天と地のせいめい 六

「お化けと呼んで悪かった」



 その日の晩。食堂で夕食を食べ終えて後、時ヶ崎に自室に来るように氷月への言伝を頼んだ紅凪は今、時刻通りに現れた氷月を自室の中へと招き入れて、頭を下げた。


 今更。今更だろう。

 思うが、やり直すとしたら、ここからだろうと、思い至ったのだ。

 離れたくなかった。

 離れてほしくはない。

 近くにいられるこの機を逃すなと。



「傷つけるつもりはなくて俺はただ」



――こっちを向いてほしくて。

 淀みなく告げるつもりだった。

 のに。



(俺は何を躊躇ってんだ)



 暗闇を迎え、突き破るほどの脈動を感じる。

 たった数秒。

 それらを打ち破り、抑え込んで、頭を上げた紅凪が目にしたのは。

 首を垂れ、片膝を立て、片手の拳を片手の掌で覆う、本式の礼を取る氷月の姿。

 王子である自分に対しての。



(早まるな)



 出て行け、と。ふざけるなと。逆上の余り言葉に出しそうな口を抑え込む。

 突き放す姿勢が当たり前なのだと理解しろ。

 仙弥や仲間や町のみんなが王子としての敬意を示そうとも、昔のように接してくれている今が奇跡なのだと。



(だからって、これはあんまりじゃないのか)



 他に誰がいるでもないこの空間で。この二人きりの自室で。

 距離を縮める為に行動している今この瞬間に。



(王子を盾にされたらどうしようもないだろうが)



「紅凪王子」



 響き渡るのは、凛とした声音。




 さめざめと届くはずのそれが、

 淡々と紡ぐそれが、




「幼い頃。あなたにお化けと呼ばれるのは、苦痛ではありませんでした。貶める為の名称ではないと分かっていました。私に似合いの名前だと思っていましたし」




 干天の慈雨のように、灼熱で照らされ渇いた心に癒しを浸透させる。




 紅凪は紡ぎを止めた氷月の手に籠める力が増すのを見て取ると、額に手を置き、僅かに痛む程度に前髪を掴んだ。口を開いては閉じて結んだつもりが、閉じ切れず、僅かに隙間ができていた。



「光をくれたあなたに、名を告げられぬ事、もう暫く、お許しください」



(だから、何でそんなに可愛げがないんだよ)



 暗闇に対し、ここだけは譲らないと強がっているようで。

 輝きを鈍らせる星々に、出て来ないでくれと嘆願しているようで。


 唐突に、先日の光景が鮮明に飛び出した。

 暗闇が譲ったわけではない。切磋琢磨している状況だったのだ。



(つーか、ああもう。つーか)



 ぐしゃぐしゃに髪の毛を掻き回して散らかしたい。

 こんな小奇麗な格好で相対したくない。

 敬語。身なり。視線。姿勢。距離。

 王子であるが故のそれらを。

 どうして、強いられているのが自分だけなどと。



(こいつが素直じゃないのは知ってただろうが)



 もどかしい。

 もどかしい。

 もどかしい!

 この身分も、素直じゃない性格も悪態をつく口も羞恥心も。

 全てを取り払って伝えたいのに。



「……何で目を隠す?」



 氷月の願いに可も否も告げずに、出てきた言葉はこれで。

 俺ってどうしようもねえなと気分を急下降させながらも、問い掛けに対して瞬時に両手で前髪ごと目を隠すという反応を示す氷月に、紅凪は空気が変わったのを感じた。

 乃ち、こちらに有利な態勢が取れる空気だ。



「なあ。一年前くらいから、だったよな?目を隠し始めたの」

「………」

「『雪芒』になる為かと思ったけど、違うな」



 紅凪が確信を持って告げると、氷月は肩を跳ね上がらせた。紅凪は氷月の一挙手一投足を逃すまいと、注視した。落ち着きがない。あわあわという擬音語が見えるほどに。これほど顕著に反応を示すのも珍しい。普段からそうすれば可愛げがあるというのに。



(じゃなくて……何か、隠しているな)



 隠している事は多々あるだろうが、己の力で乗り越えたい何かばかりだろう。

 と睨んでいたが、どうやら自分にも関係がある秘密もあるらしい。



「俺に何か伝えたい事があるのか?」


 紅凪は片膝を立てて氷月との距離を縮めてそう問い掛けた。

 とりあえず優しめに。あるだろうと問い詰めたいがしない。


「名前を告げるのを待ってほしいです」

「聴いた」

「…返事が欲しいです」


(…返事を求めるか)


