天と地のせいめい 十八






 認識していたが、予想よりも遥かに、鈍い人間であった。

 常闇に取り込まれる事ではなかったのだ。

 恐ろしいのは、













 仁の区画。漆黒町、天紅家、雪晶の書斎にて。


 参の区画、黄檗きはだ町への外出をお許しください。



 早朝と言っても差し支えない時刻。氷月からの唐突とも言える申し出に、けれど、理由を問わず許可を与えた雪晶。謝礼を告げて、失礼しますと辞退しようとする氷月を呼び止めて、或るものを差し出した。



 それは親から子へと贈られる、災厄除去と幸福招来の念が籠められた、白扇だった。

 幼い頃、雪晶に養女として引き取られた際に受け取っていたのに何故。

 内心疑問に思いながらも、氷月は尋ねはせずに受け取った。



 幼い頃、頂戴した白扇は、扇面が長い地長で、親骨も仲骨も扇面も要も、全てが純白だったが、今回は、扇面が短い短地で、親骨の部分が秘色のものだった。



「青嵐様より預かったものだ。戻った際には礼を述べに行きなさい」

「はい」



 通例の意味で捉えればいいのか、はたまた、別の思惑と捉えればいいのか。

 考えは及ばないが、分かったのは、己が辞去した処で、申し渡しが覆りはしない事実。



(…雪晶様は私が王族に嫁いだとなれば、喜ぶのだろうか)



 判断できなかった。


 雪芒の地位を確固たるものにできる要素の一つにはなり得るだろうが、些末な事に思えた。

 ただ、現状、雪芒として、何の成果もあげられていない以上、些末な事であっても力になれるのならば、否は言わなかっただろう。そもそも、否と言える立場でもないのだ。



 だが、言ってしまった。

 雪晶が立場を危うくなる可能性があるとも考慮した上で、言ったのだ。


 後悔はある。けれど、後悔しかないわけではない。


 隠し続けている目と同様に、



「…雪晶様。万が一、私が一週間で戻らない場合、また、万が一、菜々美殿に、何かが起こり、待てない状況になった場合にも、加治殿の依頼は雪晶様にお願いしたいのですが、了承いただけますでしょうか?」

「…分かった」

「申し訳ございません」

「戻れずとも構わない」



 息が詰まった。不覚にも。流れを止めてしまった。不甲斐なくも、



「……失礼します」



 戻ります。宣言できない己が、情けなくて仕方がなかった。






「氷月さん」


 雪晶の書斎から自室に戻って荷物を持ち、玄関に向かった氷月を呼び掛けたのは、家政の未空だった。


「城に行ったかと思えば、次は黄檗町ですか?」

「はい」

「雪芒として赴くのですか?」

「はい」

「雪晶様から何か助言はありましたか?」

「いいえ」

「…必要はないと判断しましたか?」

「……はい」

「そうですか。では、こちらもお持ちください」


 未空は持っていた風呂敷包みを氷月に手渡した。


「旅のお供です。氷月さんが用意したものとは重複していませんよ」

「ありがとうございます」


 氷月は頭を下げて、風呂敷包みを斜め掛けにして背負った。手で持てばそれなりにある重さも背負ってしまえばそれほど気にならなかった。


「氷月さん。お帰りをお待ちしています。雪晶様と一緒に。あの方の表現はどうであれ、帰って来る事を望んでいると、覚えておいてください。あなたの帰る家はここです」

「…行ってきます」

「はい」


 氷月は玄関の扉を開けて外へと出た。未空はその場で所作正しく頭を下げた。

 真実なのだ。どうか、伝わってほしかった。






「失礼します」


 天紅家、客間にて。


 氷月が邸を出てから一分後。未空は台所へと向かい朝食の準備を終えてから、客間へと運んだ。二人分の茶粥と佃煮、小松菜入りの卵焼きは、当主である雪晶と、客人である青嵐の分であった。



 紅凪と仙弥には伝えずに行くとは言っていたが、流石に婚約者である青嵐には無断でというわけにはいかなかったので、風早が城まで伝えに行ったのだ。すれば、青嵐は紅凪家へ行くと言って、素早く支度を済ませては風早をお供にして足を運んでいた。

