三途の川に私

物書きの隠れ家

三途の川に私

 虹色をした明るいトンネルを通った。私はここがどこかなんてわかりはしませんでしたが、とりあえず前に進むのがなんだか正しい気がしていました。ですから発光する長い長いトンネルをただひたすらに進みました。


 そしてようやくと出口が見え、私は足早あしばやになって歩きました。私の体があのトンネルの先に引き付けられていたのです。出口を抜けると、これまた目がまばゆいほどの明るい風景が広がっていました。そして目の前には私のこれからの歩をはばむかのように川が流れていました。


 あ、これはきっと三途の川に違いない。私はようやく気付きました。どうやら私は死んでいるらしいのです。いや、まだこの川を渡っていないということは死にかけているというのが正解なのでしょう。


 ふと歩いてきた道を振り返ると、先まで私を導いてくれたトンネルの姿はありませんでした。なるほど、もう戻る道は残されていないのか。そう思うとなんだか体がひどく痛み始めました。特に胸のあたりがひどく痛むのです。どうしてでしょうか。


 私は胸を押さえながら再び川の方に目を向けました。私の足元にはたくさんの小石が散りばめられていましたが、川の先にはそれとは違ってたくさんの花々が咲いているのが見えました。ああ、あそこが天国という場所なのか。私は無性にそこへ行きたくなりました。


 本能が私に教えてくれました。川を渡ればあなたはもう二度と戻ってこれないと。わかっています。何度か三途の川についてはホラーのような噂話で聞いたことはありましたから。しかし本能はこうも教えてくれました。川を渡ればあなたのその胸の痛みも消えて和らぐと。


 私は悩みました。それほど胸の痛みが少しずつ、でも確かにひどくなっているのです。気づけば私はここに来てから息をしていないのです。呼吸をしようにも呼吸の仕方を忘れたか、それとも私の胸の痛みがそれを許してはくれないのです。


 もういいや、渡ろう。私はそう諦めがちに渡ろうと思い、川に向かって一歩足を進めました。すると後からは私が力を入れることなく、また一歩、また一歩と勝手に足が動いてくれました。


 私はそれに安心して考えるのを止めると、なんだか頭が朦朧もうろうとしてきました。これが死ぬということなんでしょう。なら別に死ぬのは怖いことではないと思いました。


 ぱしゃ。私の足がついに川に入りました。川の温度は感じませんでした。冷たいとかそういうのはありませんでしたが、不思議と心地いのです。私はまた歩を進めようとしました。しかし私は目の先に誰かがいることに気が付き、足が止めました。


 川の先に誰かがこちらを見て立っているのです。誰でしょうか。私は胸に置いた手をのけて、目をこすりました。そして再び川の向こうを見つめました。


 そこには私が立っていました。なにをいうか、私はここに立っているではないか。そう思いましたが確かにあの姿は私なのです。こういうものは身寄りの先祖とかが現れるものではないのでしょうか。どうして私自身なのでしょうか。私は理解に苦しみました。


 「あなたは誰ですか」私は気になって尋ねました。すると川の向こうの私は私を指さして言いました。「私はあなたです」とにっこり笑うのです。それでも私は理解することが出来ませんでした。川の向こうの私はそれに気づいたようで言葉をさらに付け加えました。


 「私はこれから川を渡ってしまった未来のあなたです」川の向こうの私はこれまたにっこりと笑いました。そして少し力強い口調で「今あなたがいるべき場所はここではありません。戻りなさい」と私をしかりつけました。なんということでしょう。自分は欲に負け川を渡っておいて同じ私を通させようとしないのです。私は呆れてしまいました。


 「あなたは胸は痛むか」私はもう一人の私に聞きました。すると川の向こうの私は首を振り、「痛みはここでは感じません」と返すのです。私は続けました。「未来の私ならわかるでしょう。今私はものすごく胸が痛くて苦しくてたまらないんです。そこにいるあなたこそが、この痛みを和らげるための方法を示してくれているじゃないですか。それでも私を否定するのですか」私は正論をぶつけたつもりになり、もう一人の私がどう襤褸ぼろを出すのかと待ち構えていました。


