第7話 蕗に積もる川/あめの鱗にかえる
『…聞かない日があると調子が狂いそうだ』
あの時、美影はどんな想いでこんな事を言ったのだろうか。
好きだ。
好きだ。
と。
毎日懲りもせずに告白し続ける俺に。
ほんの少しでも。
気持ちが傾いてくれたのだろうか。
「期待して……」
チチチと鳥の鳴き声が耳に入る目覚めの朝、ベッドの上で起こしていた上半身を前に倒して、布団を盛り上がらせている両膝の上にぽすんと頭を乗せた。
「好きなんだよ」
言葉にしてしまったから、止めどなく溢れて来るのだとしたら。
言葉なんか知らなければよかったと。
ほんの数秒間。
本気で思ってしまった。
暑い。寒い。温かい。轟雷。晴れ。曇り。ゲリラ豪雨。霧雨。
などの不安定な気候の四月を超えて、気候が安定している五月の初旬。温かいを超えて薄らと汗が出るほどに暑い季節。
連休が終わってからすぐの中間試験を終えた俺たちは今、全ての科目の解答用紙を受け取って、教室で放課後を過ごしていた。
俺と佐之助は中学から全教科の総合点を競い合っており、二十一戦目の今回のも含めるのと、十一勝十敗と俺がリードしている状態だった。
全教科七割以上八割未満。まぁ。平均的な結果だろう。佐之助も似たり寄ったりなんだが、例え、数点差と言う僅差でも勝った事には違いなく、悔しがって床に四つん這いになっている佐之助をほくそ笑んで見下ろして俺は頭を動かして、用済みと言わんばかりに、さっさと解答用紙を鞄に直した美影にこれから大変だなと声を掛けた。
美影は全教科赤点だったのだ。
意外。だとは、あまり思わなかった。
美影がほとんどものを知らないと言う事は、話していて気付いていたから。
鉄道がどうだのアニメがどうだのと言った偏った知識を持っているのでもなく、そう言ったのも含めて流行から一般教養まで全般的に知らないのだ。
テレビは見ていないと言っていたし、本や新聞も読んでいないと言っていたけど、学校に行けば授業や会話で自然と入ってくるだろうに。
もしかしたら学校に行っていなかったのか、と疑うくらいに、ものを知らなかった。
そして、家族もいないような生活をしているのではと疑うくらいに、家族の話題も口にしないし、家庭独特の匂いもしなかった。
学校にも行けないような、それでいて、家族ともまともに話せないような生活を過ごしてきた。つまりは、それくらい貧乏だった……としたら、毎日スーパーやコンビニのご飯を食べている理由が分からなかった。
貧乏ならば手作りご飯だろう。事情があって毎日のほとんどの時間を食事に費やさなければならないのなら、尚更だ。
何より、健康に悪そうだし。かと言って、弁当を分けようかと言っても要らないと突っぱねるし。無理やり口に入れようかと本気で思った事は数知れない。本当ならそうした方が美影の為なんだろうけど、あんなに強く拒まれたら、事情が関係しているのだろうと容易に分かってそれから何も言えないでいる。
なかなか縮まらない距離を詰めようと、連休中に行動に移すつもりだった。
試験勉強を一緒にしないかとか、その息抜きにどっかに遊びに行かないかとか。
でも用事があるの一点張りで、学校以外で過ごしたと言えば、あの花見だけだが、あれだって学校の敷地内。
つまり俺は美影と学校外で過ごした事は一度もないのだ。
友達ならいいと言ったのに。
これじゃあ、学校に行けば会話するくらいのクラスメイト止まり。卒業したら即、縁が切れる関係。強引に会いに行こうにも、美影の家も知らないし、携帯は持っていないって言うし。
……あれ。やばいじゃん。
卒業、即、バイバイとか、有り得ねえんだけど。
高校の変わった思い出として残るだけなんて嫌なんだけど。
それどころか、卒業した途端に忘れ去られそうなんだけど。
「期末には確実に三十点以上取らないといけないしよ。これから毎日俺と勉強しねえ?」
期末でも赤点だったら、夏休みはお盆と土日を除いて、午後まで補習だ。
そんなの困る。会う機会を減らされるのは非常に困る。
赤点取れば美影と一緒に過ごせるのは過ごせるが、そんな勉強漬けの毎日なんて嫌だ。
なんて贅沢な事を言える立場じゃないけど。
赤点取って美影と過ごせる機会を増やした方が賢明なんだろうけど。
(嫌だ。美影と旅行に行きたい)
遊びにも行けていない状態だが、旅行に行きたい。
来年の二月の修学旅行までなんて待てない。
旅行に行く。その悲願達成の為には、クラスメイトから友達にならなければだめだ。
だからこそ、まずは一緒に帰る関係を築き上げなければ。
「校長の話し終わるまで待っているからよ」
「悪い。校長の家に行く事になっているんだ」
「校長の家に?」
校長と一緒に帰っているのは知っていたけど、まさか校長の家にまで行っているなんて。
もしかして、真田との婚姻が着実に進められているとか?
