守野 眞緒 の 場合 05

 玄関からドアが四つ並んだ小さなL字の廊下を数歩進むと行く手を遮る五つ目のドアが、神座くんはドアを押し開けながら「どうぞ」と私をリビングへ招き入れた。


「広ーーい」


 ドアを抜けたところから見ると横長のリビングダイニングキッチンが広がっていて、すぐ左手にはリビングと遮蔽板がない対面式のキッチンがある。一部三ツ口のコンロ側は壁に付いてリビングダイニング側と高さ四〇㎝ほどの透明な耐熱強化ガラスの仕切りがあり加熱調理の際に汚れが飛び散らないようになっている。


 これはアイランドキッチンと言ってもいいのか、それとも一部壁に接しているからペニンシュラ型対面キッチンと言うべきなのかしら、まあそんな名称があるのかは知らないけど、開放感のあるキッチンですごく使いやすそう。


 あと、この部屋にあるのはドアから数歩離れたところにある円形のガラス製ダイニングテーブルと椅子二脚、右手バルコニー側に二人掛けのソファーとソファーテーブル、それを挟んだところには一人かけの深く腰を掛けれそうな折り畳み式のオレンジ色の椅子が一脚。


 あれ? あのオレンジ色の椅子…。


「あれニーチェアじゃない?」


 私は一人かけの椅子を指をさして神座くんに尋ねた。


「眞緒、よく知ってるね」


 一見布を張っただけの折り畳み椅子だけど、しっかりとした作りで座り心地は抜群、それでいて折り畳めるので収納場所を取らない日本の諸事情によく合ったデザイナーズチェアだ。


 インテリアデザイナー新居にい 猛たけしの作品で、一九七四年にはニューヨーク近代美術館に永久収蔵が決まったもの。


「新居猛が言うには心地よく、丈夫で、とことん安く。いわばカレーライスのような椅子をつくりたかった。というコンセプトで世に出たものなんだけど、そこはデザイナーズチェア、まあまあなお値段するのよね…」


 私はため息をつきながら言った。


 まあコンセプト通りそこまで高額な商品ではないけど、なんで学生の部屋にこんなものがあるのかしら……。


「そこはFRP製のイームズチェアにも言えた事かな、安く量産が容易で座り心地の良い椅子を世に出したかったイームズ夫妻のコンセプトが値段に生きてないんだよね」


 たぶん、神座くんはニューヨーク近代美術館とコンセプト違いの繋がりからイームズチェアを引き合いに出したんだと思う。やっぱり神座くんは博識で何でも知ってるんだな。


「ニーチェアといえばMoMAを思い浮かべると思うけど…それとさ、意外なものでニューヨーク近代美術館に永久収蔵されているものがあるんだよ」


 神座くんがMoMAと言った後にニューヨーク近代美術館と言い直したのは、多分私がMoMAとニューヨーク近代美術館がイコールになってなかった場合、話についていけなかったり私に恥をかかせない為なんだろうなと思う。


 MoMAとはニューヨーク近代美術館の事で、英語正式名称はThe Museum of Modern Art, New Yorkのこと。私だってそれくらい知ってますよ。


 神座くんは、少し溜めてから、


「おれが乗ってるNBの前期型、ユーノスNAロードスターのテールランプも展示されてる」と続けた。


「えー、そんなものまで?」


「もっと意外なのはキッコーマンの醤油差しだね」


 は…嘘でしょ…ニューヨークよ、MoMAよ、そこに醤油差しって……いや、神座くんがそんな嘘を言うわけないわよね。


 私が目を丸くしているのに神座くんは気付き、笑うと、


「どれにも共通しているのはやっぱり機能美だね。デザインが良くても使いにくかったらしょうがないし、使いやすさを追及したうえで自然に美しくなるのが一番美しいのかもしれない」


そう言葉を続けた。


 やっぱり神座くんは、私の知識のプラスアルファを知っている。何か一つ話題を振ったらいつまでも喋っていられそうな人だわ。


 でもキッコーマン、使いやすくはあるだろうけど…美しい、かな? 展示されてる醤油差しを想像すると…なかなかシュールだわ……。


「じゃあ珈琲淹れるから、ニーチェアに座って少し待っててよ。オットマンもあるから良かったら使って」


 神座くんはニーチェアの横、畳まれて白い壁に寄り掛からせているオットマンを指さしてキッチンへと入っていった。


 うわー、この椅子カッコいいなー。必要最低限の素材しか使われてない感じがセンス良いのよね。せっかくだしオットマンも使われてもらいながら珈琲が落ちるのを待たせてもらおう。


 私は畳まれたオットマンを持ち上げると、想像していたより軽くて少しバランスを崩した。


 使われている材料と大きさをを見れば分かるけど、やっぱり軽いのね。


 私はオットマンをセットするとニーチェアに腰を沈め、背もたれに身体を預けオットマンに脚を乗せた。


 あー、これスゴイ楽。椅子単体でも楽だけど、オットマンも使ったらこのまま寝ちゃいそう。さすが人間工学を基に作られた作品。神座くんはリラックスしたい時、ソファーテーブルに珈琲を置いて、いつもこうして座っているのかしら。


 こうして改めて部屋全体を見てみると、このリビングだけで私のアパートより広そう。家具は椅子とソファーとテーブルしかなくて、それがこのリビングの広さを際立たせていると同時に掃除しやすそうとも思った。


 最初マンション住みと聞いて誰かと同棲してるのかと思ったけど、この広い部屋に、この物の少なさを見ると、本当に神座くん一人で住んでるんだろうなと少し安心もした。


 私の座った位置からちょうど正面には仕切りのないキッチンがあり、その中でケトルを火にかけ、珈琲豆を豆用の計量スプーンを使い銀色のKalitaナイスカットミルへ投入している神座くんが見える。