 氷月に会うつもりはなかったが、白扇は渡しておきたかったので、雪晶にお願いしたのである。



 雪晶と青嵐が向かい合わせになって座り、ゆったりと言葉なく朝食を食べ終えると、青嵐はとても美味しかったですと扉傍で控えていた未空に礼を述べた。



「それに優しい味で、五臓六腑に滲み渡りました」

「お褒め頂き光栄です」

「仕事がお忙しくとも雪晶様が常に健康体でいられるのは、あなたのおかげなんでしょう」

「それは明確に是と答えておきます」

「未空。茶の代わりを頼む」

「はい」


 食器を片した未空は小さくお辞儀をして退室した。


「豪快な方ですね」

「天紅家の家政司ですので」


 そうですね。青嵐は微笑を溢し、柔らかい雰囲気のままに言葉を紡いだ。


「氷月殿には断られました」

「そうですか」


 氷月を青嵐の婚約者に、との話を国王と青嵐が決断してすぐに、雪晶には書簡を送っていた。雪晶はその日の内に返書した。


 たった一文。お受けします。これだけである。


 氷月の気持ちがどうであれ、覆る可能性は元々低く、養父である雪晶も承認している以上、皆無に近かった。



「雪晶様は氷月殿を雪芒の当主にお望みではないのですか?」

「…糧を与えれば空虚を埋められると思ったのですが、見当違いだった。ですので、今回の話を受けたまでです。婚約者として。誤解はしないで頂きたい。結婚が確定しているわけではないので、お受けしたのです」

「ほぼ確定しているのですけどね」



 青嵐は苦笑を溢した。どうも思考が読めないお方である。



「私を氷月殿の糧にしたかったのですか?」

「お互い様ではないですか。青嵐様も糧になると読んで氷月を婚約者に選んだのでしょう?」

「最初は違ったのですけどね。今は、そうであればと、思っています」



 青嵐は少しだけ残っていたお茶を飲み干した。まだ、仄かに温かかった。



「雪晶様は氷月殿が当主を望めば譲りますか?」

「雪芒の総意で決められますので、私の一存では無理ですが。雪芒としての才を育て、雪芒の中で、一人でも相互理解できる相手を見つけられれば、考えないでもない」

「流石は当主でいらっしゃる。親子の情よりも、組織の存亡を第一に考えますか?」

「現状では皆無ですが」



 この当主にして、あの家政司ありだなと、思い知った。

 己が誇示を以て他人を撥ねつけているようなのに、負の感情を抱かせない清々しさがあった。



(さて。氷月が眼前のお方のようになる日が来るのでしょうか)



 未来に思いを馳せる。楽しい未来ばかり思い描けたらいい。心底そう思っていた。


 だが今は、



 青嵐は微笑を消して、目元に僅かばかり力を込めた。

 明るい未来を手にする為に、やらなければいけない事は、気が遠くなるほどあった。









「…どうしてトキ様がいらっしゃるのですか?」



 旅装束を身に着けている人に対して、愚問であると分かっていても訊かずにはいられなかった氷月。おまえの旅に同行する。トキは満面の笑みで答えた。反対したい気持ちでいっぱいだったが、言った処で無駄だろう。諦めて周囲を見渡した。王子の婚約者なのだ。護衛がずらずらと大勢いてもおかしくないはず、なのだが。



「護衛の方はどちらですか?」

「はい」


 手を上げたのは、杏梨であった。護衛が一人だけ。たった一人。氷月に眩暈が襲った。


「お一人で私たち二人の護衛をするつもりですか?」

「そう。強いし俊敏だから安心しろ」

「頼りにしているぞ、杏梨」

「ええ、お任せください。トキ様」



 すでに顔合わせも済んでまとまっている話だろうが、承知できなかった氷月。待って下さいと口を挟んだ。



「杏梨殿が強いのは重々承知していますが、せめて、あと一人は必要です」


 杏梨はにんまりと嬉しげに笑った。


「自分の弱さは認めていたか?」

「杏梨殿は知っていたはずですが?」

「まあ、そう拗ねるな。一人、声は掛けておいた」



(来ない可能性が大きいのが)

(…朱希殿に頼んだのだろうか?)



 氷月がいの一番に思い付いたのは、朱希だった。知っている治安部官吏が彼しかいなかったので道理である。

 もしもそうなら、紗世と離れたくないと大騒ぎしただろうなと、申し訳なく思いながらも、そうであればいいと、望んだ。



「悪い。遅くなった」


 びくり。予想外の声に、氷月の肩は大きく跳ねた。杏梨は楽しそうに話しかけた。


「おお、仙弥。来たか」

「俺が来なかったら代わりはいないと言っていただろ」

「いや。おまえが来なかったら、朱希が来る手筈だったんだがな」

「…聞いていないが」

「ああ。言っていなかったか。悪いな。今からでも代われると思うがどうする?」



 仙弥は背中を向けている氷月を一瞥してから、いや、と答えた。



「紅凪にもおばばの用事で行くと伝えたしな」


 紅凪は知らないらしい事実に、けれど、氷月は杏梨を恨んだ。


(伝えてほしくないと言ったのに)

(おーおー。怒ってるなこりゃあ)



 宥める何かを用意しとかないとな。杏梨は真正面から強く発せられる怒気を受けながらも、楽しげな表情を変えずに、行くかと告げたのであった。











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