 意識して瞼を閉じて、開いた。


「……待ってやる。けど、もう何年待った?十年だろ。だからあまり待たない」


 できる男はここで何時までも待っているよとか砂糖を吐くんだろうなと頭の片隅で思う。

 思うが、口に出さない。


(って、横道に逸れているし)


「氷月」

「………支障はないかと」

「見ているこっちが鬱陶しい」

「…見なければよろしいかと」

「執事だから見るのは当たり前だろう」

「………お洒落です」

「嘘つけ」

「私がお洒落だと言っているのです」

「んなもんとは無縁の女が何言ってんだ」


 立ち上がる氷月に負けず劣らず瞬時に立ち上がり、紅凪は氷月の手首を掴み額から離そうと試みるも、微動だにしなかった。


(この莫迦力め)


 退かせられないのは氷月の力である事も無論大きいが、自分がこの年の平均以下の体力である事を棚に上げて、早速悪態をつく男。彼の名前は白日紅凪。


「手を退けろ」

「嫌です」

「目を見せろ」

「嫌です」

「それで評判落としてるんだろうが」


 緩んでいた空気が張り詰めると同時に、しまったと。爆弾を落とした事に気付いた時にはもう、氷月の姿はなくなっていた。




「あ~~~。くそっ」


 今度こそ、両手でこれでもかと髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。




 『雪芒』として名を上げる『天紅家』。頂点に立つ者に求められるのは、品行方正な姿勢。

 見た目云々と言うよりも、髪の毛で目を隠す事は、こちらの目を晒さず、相手の目を見て話すのを拒むという事。

 何よりも品行方正さに欠ける行為。不信を生む要因にもなる。

 今の処は、『雪芒』になる為の修行の一環、という事になっていて、一応の理解も得ているらしいが。



 『雪芒』には、氷月が何故前髪を隠しているのか。その必要性を知っていながらも、それは未熟者が取る最低の行為だとも知っていた。

 だからこそ、名門家の天紅の姓を与えられながらその程度なのかと、氷月のみならず、氷月にその姓を与えた雪晶への評判が著しくなく、『雪芒』の事を詳しく知らない者たちは、修行の一環とは言えやはり不敬であるだろうと、同じく二人の評判が著しくないらしい。


 名を上げるとは、それだけ重責を持つという事。



(俺だから、修行の一環とは言わなかったんだろうが)



 人に好かれる要素があれば批判的な眼も減っただろうが、あっちこっち不器用な氷月は根気よく付き合わなければそれが見当たらない。付き合ったとしても、可愛くないと思う事が多々。であるからして、初見どころか、二見三見の相手にも印象は最悪、となるわけだ。



(……あいつもえらいところに拾われたよな)



 おばばのところだったならな。今更どうしようもない事を思いながらも、動かなかった足を前へと踏み出し、その勢いを殺さずに部屋を飛び出した。






 灯篭が朔の暗闇をものともせずに前後左右を照らす中、紅凪は見知った警備兵を見つけて呼びかけた。警備兵の名は漣朱希さざなみあき。日に焼けた筋肉隆々の身体に、頭を鶏の鶏冠のように見える紅の棟髪刈りで飾り、閉じているんじゃないかと疑わしい細めの目を持つ、特徴がありまくる十七歳男性。紅凪たちの幼馴染であり、紅凪が羨んだ妹を持つ彼は今、総務省治安部に所属していた。