 あの電動ミルもお高いのよね…。


 しばらくするとモーター音と共に豆が挽かれる小気味いい音が部屋中に響くと、ワンテンポ遅れて珈琲豆の良い匂いがこちらまで漂ってきた。


 豆を挽いただけでこんなに良い匂いがするなんていったいどれだけ良い珈琲豆を使ってるのかしら。


 私はニーチェアにハマり込んだ身体を起こして少し苦労しながら立ち上がり、神座くんのいるキッチンへ向かった。


 座っている分にはいい感じにリラックスできる椅子だけど、立ち上がる時は少し苦労する椅子なのね。


「どうしたの、ゆっくり待ってればいいのに」


 神座くんはペーパーフィルターがセットされたドリッパー内に入れられた顆粒状の豆を平らに均ならしながら言った。


「良い匂いがこっちまで漂ってきたから、誘われちゃった」


 あと、神座くんが珈琲を淹れるところを隣で見たかったから。


「そっか、もうお湯が沸くからちょっと待ってて」


 そう言っている間に火にかけたケトルから水の煮たる音が聞こえてきたので、神座くんはコンロまで行き火を止めケトルから耐熱ガラスの珈琲サーバーにお湯を少し入れるとケトルをコンロに置き、珈琲サーバーからキッチンに出しておいた二客のカップへお湯を注ぎ切る。


 これで珈琲サーバーとカップがお湯で温められる。


 その後、神座くんは同じくキッチンに出しておいた珈琲ドリップ用の注ぎ口が細くなった全体がステンレス製のケトルへ、なみなみとお湯を注ぎ始めた。


 ドリッパーを珈琲サーバーの上に置き、先ほど平らに均ならした顆粒状に挽かれた豆の中央に指で少しの窪みを作った。


 少し珈琲豆を触っただけでキッチンに漂う珈琲の匂いが一気に増す。


 私はキッチン端っこの邪魔にならない、でもよく見える場所に立って神座くんの動きを観察した。


 キッチンに立つ神座くんもやっぱりカッコいいな。


「なんか、そんなに見られると緊張するなー…」


 神座くんが苦笑いしながら言うけど、実は私もついさっきスゴく緊張してたんだからね。その事については彼に全く非はないのだけど、


「美味しい珈琲を楽しみに待ってるね」


と私はワザとらしくプレッシャーをかけるように言い、意地悪に微笑んだ。


 神座くんは大きく息を吐き、ゆっくりとドリップケトルを傾けるとドリッパーの中心から渦を巻くように外側へ、細くお湯を注ぎ始めた。


 お湯が注がれた挽きたての珈琲豆は炭酸ガスを放出しながらモコモコとドリッパー内で丸く膨らむと同時に、豆に閉じ込められていた香りが爆発的に放出されリビング内の匂いを珈琲一色に変化させた。


 んーーー、いい匂い。一瞬でこの部屋が喫茶店になったみたい。


 神座くんは、お湯が豆全体を湿らせたら一旦お湯を注ぐのを止め、豆の膨らみが落ち着くのを待つと同時に豆を蒸らすために待機。それが三〇秒ほど過ぎたら再びドリッパー内に渦を描くように一定の細さでお湯を注ぎ始め、目当ての分量までサーバー内へ珈琲が落ちたらドリッパー内のお湯が全て落ちきる前にサーバーから外し、ドリッパーを静かにシンクへと置いた。


 神座くんは先ほどカップを温めるため注いだお湯をシンクに捨て、カップをソーサーに乗せると、サーバーから珈琲を二客のカップへ注ぎ入れた。


「よし、履修科目選ぼうか」


 神座くんはそう言って、キッチンのワークトップに二客のカップを置いたままダイニングテーブルの方へ回り、そこからソーサーから持ち上げテーブルへと置いた。


 キッチンとリビングダイニングの仕切りがないと、こんな風に料理や飲み物の配膳が楽なんだな。


 私はダイニングテーブルの椅子に置いたバックから履修科目登録に必要な用紙を出しテーブルに広げると、バックを椅子から下ろし自分がそこへ座った。


「やる前に、一口どうぞ」


「うん、すっごく良い匂いで、早く飲みたかったの」


 私はソーサーに乗ったカップに片方は細い取っ手に指をかけ、もう片方には手を添え両手で鼻まで持ち上げると立ち上がった湯気を吸いこむ。


 とっても良い香り、どこか甘いとさえ思えちゃう。味は…


 私は淹れてもらったばかりで熱い珈琲を少し啜った。


「なにこれ、スゴく美味しい」


 苦みも酸味も良い感じ、むしろ甘く感じさせながら珈琲のとても良い香りが鼻から抜ける。


「淹れ方はどうあれ、豆はブルーマウンテンを使ってるから美味しいと思うよ」


「んー⁉」


 ちょっと珈琲を噴きそうになったけど、この美味しい液体を無駄にしないためになんとかこらえた。


「ブルーマウンテンって、すごく高くて良い豆じゃない」


 喫茶店で飲んだら一杯一二〇〇円でも良心的なお値段の珈琲よ…。


「安く手に入ったからさ、買ったらすぐに飲まないと珈琲は悪くなっちゃうだろ」


 ニーチェアといいブルーマウンテンといい、神座くんっていったい何者なの?


「お互い二杯分淹れたから、お代わりもあるからね」


 神座くん、太っ腹すぎるわ…今後誰かに騙されないと良いけど……。


「気に入ったならおれの分も飲んでいいし」


 そして、良い人、笑顔が眩しい。

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