いやいや。それはない。高校の間にどうこうなるわけじゃないって真田も言ってたし。
真田じゃなくて校長?
校長が美影に惚れてるとか?
だから美影を独り占めしている?
ばかばかしいと笑えない。だって有り得そうだ。美影、年上の女に好かれそうだし。
「笹田美影、君ね。まぁ、可愛い子。私とデートしない?」
そうそう。こんな風に迫られそうだ。し。
「…母さん。何してんだ?」
突然現れたのは、黒のサングラスに深い帽子で顔を隠している俺の母親、
金髪、細身の長身、妖艶顔の女優だ。ちなみに、父親、
そんで、俺が芸能人の息子だって言うのは、ほとんどの人間が知っている。友達然り。小中高の先生、クラスメイト然り。芸能人向けじゃないよねと言われることしばしば。
「ん~。渚の初恋の人に会いに来たの」
呆れ顔の俺に、母さんはにこにこと笑いながら軽快に告げながら、帽子とサングラスを取って手に持ったまま、グッと美影の顔に自分の顔を近づけた。
「芸能人に興味ない?」
「ないです」
「じゃあ、興味が出たら電話して?捨てたら呪うわよ」
美影から顔を離しながら机に名刺を置いた母さんの思いもしない勧誘と物騒な発言に、俺は何言ってんだと迫った。
「だって、人気者になりそうだったし?」
きょとんとした顔が次には優艶な笑みを浮かべた。
「渚のお嫁さんになる人。つまり、私の息子でしょ?同じ仕事に就いてほしいって思うじゃない。渚は芸能人向けじゃないし」
「美影をあんな魑魅魍魎の巣窟に行かせるわけないだろ。断固反対だ」
「渚が反対しても私が応援するから大丈夫よ」
「美影。母さんは無視していいから」
美影に向かい合った母さんに負けまいと俺も美影に詰め寄ったから、くの形で美影は俺と母さんに囲まれている状態だ。前と左隣、窓の右隣が塞がれている以上、椅子を後ろに引いて校長室に行くからと席を立って行くと思っていたのに、美影は座ったまま、名刺を生徒手帳の最後の頁に挟んで、胸ポケットにしまった。
捨てたら呪うと言う物騒発言が怖かったのだろうか。すごく大事そうな手つきだった。
母さんは満足そうに笑って、ひどく優しい眼差しを美影に向けて、そっと頭を撫で始めた。眼差しと同じくらい、とても優しく。
どうしてか、母さんが美影の頭を撫でている状況に違和感がなくて、暫く見つめていたけど、我に返って止めさせようとしたのだが。
「美影?」
何をするんですかと拒む事もせずに、美影は黙って撫でられ続けた。口をきゅっと結んで、俯いて、気恥ずかしそうに。
その姿を見て咄嗟に俺は思った。
美影は熟女好きだったんじゃないかと。
つまりは、母親の愛に飢えているんじゃないかと。
え、じゃあ俺が身に付けるべきは母性なのかと。
いやそれよりも、母さんずるい。
つーか、美影可愛いぃぃぃぃぃぃぃ!!
