第13話 流傘/かさはながれをせきとめる、そして、かさがながれをはげしくする
なまえ。
名前が思い出せない。
なまえ。
呼ばなくちゃ。
呼んで。
抱きしめて。
愛しているって何度だって伝えて。
あなたは普通なんだって。
ご飯。
栄養たっぷりのご飯を作って。
偏っちゃ駄目。
バランスよく。
眠れない。
身体を動かそう。
勉強もちゃんとしなくちゃね。
無理はしないで。
少しずつ。
病院は。
あそこは駄目。
もっと調べるの。
まだ見つからないけど。
だいじょうぶ。
だいじょうぶよ。
私が絶対に治してみせるから。
私が。
だって、私は。
あなたのお母さんなんだから。
だから早く迎えに行かなくちゃ。
あの子をあめから護らないと。
「美影先輩。あ~ん」
「なぁ。佐之助。おかしいよな。おかしいよね」
「微笑ましいよな」
完全に面白がっている隣にいる佐之助に眼を飛ばしてから俺は視線を前に戻す。
俺の前を歩く二人組。
傍目から見れば見事なイチャップル。
腕を組んでさ。
見た目彼女が綿菓子を見た目彼氏の口元に持っていってさ。
見た目彼氏は何のためらいもなくそれを食べちゃってさ。
独り者にとって目に毒だな、とか、俺も美影と、とか、まぁまぁ、羨望多く嫉妬多少の余裕のある感想を抱けたわけだよ。
ほかのやつらだったら。
(くっそ。のえる。そこは俺の居場所だっての)
早く退け。
強く念じる。
目元も眉間も痛くなるくらいに眼力を込めた。
赤いビームくらい簡単に出せちゃうんじゃないか、今なら。
けど、そんなの前を向く見た目彼女、のえるには届かなかったようだ。
ああ、むしゃくしゃする。
言葉に出したい。
行動に移したい。
でもできない。
何故って?
そんなの単純明快。
美影が嬉しそうだから。
俺たちと合流してからこっち。
のえるは美影の腕を引いて、展示物、お化け屋敷、喫茶店、飲食店、短い演劇、と文化祭を楽しまんと、教室の端から端を制覇して行っている。(ちなみに梅雨の時期の食中毒対策として生もの禁止、飲食物はほぼ、すでに加工されているものを加工する形を取っている)
美影は終始笑顔の、のえるの為すがまま。
それが何より楽しんでいる、証拠。
もしかしてのえるのことを恋愛対象として見ている?
のえるを拒まない、嬉しそうにさえしている美影の姿に。
そんな考え、そんな焦燥はない。皆無。
ただ。
面白くない。
その一言に尽きる。
そこにいるのは、いたいと一番願っているのは俺だと。
(けど、元々美影はのえるを気に入っているみたいだしな)
もしかして今日はこのままのえるに独り占めされるのかもな、との危機感に、今日の空のような気分に害されそうになるが、されど致し方なしと、前を歩く二人の後を追った。
本日二度目、午後三時の上演に集まったのは午前の部をかなり上回る客数。
と言っても、途中から入ってくる連中を含めて。迫る閉会式、閉店が相次ぐ中での暇潰しだろう。
美影の演技を目の当たりにして最初から見なかった事を後悔しろよてめーら。
と、美影ほどではないがそれでもこの日に向けて練習と努力を重ねた俺たちの演技、演劇の様を莫迦にしたような、観客としてかなりよろしくない態度を取る少数の相手らに、明日は眼精疲労を引き起こしているのかもなとの危惧を抱きながらも、若干情けない喝を心で、実際には場面の節々で眼を飛ばし続けた。
結果。
美影の演技に魅入ったであろう彼らは徐々に口を閉ざし、最後にはまぁまぁよかったかもなと仲間内で囁き合いながら閉会式が行われる体育館へと足を進めて行った。
(ざまあ)
鼻で笑いながら彼らの後ろ姿を見送り、来年の文化祭までは見られないであろう貴重な美影の岡っ引き姿を目に焼き付けて、彼の写真を取った女子たちに携帯に送ってもらおうと、鼻歌を奏でる俺が段ボールで四方を囲んだ他には誰もいない簡易衣装室で衣装を脱いで制服へと着替えようとしている途中。
「浮気?」
「…真田。今、俺パンツ一丁なんだけど」
何で女子は水着姿になるのはよくて、下着姿になるのはだめなんだ、裸はまぁわかるけど、との疑問を抱きながら、女子がてるてる坊主のようにバスタオルに包まって着替える中、他の男子たちと共にパンツ一丁で教室内を走り回っていた小学中学年までの恥じらいを知らなかった俺に語りかけたい。
その頃以来となる、パンツ一丁姿を女子に見られる事態になった今になって漸く、その頃の女子の気持ちが少しは分かるようになったぜ。と。
さすがに、
キャー変態!!