「氷月なら東の池に向かっていたぞ」


 紅凪は、ありがとなと礼を述べてすぐさま立ち去るつもりだったが、紅凪王子と呼び止められて急停止して振り返った。


「んだよ」

「おまえがあんまり意地悪な物言いをするから、氷月も限界突破したんだろうよ。もうちょっと優しい接し方ってのも学ぶべきなんじゃね」

「妹との仲を修繕してから言えっての」


 せっかくの忠告も鼻であしらうばかりか、要らぬ忠告返しに、朱希はひくりと口元を引き攣らせた。


「はぁ?何言ってんの?何言っちゃってんの?俺たちの兄妹関係はすこぶる良好なんですけど」

「嘘つけ。この前、『鬱陶しい。警備中だって言って頻りに私のとこに来る。いい加減に止めてほしい』って言ってたぞ。そりゃもう疲れ切った顔でな」

「そりゃあ、俺の心配してくれてんだよ。お兄ちゃん身体大丈夫なのかな働き過ぎてないかなって。素直に言えないんだよ恥ずかしがり屋さんなんだよ」

「うわ。自分にすごく都合のいい妄想を繰り広げているよ。可哀想に」

「はあ?俺は可哀想じゃないし、可哀想なのはおまえの方。いや。氷月だし。こんな男に好かれて。知ったら、寺に駆け込むね。断言してやる」



 おまえじゃねえしと、訂正しようとした考えがぶっ飛んだ瞬間であった。



「は、はあ?誰があの滅茶苦茶ひん曲がっている女が好きだって?寝言は寝て言え」


 動揺を露わにしまくる紅凪の姿に、朱希は戦意を喪失させた。


「おまえな。見ていて丸分かりだって」


 呆れ顔で顔を左右に振ると、朱希は殊更優しく紅凪の両肩に手を添えて、菩薩の如き慈愛を湛えた笑みを向けた。



「だから早く告白して考えられませんって断られろ。俺が大爆笑を贈る事で慰めてやるから」

「こんな見当違いの考えばっか浮かぶ兄を持って、一番可哀想なのはおまえの妹だよ」



 刹那の視線のぶつかり合いを放棄したのは紅凪であり、尊大不遜な物言いでそう言い放つと同時に肩に置かれた手を追い払。おうとしてもできない彼の、紅潮した頬がさらに色を濃くさせ続けるその様に目を止めた朱希は、だから鍛えろって言ってんのにと呆れながら、自ら手を引いたのであった。


 その結果向けられたのはしてやったりの顔。さらに呆れは増す。



「氷月な。一年前くらいに告白されてんだぞ」

「へー」

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

「はあ!?」

「溜め込み過ぎだっての」



 朱希は落としそうな紅凪の顎を手で押し上げて、莫迦を言い出す前に先手を打った。



「愛の告白だぞ。僕はあなたが好きです付き合って近い内に結婚してくださいっつー胸糞悪いあれだぞ俺は認めんぞ絶対にだ!」



 妹の事を思い浮かべてしまったが故に血管が二、三本切れた朱希は、紅凪と同じく錯乱の境地に足を踏み入れてしまった。



「莫迦!誰がてめーなんかに愛の告白なんかするか!」

「俺がするんです!妹に!」

「実の妹に結婚申し込むとか気持ち悪い!」

「それぐらい愛してるんですぅ!」



 錯乱する二人がこれでもかと声を張り上げて言い合い続けて、頭に上った血が漸く下りてきたのは、それから五分後だった。

 喉を抑えている彼らが疲労困憊しているのは、言い合いだけが原因ではないのだろう。



「のどいてえ」

「おまえの所為だろうが」

「早く氷月を追えよ」

「……告白って。誰がしたんだよ」


 やっとかと、朱希は肩の力を抜いた。


「…それ知ってどうすんだよ。俺の女に手を出すなって牽制でもする気か?」

「……氷月はどうしたんだ?」


(……さっさとそれを訊けっての)


 揶揄した自分も悪いがと思うが、こうでもして骨を折らないと本音を引き出せないのだ。

 面倒臭いとどれだけ思ったか。



(こいつの魅力っちゃ魅力なんだろうがな)


 町の皆に好かれ続けるのも、素直ではなくても、最後の最後にはこうして可愛げを見せるからではないだろうか。他がしおらしくなっても言葉や声音に関しては最後の最後まで可愛げがないが。そもそも本人がどれだけその口で悪態をつこうと、表情や行動がそれを裏切っている紅凪の不器用さを悪く思うやつなどそうそういないだろう。


(氷月に関しては度が過ぎるがな)



「断ったに決まってんだろ」

「……そいつも何をトチ狂ったんだか」


(あーホント素直じゃねえめんどくせえ)


 科白と表情をこれだけ一致させないのもある種の特技だよな感心する。


「紅凪王子」



 朱希は白い歯を見せた。揶揄の要素を一切含まずに。


 紅凪と呼び捨てて呼ばない。

 以前と同じ心持ちで呼ばない。

 我々と同じで、かなり違う。王子と名乗る場所に立つ覚悟を敬愛する。


 心から。


 受け入れて、突き詰める。王子なのだと。自分にも、彼にも。

 今まで培ってきた時間が消えるわけもなく、根っこを共有していれば十分なのではと。

 変わらぬものがある事を互いに知っていれば十分だと。



(まぁ。んなのを無視して入り込んでくるから意味がないんだけどよ)



 こちらの垣根を容易く超えて来る紅凪の性質。

 強ければ壊してしまう風とも水とも形容できないそれを知っていても尚、彼らはその立場を受け入れていない。

 見えない壁に苦しんでいるだろう。阻まれて近づけない距離を悲しんでいるだろう。寂しがっているだろう。

 根っこだけでは足りない。葉の先々まで共にいたいと。



(仙弥は自覚ありで………氷月は恐らく、無自覚だな)