「お、俺も撫でていいか?」
「はいはい」
美影に訊いたはずなのに何故か母さんが答えて、俺に向かい合って頭を撫で始めた。
「止めろって」
「えー。昔はよく撫でさせてくれたのにぃ」
口を尖らせた母さんは渋々と俺の頭から手を離した。
俺はほっと息を吐いた。恥ずかし過ぎる。こそばゆい感触がまだ頭に残っていたから余計に身の置き所がないくらいハズイ。
俯いた俺はちらっと美影を見つめた。
顔がほんのり赤かった。
「好きだ」
勝手に出た。可愛いって。心臓が高鳴って。勝手に出た。
そしたら、今迄無反応だった美影の顔に赤みが増した。
いや、夕日じゃない。まだ四時だし。
ドッドッドって心臓の音が大きくなるし早くなって行く中。
畳み掛けるなら今だと思った。
「一緒に帰りたい」
美影は赤面した顔を俺に向けて、口をぱくぱく開閉させたかと思えば、すっと立ち上がって鞄を持って逃げた。走ったんじゃなくて、逃げた。
「美影!」
俺は何も持たないで美影の後を追った。
美影は速かった。階段を何段も飛ばして下りて、廊下を駆け走った。俺も必死で後を追った。走って、走って、廊下を走るなと先生に叱られながら、走り続けた。校長室に逃げ込む。そう思ったのに、下駄箱を通り過ぎてアスファルトの道路へと身を乗り出し、ギュンって右へ身体を向けて坂を駆け下りて行った。
「美影!」
暴れ馬かってくらい混乱しているみたいに見えた。
「美影!待てって!」
学校から徒歩十分。けどこの速度だったら三分くらいで着く公園の中に駆け込んだ美影の前に走り込んで両腕を上げて動きを止めた俺は、さっき以上に真っ赤になった彼を見つめた。当たり前だ。全力疾走したのだから。息が苦しいし、脚の筋肉がぷるぷる震えている。
「何で、逃げたん、だよ」
「分から、ない」
俺たちはハッハって息を吐きながら言った。喉がすごい渇いている。水が飲みてえ。
「飲みもん、買って、来る。何が、いい?」
「要ら、ない」
入り口に自動販売機で買って来ようとした俺はそう訊いたが、美影は小さく頭を振った。
貧乏だから買う金がないんだろうか。
「金、今持ってないなら、いつか返してくれれば、いい」
「違う。そうじゃ、ない」
「……分かった。どこにも行くなよ」
これ以上言ったって拒むだけだ。そう判断した俺は釘を差して小走りで自動販売機へと向かって、ズボンの後ろポケットから財布を取り出して、水を買って、財布を戻して、小走りで美影の元に戻った。
美影は地面の上に尻を付いて膝を抱えていた。
俺は美影の前に胡坐を掻いて、空を仰いで、一瞬、間接キスができるなと思ったけど、それは両想いになってからだなと思い直して口を付けないで、買った水を開けた口の中に流し込んで、半分くらい飲んだ。
顔に当たる飛沫も心地好くて、生き返った俺はそれから半分残ったペットボトルを、蓋を絞めないで美影に差し出した。
「水なら大丈夫か?」
「……金、後で払う」
別に要らなかったけど分かったと頷いて美影に手渡すと、美影は俺に倣って口を付けないで飲み始めて、残り全部を飲み終えるとペットボトルを持っていた手の甲でぐっと口元を拭って、ペットボトルを地面に下ろした。
二人とも呼吸も落ち着いて、赤みも少し減っていた。
「悪かった。母さんがいきなり撫で始めて。他人の母ちゃんの手を振り払えないよな。けど、嫌だって拒否ってよかったんだぜ。別に怒らないし、悲しまないし」
「いきなりで。どうしていいか、分からなかったから。嫌だってのはなかったんだ。けど、渚が撫でられているの見て。すごく恥ずかしくなって」
かぁぁっと赤みを増した美影を見て、俺は咄嗟に鼻と口元を右手で押さえ込んだ。
(やべえぇええ!!すげー可愛いんですけどおぉおおお!!)
