第10話 赤と白の蓮華草/月光色のはちみつ
『お茶はまた次の機会にでもね』
畳張りの美影の部屋で俺がその真ん中で身動ぎできずに正座でその瞬間を待つこと、一時間と十分後。お父様の夕飯ですよとの呼び声に呼応して、永らく使われる事のなかったロボットみたいにギクシャクと音を立てながら部屋を出て、階段を下りた。
そして、お父様が先導する談笑に包まれながら、俺とお父様はお父様の手作りの夕飯を、美影は相も変わらずコンビニ弁当の類を食べ終えて、食器を洗うのを手伝おうとする俺にやんわりと断りを入れたお父様がそう告げたので、俺と美影は美影の自室へ向かった。
五畳の畳張りの美影の部屋には、押入れと隅っこに四角の机と。
入り口と押入れを除く部屋の端に、大量のコンビニ弁当やら惣菜が積まれていた。
「渚」
視界の端に大量の食糧を捉えながら、どこに座ろうか迷って入り口付近で立ち尽くしていた俺に、部屋の真ん中に胡坐を掻いた美影は視線だけで自分の前に座るように促してきたので、俺は黙って美影の前に正座になった。
怒っているようなその表情は、自分が今日仕出かした事を思い起こさせて。
身の置き所がなくなってしまった俺は、戦々恐々と美影の判断を待っていた。
しかし、そうやって俺がびくついていると、美影の機嫌はますます悪くなって行くようだった。
「……美影。ごめん」
「何で謝る?」
「勝手に美影のアルバイト先、自宅に押し掛けたから」
「……そうだな」
「ごめん」
「……俺、食欲が他の欲求に比べて断トツで抜きんでるんだってよ」
突然の告白に、息を飲んで目を丸くした俺の瞳に映るのは、
未だに渋面顔の美影で。
それでも淡々と言葉を紡ぎ続けた。
「性欲。睡眠欲。知識欲。食欲。ほとんどの人間ってのは大体均等にこの欲を持っているらしい。けど、そのほとんどに入らない人間もいて。俺もその中に入る」
小さく息を吐いて美影は続けた。
「異性の身体にも心にも、つーか食べる事以外に興味…つーか思考も行動もほぼ起こさない。睡眠も一日三時間くらい取れば上等。こういう体質だから治すのは諦めて折り合いをつけて生きろってのが医者の言葉。俺も同意見。まぁ、別に他人に迷惑をそんな掛けているわけじゃないしな。不快にはさせているかもしれないけど……何でいきなりこんな話をしたか。分かるか?」
本当は言うつもりなどなかったのにと。
言外に言われている気がした俺は、美影の目を真直ぐに捉えたまま口を開いた。
「俺が、知りたかったから?」
「……渚は本当におめでたいやつだな」
「仕方ないだろ。この状況で、おめでたくならないやつなんているもんか」
片想いをしている相手の部屋に招き入れられるこの状況で。
片想いをしている相手と二人きりのこの状況で。
希望があるんじゃないかと浮き立たないやつなんているもんか。
しかも、美影が自分の事を話してくれているんだ。
「…俺の好きだって告白聞かないと調子が狂うって言ってたよな」
「…ああ」
「少しは。ほんの少しでも。嬉しいって思ってくれているのか?」
「…ああ」
心臓が小さく飛び跳ねる。
嬉しくて。ただただ。本当に嬉しくて。
美影を喜ばせているこの状況だけで満足するべきなんだろうけど。
「恋人になりたい」
「……なぁ。渚。俺、渚の笑う顔が好きだ。悲しんでるのとか。見たくない。でも、それだけなんだ。それ以上の事は望まない。望む気がない」
前半は同意。けど後半はそうではない。
俺はそれ以上の事を美影に求めていて。
美影の隣にいるのが前提で。色々話したいとか。色々どっか行きたいとか。
触りたい、とか。
「俺が今回の事を話したのは。今日の渚の顔を見たからだ」
「…俺の顔?」
あのみっともなくて、情けない顔の事だろうか?
「すげー泣きそうなのに、堪えている顔。見るの、すごく嫌だったんだよ」
美影は言い切ると渋面顔をほんの少し和らげた。
その顔を見たら。
すごく、泣きそうになった。
「渚が気にしている勝手に押しかけて云々ってのは、真田から来るだろうって事は言われていたから別にあんま気にしてない。まぁ、店の前に二時間も突っ立っていたのは正直営業妨害だろうって腹が立ったし、何やってんだって呆れもしたけど。あの顔見たら、ただ、俺の口から言えばよかったって思ったから。だから、言った」
「……まだ、時間はあるから、俺は諦めない」
「…ああ。分かっている」
「美影。人が良過ぎだ」
「……そうか?」
意地の悪い笑みを浮かべた美影に、ほんの少し違和感を覚えた俺だったけど。
その笑顔に緊張感や憂鬱感、自分でもわからない感情が拭われた気がして。
「好きだ」
俺は何かを自慢する子どもみたいに笑った。
「好きで。好きで。どーしようもねえ」
「……渚」
呆れているような顔に見れるけど。
そこには、苦痛が伴っている気がして。
(俺だって。美影にんな顔させたいわけじゃない、のに)
「トランプとかオセロとかねえの?お父様も呼んで一緒にやろうぜ」
「……お父様とか。気色悪い呼び方は止めろ」
「えー。何で?愛しい美影のお父上だし?結婚したら俺の義父になるわけだし?」
にやにやと締まりの無い笑みを浮かべてそう告げると。
美影はぎょっと目を見開いた。
「?どした」
「…渚。俺と結婚したいのか?」
「…まぁ。最終的には。三十になったくらいに求婚する予定」
「……十四年も先の話だぞ」
「あー。まぁ。俺的にはそんぐらいが理想だし」
「……まさか、三十まで諦めないとか言わないだろうな」
「んー。そう言ったらどうする?」
「…姿をくらます」
「一生懸命探します」
比較的真面目な顔をしたら、美影はがっくしと肩を落とした。
なんか、案外。なんて思ってしまったら、知らず、口の端が上がった。
「……何で俺なんだよ」
「さぁー」
「……その顔も嫌いだ」
「俺は美影の顔全部好きだけどね」
「……俺、渚のこと嫌いだ」
「俺は好きだけどね」
「……さっさと風呂に入って来い」
「一緒に入らないの?」
「誰が入るか」
どこから取り出したかは知らないけど、美影はタオルを俺の顔面に叩きつけた。
全く痛くなかったけど、俺はいてえよとぼやいてそのタオルを手に持って立ち上がり、すでに案内してもらっていた風呂へと向かった。
「可愛かったな」
いつも大人びて見えた美影の年よりも幼い顔を思い返した俺は。
鼻歌を口ずさみながら廊下を突き進んだ。
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