 無表情でほとんど口を開かない氷月はしかし、目でものを言う性質だった。

 瞼を動かして。眼球を動かして。そんな物理的行動からは説明ができないような色や輝きを目から発進させて、感情を伝えて来る。

 喜怒哀楽の哀だけを除いて。



「氷月は頑固で、おまえ以上に不器用だって事。精神の平衡が不安定な事。ちゃんと胸に刻んでおけよ」

「…言ったろ。滅茶苦茶にひん曲がってるって」



 同じ男として悔しいと思ってしまうほどに、見惚れる微笑を向けて、紅凪は氷月の元へと駆け走った。珍しく清流。濁りがない。






「あ。しまった。あんま気を揉ませんなよって忠告すんのも忘れた」



 氷月が告白された場面に遭遇したのは一年と少し前。朱希はひっそり物陰から様子を窺っていた。



 結果、あの近づき難い空気を醸し出す氷月に、好きです付き合ってくださいと堂々と告げた相手にあっぱれと称賛を贈ると同時に、同情もした。顔を真っ赤にさせたまま、声も少し震わせて、どういう事がしたいのかを細かに語らされたと思ったら、振られたのだ。見た印象では純朴そうな男であった。恥の上塗りという辛苦を舐めさせられて、見てられないったらない。彼の将来に幸あれと、活力の出る薬草でも送りたい処だが、他人にあの場面を見られたと知ったら、地面に穴を掘って出て来なくなるかもしれないから堪えた。



 そうして相手が律儀に話を聞いてくれた事への礼を述べて去って行くのを見届けてから、一方の氷月を見れば、珍しく小難しい表情をしていた。恐らくはだが相手を慮っての、ではないだろう。つくづく可哀想。


 そんな同情を禁じ得ない日から一か月ほどして、前髪で目が隠れているなと思ったら、今に至るまでその状態を継続。


 多分、気付いたんだろうと思う。自分に好意を寄せる男の目を間近に見て漸く。

 仙弥が紅凪を好いている事に。

 目を隠したのは、自分の目が思った以上にダダ漏れなのを知っていたからだろう。

 何故告白しない。何故気付かないと。非難してしまう目を見せたくなかったのだ。



(俺だってやきもきしてたもんな)



 仙弥の視線の先にいるのは大抵紅凪。ほぼ紅凪。熱を含ませた目で見ている時、仙弥の周りにぷあぷあ桃色的なしゃぼん玉みたいなのが飛んでいる。目尻下がっている。口元も緩んでいる。恋する乙女ジャン。肩に優しく手を置きたい。


 しかも、かなり昔から。十年は経っているのではないだろうか。

 気付かれていないと思っているだろう。ところが残念。仲間はみんな知っている。

 どころか、おばばも知っている。紅凪の母親も知っている。


 近しい者で気付いていないのは、視線の君の紅凪だけ。


 紅凪だったら盛大に揶揄るだろうが、仙弥相手だとそうする気など全く起きない。

 同じ不器用者でも、あんなに純情で真っ直ぐで、甘酸っぱい恋をしていますねという雰囲気を醸し出しているのだ。どうしてからかうなんてできようか。

 やきもきはする。心中だけで。表面上は何も気取られないように。さっさと言っちまって成就すればいいと願う。そうして長年見守っていたのだが。



(なのに、紅凪がまさか氷月を好きになるなんてな)



 実はかなり昔からの想いです、という衝撃的事実に気付かなかっただけかもしれないが、好きになったのは二年前だろうとは思っている。

 二年前から放出しまくっているのだ。


 何故だろう。

 不器用な二人共にダダ漏れの恋なのだが、一方が散り桜としたら、一方は滝の爆濁流である。全く違う。同じ初恋だろうに全然違う。


 散り桜を応援する身としても、気になるのは氷月の想いだが。

 確実に紅凪への恋慕の情など抱いていない。断言できる。

 特別には思っているだろう。仙弥と同じくらいに。


 そう。特別な二人ぐらいなものだ。氷月の超絶小さい輪の中に入れる、もとい無理矢理押し込んだのは。

 自分たち仲間はその周りにいられるくらいなのに。



(いや。もう一人いる。しかも自然に入れた)



「そろそろ交代時間。お姫様に会いに行きましょうかね」



 朱希は足を浮き立たせて、交代すべく警備室へと向かった。







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