絶叫したい。美影可愛いって絶叫したい。
けど、そんな暴走する思考に反して、冷静な思考も生まれていた。
俺の告白で赤面したんじゃないんだと。
(あーあ。ま。そうだよなぁ)
俺は苦笑を溢して、紅を顔に復活させた美影を優しく見つめた。
「嫌じゃなかったんだ?」
「…ああ。けど、もうごめんだ」
「まぁ、そうだよな……母さんにさ。初恋の人だって話した。この前撮った集合写真を見せて。ごめん」
「いや。うん。あー」
美影は締まりのない笑みを向けた。無邪気と言うべきなんだろうか。呆れでもない。どこか感心しているような表情だ。不機嫌になると思っていたのに。
「話して、何て言われたんだ?」
「あー。頑張れって」
「そうなのか」
クックッと美影は肩を揺らして笑った。
俺は顔から手を離して、多分人生で初めてってくらい真剣な顔で美影を見つめた。
「俺。夏休み、美影と旅行に行きたい」
美影は笑うのを止めて、目を丸くしていた。顔から紅が消えてしまった。
「夏休みも校長のところに行かなくちゃだめか?なら、校長も真田も佐之助もみのりも連れて旅行に行こう」
無理だの一言を聴く前に無茶な事を畳み掛けて告げてから、じっと見つめていると、美影の目が細まって、俺と同じくらい真剣な顔を向けて来た。
「俺は、渚にひどい事をしていると思う」
「…かもな。でも、離れて、いなくなるほうがよっぽど辛い」
「渚は正直で助かる」
美影はそう言って薄く笑うと、視線を一旦ペットボトルに留めていた。
「俺さ。やっぱ、友達にしかなれないと思う」
「うん。でも、諦められない。ごめん」
「……うん」
「俺が、女だったら、可能性、高まった?」
「……分からない」
「そっか」
「……俺、やりたい事がある。それだけに時間を使いたいってくらい。だけど、俺、学生だし。義務教育じゃないけど。俺、知らない事ばっかで。知らないとだめだって校長に言われて、本当は通える学力じゃないのに、高校に入って」
美影はクッて自嘲するみたいに笑った。
「数学とか化学とか英語とか呪文みたいでさっぱり分からないし。世界史も公民も地理も全然頭に入って来ないし。ルビがないから国語の文章も読めないし。頭が爆発するって本気で思ったし、勉強しなくちゃいけないって分かってんだけど、やりたい事に全然必要じゃねえし、分かんねえし。だからって、赤点取ったら、やりたい事する時間が奪われるだけだし」
美影はくしゃくしゃとペットボトルを持っていない左手で髪を掻き回した。
「俺。焦ってんだよ。大声で喚きたいんだよ。やりたい事したいのに。それは多分、俺が唯一できる事なのに。何で奪うんだって。それしか、俺にはないのに。何で、て。すげー、我が儘。なんだろうな、それは。世間から見れば。でも。俺にはそれしかないんだよ」
初めて聴く美影の感情的な声だった。
ひどく辛そうで、ひどく怒っていて、ひどく悲しんでいる。
そんな感情を抑え込んでいる声。
やりたい事は唯一美影にできる事で、美影が持っているのはそれしかなくて。
それを奪っているのが校長で、でも他の可能性を広げようとしているのも校長で。
俺が纏わりついている事で、美影のその貴重な時間を奪っているんだろうか?
だとしたら俺は本当に迷惑な存在でしかない。
(俺……美影の邪魔をしたくない)
本音だ。
でも。
美影の恋人になりたいのも、どうしても捨てられない。
だって、好きなんだ。
美影は我が儘なんだよと呟いた。自分に言い聞かせるように小さかったけど強く。
「悪い。我が儘なんだよ。俺の。俺、色々知らないといけないって。ちゃんと納得してたのに。自業自得なのに、分かんねえ事ばっかで。腹が立って、つい、愚痴溢しちまった」
「…それに、好きだって、感情も、交ざってる?」
困らせると分かっているのに、傷つくって分かっているのに、期待せずにはいられない。
「俺、美影の事が好きだ」
「…うん」
「好きで、好きで、期待したいんだ。美影も俺の事、好きになってくれるって」
「うん」
「だから、応えられないからって、離れて行かないで」
「二年間は、約束する…一年と十一カ月か」
柔らかい、優しい微笑に、やっと絡まった視線に。
ぐっと唇を噛み締めてから、身体の力を抜いて、にへらと、締まりのない笑みを向けた。
「美影。大好きだ。すげー好き。もー。すげー好き」
「…そんだけ好かれたら、男冥利に尽きるよな」
美影は無邪気に笑った。だから俺も、無邪気に笑えた。
「おう。誇りに思え」
「やっぱ。渚は正直者だ」
美影は嬉しそうに笑った。
姿を目の当たりにした瞬間。
勝手に動き出しそうになる身体に圧力を掛けて。
「俺、用事があるから帰るわ!!」
佐之助がまだいるであろう学校へと全力疾走して戻って行った。
「佐之助。俺美影好きすげー好きどうしようもなく好きだ。もーどうしたらいいか分かんねえ抱きしめてえ手繋ぎたい笑ってるのもっと見たい話したい何でもいいから傍にいたい」
口を縫い付けるように閉じて。拳を作って。駆け走って。駆け走って。先生の叱り声を遠くに聞きながら教室に戻ると、俺の席に座っていた佐之助に詰め寄って、言葉を雪崩れさせた。
佐之助はニヤリと笑った。
「青春してんな」
「おう!!」
高揚感が収まらない。
このままじゃ、叫びそうだ。
「俺このまま走って来る」
「おー。全力疾走して枯れ木になって来い」
「おう!!」
鞄を持って俺はどこと決めるでもなく駆け走って行った。
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