高校2年生 5月編

第6話 飛び跳ねる薫風は/ほのかな日差しを兆し、温もりを与えた

 真田がうちに来てから一週間が経った金曜日。

 六限目、最後の授業を終えた俺と美影、佐之助が並んで実験をする化学室から教室に戻ろうと廊下を歩いていると。



「美影先輩!!」



 後ろから猪でも突進しているような荒々しい駆け足の大騒音が耳を直撃したかと思えば、真ん中にいた美影が床に倒れそうなくらい、前のめりの姿勢になった。


 その原因を作った人物は女子の制服に真っ赤なジャージのズボンを身に付けている、真田に次ぐ俺の新しいライバル、と言っても過言ではない権田ごんだのえると言い、一年生の男子だ。

 髪を高い位置で二つ結びにする可愛らしい容姿の、のえるは美影の背中に飛び乗り、四方固めで以て、美影の身体に抱きついていた。



「先輩。今日一緒に帰りましょう?」

「悪いが今日は校長のところに行かなければいけないから無理だ」

「えー。またですか~。先輩。放課後はいっつも、真田先輩か校長のところに行く~」



 のえるはぶーと頬を膨らませた。

 俺は口を引き攣らせながら、のえるの腰を掴んで美影から離そうとした。

 が。ピクリとも動かない。

 蔦みたいに、腕も足も美影に巻き付いている所為だろう。

 無理にはがそうとしたら美影を苦しませると思うと、なかなか強引にはできなかった俺はのえるの腰を掴んだまま、なるべく穏やかに説得を試みた。



「おい。のえる。早く教室に戻れ。まだSHRが残ってるだろ」

「大丈夫です。美影先輩の教室で聞きますから」

「大丈夫じゃねえ」

「のえる。教室に戻れ」

「……はぃ」


 みかげに注意された途端、渋々と美影から降りたのえる。向かい合った美影を見上げた。

 今まさに捨てられそうな子犬のような顔をして。


(可愛い。だろうな。もしかしたら、学校一ってくらいに)



 容姿に伴った仕草も表情も行動も。

 可愛いの一言に尽きる。



「一緒に帰りたいです」

「……真田と一緒でいいなら、来週の月曜はいい」



 美影の提案に、ぱあっと花を咲かせたのえるは、それでいいですと前のめりに告げてから、約束ですよと手を振りながら自分の教室へと戻って行った。



(可愛いんだよな)



 そっと盗み見た美影の微笑に。

 そっと溜息を落として、俺たちも教室へと戻って行った。






 あれは四日前の月曜日の放課後だった。

 校長室に行くと言う美影に俺と佐之助が途中まで付いて行き、もう少しで校長室と下駄箱の分岐点に差しかかると言うところで、のえるが現れたのだ。


 突然の登場に、足を止めた俺たち三人の内、美影に焦点を合わせたのえるは、いきなり『1年B組権田のえる男です』と自己紹介を始めて、息を継ぎ暇もなく、『先輩の食べる姿はかっこいいです』と告白したかと思えば、『恋人にはなれなくていいんです。ただ、後輩以上になりたいんです』と迫って来たのだ。

 頬を染めたのえるは真剣な眼差しで美影の答えを待っていた。



 後輩以上ってどんな関係を望んでいるんだと俺は疑問に思った。

 恋人は望んでいないみたいだから、友達だろうか。

 でも友達とは言ってないしな。後輩だからだろうな。きっと先輩に友達になってくださいとは言いにくいんだろう。

 でもそうだとして、美影はどう応えるんだろう?

 あいまいな提示だもんなあ。

 恋人にとかならはっきり断れるだろうに。



『美影』



 どうするんだと声を掛けようとした俺の口からは何の言葉も出て来なかった。


 出せなかったんだ。


 だって、初めて見たんだ。


 美影の。


 あんな嬉しそうな顔。


 顕わにするんじゃなくて。

 秘かに。くらいだったけど。

 何が嬉しかったか。のすごく気になる疑問は美影が直接答えてくれた。




(『食べている姿がかっこいいって初めて言われたから嬉しい』、か)


