞれ好みがあるように、春菊やパクチーの味が好き嫌い分かれるように、恋愛対象なんて人それぞれなんだと思う」


 信号が青になり神座くんはクラッチを踏みニュートラルから2速へ入れると、丁寧にクラッチを繋ぎながらアクセルを合わせゆっくりと、でももたつく事なく滑らかに車を発進させる。


「もし、男が好きな男がいたとして、やっぱり男は女が好きなものという先入観のせいで自分の気持ちに蓋をしたり先入観に流されて、違和感を感じるまま女と付き合うという人もいると思う。でも眞緒は違う、眞緒は自分の気持ちに気づいた。先入観や固定概念に縛られることなく、自分の本来の姿を貫き通してる。それはすごい事だと思うんだ」


 神座くんはウインカーを出し右折レーンへ入ると減速し、対向車線から車が来てないことと横断歩道を利用する人が居ないことを確認すると交差点を曲がった。


「おれは近い未来、食べ物の好みのように、恋愛対象を男女分け隔てなく話せる日が来ると良いなと思ってるよ」


「まるで古代ギリシャや戦国時代の日本みたい」


 私は神座くんの言葉に軽く笑いながらそう言った。


「昔の人の方が性別に囚われず、人間を見ていたのかもしれないな」


 神座くんはハンドルを握りながら少し目を左上に向けて、考える素振りをしながら言った。


 神座くんの言うような日がいつか来てくれたら、私みたいな人間は生きやすくなるでしょうね。でも私が生きてる間にそんな日が来るのかな? 好奇な目で見てくる人はいつになったら居なくなるだろう…。考えてみると、私も原宿を歩いたら変わった格好の人に目を取られる事があるけど、ああいう感覚だとしたら私も人の事を言えないのかもしれない……。


 だんだん私のアパートが近くなってきていることが車からの景色で分かった。


 神座くんとの一日がもうすぐ終わっちゃう、色んな事があったけど今日は楽しかったな。


 車がどんどん減速していく。


「眞緒、着いたよ」


 神座くんはハザードを焚いて私のアパートの前に停車すると、そう言った。


「うん」


 私は少し名残惜しそうにシートベルトを外し、ドアノブに手を掛けると、


「今日はありがとう」


と神座くんに感謝の意を伝えた。


 今日は本当に楽しかった。


「うん、また明日大学で」


「うん、履修科目登録を出さなないといけないからね」


 私はロードスターのドアを開けると、ゆっくり車外へ、まるで座椅子から立ち上がるように降りた。


 神座くんは車内中央のアームレストにあるスイッチを操作して助手席側のドアウインドウを開け、運転席側から覗き込むようにして「じゃあ」と手を振ってくれる。


 私も手を振り返すけど、一つ思い出したことがあった。


「あっ、そういえば神座くん」


 私は膝を折り車高の低い車に乗っている神座くんと視線を合わせた。


「なに?」


「神座くんの部屋のキッチンタイプって名前なんていうの?」


 最初リビングに通された時から気になっていた事だった。


「あー、ペニンシュ……いや、わからないや…じゃあね」


「うん、じゃあね」


 神座くんは何かを言いかけて、考え直して止めたみたい。ペニンシュまで言いかけててるんだし答えは知ってたみたいだけど……。


「やっぱりペニンシュラキッチンで良かったのよね…ん……?」


 peninsula=半島…。大陸から突き出した様からpeninsulaがpenisの語源と世間では誤解されてるけど、神座くんもしかして…。


 まるで最大火力にしたガスコンロに点火した時のように私の顔がボッと熱くなったのが分かった。


「神座くん、私そういった意味で聞いた訳じゃないからねーー!」


 私は遠ざかって行くロードスターに声を上げたけど、神座くんは聞こえたかしら?


 そもそもpenisってラテン語では尻尾って意味で、そこから今の意味でのペニスになった訳で、peninsulaがペニスの語源っていうのは俗説で分解すると〈paene=殆ど〉+〈insula=島〉で直訳するとほとんど島って意味で……。


 まあ神座くんのことだ、その辺はちゃんと知っていて尚且つ私を気遣って口にしなかったんだろうけどね…。


 現代も使われている言葉の語源には古語といわれるラテン語・サンスクリット語・古フランス語からが多い。明日、ラテン語からくる語源について神座くんとお話しなくっちゃ。


 また明日大学でね、神座くん。

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