第18話 てんかいを求めんとして/清明を失う水飴

 七月三十日午前十一時。

 息子が受験という大変な時期だったにもかかわらず、

 ほぼ家に帰ってこず、

 帰って来たとしても数時間かそこらでまたどこかへ行き、

 大学合格が発表されてからおめでとうと祝福したその口で、

 独り暮らしを始めてもらうから準備をしてねと有無を言わさず言われて、

 いやいや家から十分通える距離なんですけどと反論する口を噤み、

 夏休みまで絶対帰ってきちゃだめよと見送られて、

 本日、約五か月ぶりにわが家に帰宅。



 久々に母さんのご飯が食べられるなーと、呑気に思って、

 今は誰もいない家の玄関の鍵を開けて、

 靴を脱いで、

 廊下を進み、

 楽しみにしていてねの母さんからの置手紙に夕飯の事かと納得して、

 洗面台に行って手を洗って、

 階段を上り、

 自室の扉を開こうとして、


 ふと。


 真向いの部屋の扉がほんの少し開いている事に気付いた。

 二階の部屋数は四つ。

 俺の部屋、母さんの部屋、父さんの部屋、そして客間だ。

 客間には腰の辺りの高さの本棚が扉を除いて四方を囲んでいて、

 住居や歴史、映画の古い本が並べられていたので。


 久しぶりに読もうか、と。

 扉を押して中に入ろうとする、

 と。




「…久しぶりだな」




 竹刀を空に掲げている美影そっくりさんがそこにはいました。








(いやいやいや。ないないない)


 静かに扉を引いてカチャリとちゃんと閉まったのを確認して数分。

 もちろん、ちゃんと確かめようとは思っている俺は、

 それでも、扉の持ち手を強く握りしめた姿勢のまま身動きができなかった。


 熱いのか、寒いのか。

 両方混じった汗の消費量が半端ない。

 そのせいで持ち手をうまく掴む事ができなくなってきた。



「……俺の幻覚という可能性が大だしな」



 大体にして、この部屋に本当に人が実在するのかさえ怪しい。

 はい。深呼吸を三回繰り返して、気持ちを落ち着かせて。

 持ち手を下ろして、扉を押して。



「……」

「……」

「……渚」



 涙腺が決壊しそうになるのを何とか防止。

 持ち手から手を外して。

 石のように動かない足を叱咤して、一歩、二歩と前へと進む。

 進んで、進んで。

 手の届く距離で踏み止まって。

 手を持ち上げて、

 持ち上げたが、

 そこからどうすればいいのか分からずに、停止。



 高校二年の時に成長が止まったのか、まだ可能性があるのかが分からないが。

 身長が伸びていない俺は、今もまた美影を見上げている。

 視線の先にいる美影は俺とは違い成長している。

 身長はそのまま、だけど前よりももっと精悍な顔つきになっている美影に、女性に使う形容詞じゃないよなと、心の中では苦笑しているというのに、現実では表情筋は微塵も動いていない。



 幻想なのか本物なのか。

 触れればわかるのに。



 泣いて。

 縋りつきたい。


 

 会いたかったと。

 声を振り絞って伝えたい。



 俺の気持ちが定まっていたのなら、

 躊躇なくできたはずなのに。




「…演技だったのも、俺が女だってのも、全部本当だ」

「みか」




 駄菓子屋で売られている、水飴を包んでいた食べられる透明無味な何か。

 よく歯や口蓋にくっついていたそれが。

 喉に貼りついているみたいだ。


 なんて。


 なんでこんな文字数にしたら長ったらしいものを思い浮かべたんだ。

 

 美影を見て、無意識に呼び起こされたのか。

 幼いころ気に入っていた。

 綺麗で透き通った空色の水飴が。



 触りたい。

 さわりたいと。

 肉と骨はざわめくのに。

 心と脳と神経が拒否をする。



 血は?

 すべてに生き通っているこれはどっちだ?




「渚には悪いことをした」

「顔も見たくないだろうが」

「渚の母さんは、俺の演技の師匠で」

「大恩人で」

「俺は困らせたくない」

「だから、」




(俺は、空井渚じゃなくて)


(空井澪の息子ってしか、認識、されなくなるのか。それとも、もうされなくなったのか)




 脳。五臓六腑。血管。神経。骨。筋肉。脂肪。眼球。皮膚。

 身体を外形している全ての物体が、

 軋みを上げる。



 イヤダと、

 ヒメイを上げる。




「美影」

「俺は男にしか恋愛感情を持てないみたいなんだ」

「だから、美影にその感情は持ってない」

「謝るのは、俺のほうだ」

「振り回してごめん」

「けど、さ。もし、よかったら、友達、になれないか?」



 遮って。

 血の通う声音で。

 落ち着いて。

 後悔して。

 恥じて。

 でも。



「俺は、美影とまた話したい。高校の時にできなかったことを、したい」

「……全部、演技だぞ」

「ああ」

「俺は、女だぞ」

「いやいやいや。別に女が嫌いってわけじゃないから。恋愛対象が男だってだけだから」



 おどけた声音で笑みを向けると、

 美影も微笑を返してくれた。


 ああ、好きだなと、素直に思った。

 これが全て演技だったとしても。

 構わない傍にいたいと。


 ただ、


 幻覚であればと、少しだけ思った。




「もしかして、俺が家を出たと同時に美影がこの家に引っ越してきたのか?」

「ああ。師匠、渚の母さんが、そうしろって」

「ずっとか?」

「とりあえず独り立ちするまでだとは言われた」

「劇団に入ったって、校長に聞いた。舞台女優を目指してるんだな」

「…ああ」

「…大丈夫なのか?」



 稽古ならまだしも、本番でご飯を食べ続けて。



(そういえば、今も食べてない、よな。もしかして治ったのか?)



 美影は小さく頭を振った。



「治ってないが、ちょっと我慢…集中?すれば、食べなくても大丈夫になった。それでも本番の時くらいだけどな」

「そっか………なら、今は?」

「ついさっきまで食べていたから小休憩中だ。いつも食べているわけじゃない」

「…そう、だった、な」



 記憶を思い返し、そういえば、食べていない時もあったなと思い出す。

 思い出して、口元が緩む。

 緊張が解かれていく。

 こうして話しているだけで満足だ。



「なぁ、俺、夏休みなんだ」

「ああ」

「海行きたい。祭り行きたい。花火したい」

「…俺、は、いつ呼ばれるか、わからないから、約束を、しても、守れない」

「なら、今日花火やろう。だめだったら、また今度。な」




 と。

 本気で思えたらいいのに。


 男だったらと。

 何故考えてしまう。




(このまま、)




「な?」

「…わかった」





 俺は雨を止ませようとはしなかった。










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