と顔を真っ赤にさせて叫んでは慌ててズボンを穿くまでには至らないが。
「つーか、何だよ浮気って?」
出て行けと言うのも何故か恥ずかしく、いつもよりも若干早く、けれども恥ずかしがってませんよ、通常運転ですよとの体を取って着替えを済ませて後、真田に向かい合った。
「観客に熱い視線を送っていたでしょう?」
「あれは睨んでいただけだっての。うるさかっただろ、あいつら」
何言ってんだかと呆れた顔の俺は、次には冗談よと笑顔を見せるだろうとの予想をつけるも、真面目な顔のままの真田に。何だよと、眉間に皺を寄せる。
「渚君は、美影が好きなの?男子が好きなの?」
「そんなの美影が好きに決まっているだろう」
本当に何を言っているのだろう。
訝しむ俺に、真田は淡々と疑問を投げかける。
「じゃあ、たまたま好きになった子が男子だっただけ?」
「そうだって」
「…ふーん」
「何だよ。俺たちが急接近したから焦って牽制にでも来たのか?」
「まぁ、そんなとこ」
ようやく似合いの、おどけた笑顔を見せた真田に。
「……なぁ、美影って」
だけど、安心するばかりか、嫌な予感が膨らんでいく。
「美影って…」
美影に対する疑問は尽きなくて、何を口に出せばいいのか、わからない。
人よりも遥かに多く食事を取り続けなければいけない理由は聞いた。
生き物ってのは、摩訶不思議なもんだから、そういう信じ難い病もあるんだろうと、嘘だと疑った事はなかった。
そして、精神から生じたものでもないのだと。
精神的に追い込まれる事があって生じた病ではなく。
先天的な病なのだと。
この病の所為で、恐らく、小さい頃、美影はいじめに遭っていたのだと、予想はついている。
学校に通うとしても、教室内で皆と並んで授業を、ではなく、特別な対応が取られていたのではないかと。
でも、だとしたら、あそこまで物を知らないって事があるんだろうか。
食欲以外の欲求が極端に薄いからと言って、教えられていたなら、近くに教えてくれる人がいたなら、身体に沁み込んで、覚えられるものではないのだろうか。
学校に通っていなかった、としても、親とか、家庭教師とか、学ぶ手段はあるはずで。
(傍に、誰も、いなかったのか?)
コンビニの店長の事をお父さんと呼んでいないのは何故?
本当の父親じゃないから?
だとしたら、何時知り合ったのか?
それに、本当の両親は?
死んだのか、生きているのか?
校長とはどうやって知り合った?
どうしてこの高校にいる?
何で、いつもコンビニ弁当を食べている?
栄養取れないだろう?
それにお金は?
店長が融通しているのか?
店長の手料理、美味かったのに、美影は口にしなかったのは、何故?
どうやって、これまでを、生きて来た?
病自体を受け入れて。
食べる事を誇らしく思って。
親しむ、のえるにはそう見えるのに、
慕う、俺には悲しんでいるように見えて。
教えてほしい事は山ほどあって。
傷つける事が怖くて訊けなくて。
遠ざかりたくはないから傍にはいるくせに。
本人が口にしないのを他人から聞くのは気が引けて。と。
近づけない、近づかない自分に苛立って。
ずっと、
ずっと、傍にいたいから。
踏み込む事も、
見知らぬふりをするのも、
その都度、その都度に、選んで来た。
なら今は?