 俺にとっては絶望を感じさせる美影の食事は。

 のえるにとっては全く別物に見えたのだ。

 のえるにも事情は話してはいないと思う。

 だけど、俺よりも距離を縮めたのは確かだろうと思う。



(俺はまだ一度も美影を喜ばせていない)



 それどころか。

 友達にならと譲ってくれたのに、恋人じゃないと嫌だと駄々をこねて困らせている。

 普通ならあんな傍迷惑な告白をしたやつとなんか近づきたくもないだろうに。

 友達で満足すべきだったのか。でも無理だ。

 真田に負けたくないと思った。

 のえるにも負けたくない。

 でもどうしたら美影が喜ぶのか分からない。



(落ち込んだってどうしようもねえんだけど)



 コンビニやスーパーのご飯ばっかり食べている美影に、その類の話題を振っていいのか分からないし。

 俺の経歴にも興味を示していないみたいだったから、結局あれから話してないし。

 趣味は何だと訊けば、何もないと言うし。

 俺の話をしようとしても、つまらなかったら。

 なんて疑心暗鬼に陥って話せなくなってしまったし。


 つーか。俺は佐之助に話して、佐之助が美影にそれを振って、美影が答える。

 の図式が成り立っている今の状況。

 佐之助がいないと俺は美影と話せないと言う危機的状況。絶体絶命だ。

 何で佐之助にはぽんぽん会話を投げ出せるのに、美影にとなると口が重くなるんだ。



 なんて。


 好かれたいからだ。



(好きなのに)



 好きな人と一緒にいると安らぐ。

 なんてよく聞くのに。

 なんか緊張しっぱなしだ。

 みんなは辛い過程を経て、安らぎを得ているんだろうか。

 それならいいが、最初から安らぎを得るのが恋だったらどうしよう。

 そうだったら、この感情は恋じゃないんだろうか。



(好きなのに)




 美影の事をほとんど知らないのに。




 SHRが終わって、今日は何の課題も出されなかったけど、授業でできなかった問題の復習をする為に、数学Ⅱの教科書だけ鞄に入れて隣の美影を見た。



「校長室だっけ?」

「ああ」



 何を話しているのか。

 と、気軽に訊いたらいいんだろうか。

 でもそれで不愉快な思いをさせたらと思ったら、到底できない。

 美影にとって何が不愉快な話題で愉快な話題なのか。

 美影の心が覗けたらいいのに。そうしたら、喜ぶ事だけしかしないのに。



(でもないか。恋人になれないっつってんのに、恋人にって強請ってんだから)



 落ち込んだところでどうにもならない。

 分かっているけど、大体自分の存在自体が不愉快にさせる対象なのではないかと思うと。


 思うと?


 そんなの毎回思っている。思っているけど、だからって、諦められない。

 大勢の中で告白する以外は、美影だって二年間好きにしていいって言ったし。

 つーか。多分。それが唯一の支え。

 諦めなくていいって言う、免罪符なんだ。


(優しいん、だよな。すげー。そんで。自分に自信がある。強い想いを持っている。だから、揺らがない)


 異常だと言った。異常だと分かっている。

 なのに、卑屈も怯えも全然見せない。

 淡々と過ごしている。

 すごいんだ。

 すごいんだよ美影は。



「好きだ」



 視線が絡まっている。それだけで、心臓が高鳴る。嬉しくてたまらない。



「……毎日言われていると」

「効力がない?」



 言葉を区切らせた美影に続きの言葉を口にすると、美影は小さく頭を振った。



「…聞かない日があると調子が狂いそうだ」



 血流が爆発したのは言い過ぎかもしんないけど、心臓が止まった。

 絶対止まった。一秒くらい。

 俺はくしゃくしゃと前髪を掻く振りをして、顔を隠した。



「それって、毎日好きって言えって事だよな」

「……恋人にはなれないけどな」

「ひでーやつ」



 声が震えてないだろうか。

 少し不安になった俺はもう一回ひどいやつだと呟いた。

 恋人になれないと言っているくせに。

 好きの一言を強請るなんて。

 すげーひどいやつなのに。



(ぜってー惚れさせてやる)



 校長室に行くと告げた美影に今日は用事があるからと言って、途中までの付き添いを初めて強請らなかった俺は、美影が完全に教室から離れて佐之助がからかいに来るまで前髪を掻き続けていた。











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