天と地のせいめい 七



 人は道が見えている。親や環境や制度で、明瞭だろうが不明瞭だろうが、短かろうが長かろうがの違いこそあるだろうが、こうするんだろうという道は見えている。



 立っていられる場所を持っていてこそ。

 照らす光も持っていてこそ。



 場所と光は幸運にも最初から持っていたように思う。

 孤児院で育った俺もおぼろげながらも道は見えていた。ここで生きていくのだと。

 おばばに引き取ってもらってからは、おばばの傍で生きていくのだと。

 幼かった俺にはそれだけで十分だったのだ。

 生きて行ける場所が、乃ち生きていく道だと。



 そんな受動的で不明瞭な道を消したのが、紅凪だった。

 能動的で明瞭なものにするのではなく、立ち場所だけ残して崩壊させやがったのだ。

 初対面。一目見た時。言葉を交わす前。



 今なら言葉にできる、こいつの傍にいたいという強い衝動も、その時はただ、何の合図もなく突如として破壊活動が周りで勃発したかと思えば、周りを囲むのは奈落の落とし穴で、立つ場所しか残っていない状況に陥っていたのだ。



 何をしやがったんだと茫然とした。

 道がないと恐怖した。



 けれどそれは刹那の事。紅凪に手を引かれて踏み出した時に道ができたのだ。

 胸が躍り、踏み出していきたいと思える明瞭な道。


 ああ、こいつの傍にいればと安堵すると同時に、離れたらどうなるのだろうと危惧したが、無用の長物で、また受動的で不明瞭な道が現れたのだ。


 紅凪に会う度に道は消え去り、また不明瞭な道が現れるの繰り返しなのかと怯えれば、次の日に紅凪に会っても今度は何も起きなかった。不明瞭な道はそのまま。



 あの、たった一度きりの道を見たい。

 紅凪の隣で。



 今なら分かる。

 道が破壊されたのは、それだけ衝撃が大きかったのだろう。


 一目惚れというそれが。


 ただ今でさえ、道は不明瞭だったり明瞭だったりと繰り返しで、安定していない。

 拾ってくれた恩を返すべく、おばばの店を継ぐ。

 運動が苦手で身体を鍛えない紅凪の代わりに、俺が身体を鍛えてその部分を支える。


 学んで、吸収して、披露して。一つ、一つを繰り返して、自信を付けていく。

 己の立つ場所は、己が確かに踏み締めて確固たるものにしていると。

 そうして、紅凪の近くにいれば、またあの道が見えると信じていた。


 紅凪に王子だと告白されるまでは。


 道はもう閉ざされてしまったのではないかと、揺らいでしまった。

 紅凪が氷月に思いを寄せている事を知ってからは。






 氷月を初めて見た時の印象は、分からない、だった。

 警戒。拒絶。兢兢。緊張。焦燥。困惑。苦悩。それらの感情が掴めそうで、するりと逃げる。

 何も掴めないから、分からないまま。

 気に掛かるのは、同じ境遇だったからだろうか。今でも分からない。

 分からないが、転機が訪れ、氷月を意識して特別な存在だと位置づけるようになった。



 それは俺が七歳で、氷月が五歳。出会ってから一か月が経った頃。


 加治に紹介された日からその期間。全く姿を見せない氷月が心配になって、また、当時日本の忍びに憧れており、修行の一環として正面から訪れるのではなく、天紅家の邸に潜り込んだ。