意味深な、不可解な真田の態度に、
どちらを選択すべきなのか。
頭の中は靄に包まれて、
どう動けばいいのか分からず。
言葉にできないまま。
全校生徒は体育館に集まるように、との、スピーカ音に流されるままに、真田と二人、無言で歩を進める中。
過去に目を向ける俺よりも
今を楽しもうとするのえるを好ましく思うのは当然なのかと、
ふと、思った。
曇天。
絹糸。
ぬか。
天上から地面へと。
真直ぐに繋ぐのは弱弱しい雨。
鬱憤を晴らすような雨が欲しい。
そうして。
曇天の隙間から光が射せばいい。
曇天から薄雲に移り変わって、真っ青な大空が広がればいい。
ゆっくりと、確実に。
季節は巡るはずだった。
「帰りましょう」
文化祭の目玉を残しての閉会式がおざなりに過ぎて行く中での。
唐突な出来事だった。
濡れ具合から長い時間を歩いて来たのだと窺えるその訪問者は。
きょろきょろと誰かを捜している事も相まって。
この学校の保護者だろうと思わせる様相をしていた。
時たまいるのだ。
文化祭にかこつけて自分たちと一緒にはしゃぎ回る保護者が。
だから別に普段なら不審に思う格好をしている女性がここにいる事は、今の時点では予想内の出来事だったので、莫迦な大人だよなと、囁き合って、笑い合っていた。
嘲笑よりも微笑ましい笑い。
フィナーレに向かうには適した時間。
たしなめに向かう教師を突き飛ばし、
私の子どもを返してと、
金切り声で叫ぶまでは。
その声に応えんと、
瞬時に立ち上がった美影がその勢いを殺す事なく、
その女性の元に駆け寄るまでは。
「おばさん。帰るから、ちょっと待っていて」
早く帰ろうと、美影の腕を引っ張る女性を優しく諭す美影のその。
別人のような姿に。
教師を除き、誰もが座ったまま後ろを窺がう中、
遅れて立ち上がり、美影の元へと走った。
「校長先生。先生。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
先程とは違う、いつもの美影。
まるでこの場にいる人たち全員が敵だと言わんばかりに、睨み続ける女性。
疑問という文字は浮かぶのに。
その中身が全く思い浮かばないこの状況。
激しくなる鼓動に呼応して。
身体は酸素を求めているのに。
浅い呼吸しかできなくて苦しい。
踏み込めと。
美影を離すなと。
全身が警鐘を鳴らすのに。
もう一歩が踏み出せない。
周りを囲む教師陣に深く頭を下げた美影は、それだけ告げれば十分だと言わんばかりに、女性に引かれるままに体育館を去ろうとした。
「みかげ」
身体が動かないのならば。
せめて声だけでも意志を持たせたいのに。
なんて情けない声なのだろう。
僅かに霞む景色。
土と雨の立ち込める匂い。
唾の無機質な味。
聴覚と触角が如実に拾い捕る血液の流れ。
開かれたままの扉によって。
より一層、みずのいに居る事を実感させられる。
より一層、呼吸を困難にする。
美影が振り返り、焦点が定まった俺と目が合った瞬間。
「妻がご迷惑をおかけしまして、申し訳ありませんでした」
外を遮断したのは、息せき切った男性。
目に宿しているのは、この場に沿う怒り。
けれど。向かうべき方向が違う。
「みかげ」
こっちに来いと。
こっちを向いてと。
今度は意志を持って名前を呼ぶ。
俺には背を向けたまま。
男性と女性に向かい合った美影。
少しだけ話をさせてくださいと、小さく頭を下げて。
背を向けたまま。
俺の名前を呼んで。
背を向けたまま。
掴んでいる女性の手をそっと離し。
背を向けたまま。
伸ばした俺の腕を取って。
外へと出た。
訊きたい事は山ほどあった。
なのに、口にしたのは、懇願。
校庭の真ん中。
俺たちの身体を落ちて来る霧雨。
あめがほしい。
「行かないで」
背を向けたままの美影。
俺の腕は掴んだまま。
俺は何も掴めないまま。
「なぁ、渚」
ゆっくり。
「俺は嘘をついていた」
ゆっくりと。
「俺は男じゃない」
語りかける。
「女だ」
この場にそぐわない告白。
悪戯が成功したような笑顔。
離された腕。
掴めない手。
そんなの今はどうでもいいと。
詰め寄って。
腕でも肩でも掴んで。
行かせはしないと。
言葉でも行動でも伝えなければいけないと。
確かにそう思うのに。
女だと告白された瞬間。
流れが塞き止められた。
「全部、演技だった」
「じゃあな」
一方的な言葉。
通り過ぎる身体。
動かない身体。
曇天。
霧雨。
濡れた地面。
血の雫。
血の味、匂い、血液の流れ。
みずにつつまれる。
天上から地面へと。
真直ぐに繋ぐのは弱弱しい雨では流せない。
だから欲するのは。
立っていられないほどに激しい雨。
そうして。
曇天の隙間から射す光。
曇天から薄雲に移り変わって、天空を覆うのは真っ青な色。
そんな光景を、いつ見る事ができるのだろうか。
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