 氷月の部屋が何処にあるか。間取りがさっぱり分からずにとりあえず塀から庭に降り立った瞬間、全身が産毛立った。


 満月の日だった。不用心にも灯篭が置いていなかったが、その明かりのおかげで、さらに三歩先の距離だったので、注視せずとも人がいる事も誰かも分かる。


 その分かるはずの状況で、その人物の正体が分からなかった。

 月に拒まれているのか。月を拒んでいるのか。暗闇で全身が覆われていたからだ。


 けれど、分からせないその事実が、氷月であるのだと確信させ、そして、或る考えが唐突に浮かんだ。



 そのまま闇夜に攫われた方が楽になれるのではと。

 その身をいくら削っても癒す事すらままならずに。

 己の手さえ見えない、暗闇が満ちる深海の中でもがきながらも、たったの一歩もその場から動けずに。知っていても尚、もがき続ける。全身を使って。



 道が見えない人もいるのだと、氷月を通して初めて知ったのだ。

 立つ場所も、足元を照らしてくれる光さえもない。

 氷月にとって、天紅家に引き取られただけでは足りなかったらしい。

 足りずに、もがき、苦しみ続ける。




 闇夜にと。

 囁きかける。

 闇夜に攫わせて、楽にしてあげてと。

 ねっとりとした甘美な響きを以て。

 紙袋の音に突き動かされて声を出さねば。もしかしたらと、今でも錯覚する。











「氷月。蒸しぱんを食べるか?俺の手製だ」



 仙弥は池を見つめている氷月に、紙袋を差し出した。


 中身は店の中でも定番中の定番の甘薯と林檎、干し葡萄の蒸しぱんである。小麦粉と砂糖、脱脂粉乳、食塩、膨らまし粉と牛乳を混ぜた生地を頭頂部が尖っていない平らな山を逆さにした形の紙の入れ物に流し込んで、その上に角切りの甘薯と林檎、干し葡萄を乗せて蒸し上げる、冷めても温かみを失わない素朴な甘味のするお菓子である。



 あの刻と同じように。

 ひと時の休息を。




 蒸しぱんはご飯ではなく、おやつ。

 おやつは、ひと時の休息を与える。

 おばばの売り文句。

 朝食、昼食、夕食などのご飯が動く為に必要な食事だとしたら。

 おやつは、休む為に必要な食事なのだと。











 要らない。

 幼い私は彼の厚意を拒んだ。

 必要ない。

 そう、即座に切り捨てたくせに。


 必要なのは、


 本当は何かが分からなかった。


 現在も過去も未来も書き出す新聞を読んで、病気にならないように身体を鍛えて。

 日々を積み重ねても、立てる地が現れない。ここが何処なのかを露わにする光が現れない。


 もがき続けなければならない。


 苦しいのに。もがき続ける。手も足も頭も全部働かせ続けろと警鐘が鳴り響き続ける。

 ご飯は食べても吐いた。眠れなかった。

 できない事に焦り。動けなくなる事に怯えて。動き続けて。


 けれど、限界は訪れない。身体も精神も一線を越えさせない。壊れない。生きている。

 人はどうやって生きている。こんな苦しみを抱えてどうしてあんな微笑みを浮かべられる。


 苦しい。その一言が出て来なかった。


 自分を蝕み続けるものも名称が分からなかった。探ろうともしなかった。

 できないからだと、思い込んでいたのだ。

 できれば、すべてが解決するのではと。


 何を?

 何ができればいい。



――氷月。



 呼ばれた。意味のない名前。空っぽ。あちこち穴が開いて、響きを持たない。

 私を名称づけるものなのに。どうしてこう寒々しいのだろう。耳を塞ぎたくなるのだろう。

 もう、何処かへ行ってほしかった。独りになりたかった。




(このまま、闇夜に攫われれば)




 焦りも怯えも、消えるだろうか。

 氷月という私が、消えるだろうか。


 消える?


 もう似たような存在だろう。

 形ばかりで実体のない名しか持たないのに。

 本当は、何も持っていないのに。




――何も持たないんだろう。


 そう。何も持っていない。


――あげるから。


 何を?何をくれるの?


――蒸しぱん。本当はおばばが作ったのがいいんだろうけど、俺が作った蒸しぱん。


 食べても吐く。


――吐かない。


 嫌だもったいない。


――絶対だ。


 嫌だ。


――……もったいないな。これを食べないなんて。すげーのに。


 すごい?


――そうだぞ。忍びの俺が作ったすごいのだ。


 忍び?


――忍びはすごい事ができるすげーやつで、そのすごい俺がこの蒸しぱんにすげーものを混ぜたから、氷月も食べたらすげーやつになれるんだ。


 すげーやつ。


――そうだ。すげー蒸しぱんだから、絶対食べられるし、食べたら、すげーやつになれる。


 すげーやつ。


――食うか?


 食べる。




 すごい、とは、何とも単純で全能な言葉だろうか。

 忍びが何なのかも、何がすごいかも分からないのに、神妙な声音で自信満々に、すごい、すごいと連発するものだから、すごいんだと、素直に受け取っていた。

 紙袋から取り出して両の手に乗せた蒸しパンは、ほんのり温かくて、優しい月の色をしていていた。


 すごい事を証明するように仄かに発光するこれを食べたら、すごくなれるんだと、信じ切った私は、落とさないように片手に移動させて、片手で支えながら、紙で包まれていない、でこぼこしている半円状の上部を人差し指と親指で掴んだ。


 ほんわりと柔らかい蒸しぱんに食欲をそそられて、片手に乗せた蒸しぱんを胸元に寄せて、手首で支えながら、ぱくりと一欠けらを口の中に入れると、ほろほろと優しく散らばった。


 分裂して綿菓子のように消えてしまうんじゃないかと思えたそれは、小さな形を残したまま、噛めば歯と歯の間で反発する微かな弾力があった。


 最初に広がったのは生地本来の素朴な甘みで、次に甘薯と林檎の個性のある自然の甘みと干し葡萄の酸味と甘みと微かな苦味である。


 優しくて心休まる、消化に良い味であり、懐かしい食べ物とはこれを差すのではと思う。


 お腹の中にふんわりと柔らかく行き届いた事を感じてから、また、同じ動作で、ゆっくり、ゆっくりと咀嚼して、感じて、一つ全部を食べ終えた。


 気付けば、横になっているような心地に抱かれていた。


 ふわふわと柔らかく、ほんの少し、おぼつかないけれど、危うさをまるで感じさせない、温かい地の上で。




 初めて、人心地がついた瞬間である。

 地を与えられ、光はまだなくとも、漸く正常に呼吸ができた気がした。




『氷月』


 呼ばれて、首を振った。


『私は、氷月になっていない。それに、私は、氷月じゃない』


 伝わるだろうか。加える言葉が思いつかない私は、ごめんなさいと謝った。


『氷月と呼ばれるのは嫌か?』


 首を振った私は、次の日から町に出た。

 彼の忍びの技を盗む為に、近すぎず遠すぎずの距離を保って観察を試みたのだ。











「ありがとうございます。ご馳走様でした」

「お粗末さま」



 あの時には言えなかった感謝の言葉を告げた氷月は、前髪に微かに触れた。

 この前髪に加えて己の未熟さ故に、義父の評判まで落としている事に気付いていた。

 評判を回復させるには、立派な『雪芒』になり前髪を切る。

 初めての任務の結果は無様なまでに何もできなかった。どころか、失敗して、大事な思い出を汚した。手を煩わせた。



 白い空間の中での修行を『そめ』と言うが、その『そめ』に耐えられない未熟者は前髪を伸ばすのだ。伸ばして、自ら闇を作り、白き光をせめても和らげさせようとする。

 そのほとんどの者は『雪芒』になれない。『雪芒』から暇を出されるか、自ら退去するからだ。


 修行を始めた当初なら許されるだろうが、氷月は初めてもう五年になる。しかも、一年前から急に目元を隠し始めた。怖気づいたと思われて当然だろう。

 下手をすれば、『雪芒』になりたくないとの意思表示にも取られかねない。

 だと言うのに、氷月は前髪を伸ばしたまま。



(私は愚か者だ)



 願っている事に反してばかり。

 氷月は意識して息を深く吸い、止めて、吐き出して、止めて、仙弥を見た。



(…やっぱ、見下ろされんのは嫌だな)



 成長期をまだ信じる仙弥は、次には氷月もまだ成長期じゃねえかと絶望しながらも、何か言いたげな氷月の言葉を待った。

 待って、待って、待った。



「仙弥殿には告白したい御仁はいないのでしょうか?」



 仙弥の全身に稲妻が落ちた瞬間である。



「……いないが、いきなりどうした?恋の相談か?」



 しゃくれている。氷月は冷や汗が出た。仙弥のあごがしゃくれているのだ。

 思ってもいない動揺の表現に、氷月もまた動揺してしまった。



(こんなになるほど、仙弥殿にとっては触れてほしくなかったのか。でも)



「私は仙弥殿が好きです「へっええ~。氷月は仙弥が好きなのか」

「紅凪」


 顔の筋肉を引きつかせる紅凪の登場に、最悪だと仙弥は思い、好機だと氷月は思った。


「はい」

「へええぇえそおおなのかあ」

「紅凪王子も好きです」

「「へ?」」

「それでは失礼します」

「「は?」」


 晴れ晴れとした声音で去る女。氷月。口下手に加えて、言葉も圧倒的に足りなかったのであった。




「………寝る」


 謝りに来た事も一時的に忘れてしまった紅凪は、身体を前後左右に揺らしながら、とぼとぼと二の丸へ向かった。氷月の好き発言に何の弁明も解釈も言えなかった仙弥は、後ろ首を掻きながら彼の後を追った。








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