 しかしもう一人の私は今度は私を否定しようとしませんでした。ただ優しく私にこういうのです。「すみません。私はあなたをここに来ないようにしたいわけではないんです。しかし一度は言わなければいけなかったんです。そう、通過儀礼と言いますか、そういう決まりなんです。もう私はあなたを否定しませんよ」川の向こうの私は私に笑いかけ、「おいで」と手を伸ばしました。


 分かればいいんですよ。なにせ私自身なんですから。私は納得がいったようにまた歩を進めようとしました。しかし川の向こうで手を差し伸べる私を見て再び足を止めました。私の中の違和感が危険信号を鳴らしていたのです。


 聞いたことがあります。三途の川には歩くものを引き返すように促す死者と、それとは反対に進むように促す死者がいることを。引き返すようにいう死者はその者と何らかのつながりがあり、なんとかして生きるために手を差し伸べるのです。しかし後者では自らが死にゆく定めの仲間を一人でも増やそうと手を差し伸ばすのです。


 私は私を見つめました。あいつはどっちの立場だと考えました。まずあいつは私の無事を祈るような知り合いなんかではありません。なにせ私自身ですし。もしかしたら私の死を望む悪魔のような亡霊が私の姿に化けているだけなのかもしれません。


 私が足を進めずに立ち止まっていると川の向こうの私は首をかしげました。「どうしたんだい。岩にでも足を引っかけたのかい」と無邪気に私に問いかけます。私は唾をのみ首を振りました。「いや、そんなことは無い。ただやっぱり川を渡るかどうかもう少し考えてみたくなってね」私がそういうと川の向こうの私は微笑みました。「そうですか、ですがあまり無理をなさらないでくださいね。胸の痛みは本物でしょう」そういうと再び私に向かって手を差し伸べました。


 確定です。彼は偽善ぶった悪魔なのです。一度私を否定することで私の対抗心を仰ぎ、川を渡らすことを決心させるための罠を張っていたのです。私は胸を強くにぎり閉めました。胸の痛みは更に増しています。しかしここで悪魔の手を取るわけにはいきません。


 私は悪魔の私に言いました。「やっぱり川を渡るのは止めとくよ。ひどく後悔しそうだ」それを聞いて悪魔は首を横に振ります。「そんなことは無いよ、私に後悔は微塵みじんたりともありません。安心してください。なにせ私はあなたなのですから」悪魔のささやき声は私に心地よさを感じさせました。私はなんとか頭を振って邪念じゃねんを払います。


 ここからの私は否定されるのではなく否定する側となりました。先ほどまでの呆れそのもの全てが作戦だとするとこの悪魔はすごい戦略家に違いありません。私は手を振って余裕ぶりました。「いや、でも後から後悔とかしても遅いじゃないですか。私にはまだやり残したことが多くあるんです。それに私がいなくなると悲しむ人もそれほど多くは無くてもいるにはいるのです。少なくとも今の私には後悔があるのです」


 悪魔は優しく微笑みました。「大丈夫、そんなこと考える必要はありません。ここに来てしまえば全てが楽になるのです。今あなたにある後悔というのは全てあなたをしばるための不幸のかたまりなのです。あれをしなければこれをしなければと、あなたはどれほど人生を振り回されたでしょうか。ここに来てしまえば全てがわかるのです。それら全てあまりにもつまらないものだったのだと」


 やはりこの私は悪魔そのものです。私が川を渡るのを否定しようとした途端とたんに引き留めるのに必死なのですから。私はそれにだまされてはいけません。「私はそれでも戻らないといけません。そのあなたが言ったつまらないものこそが私の全てで人生なのです。そこに渡ってしまった私にはこの気持ちはもう二度と理解は出来ないとは思いますが」私がそういうと悪魔はとうとう差し伸べた手をおろしました。


 さすがに私が警戒けいかいしていることに感づいたのでしょう。悪魔は言いました。「大丈夫です。言ったでしょう、あなたは私なのですから。どうして私がこういうことをいうのか分かりませんか。考えてみてください」私はすぐに答えた。「分からないよ。なら教えてくれませんか」少し強気になって言葉をつなげました。そうでないと胸の痛みが私の声を消してしまいそうだったのです。


 「そうですか」悪魔は残念そうに肩を下しました。「どうして未来の私がここに現れたか分からないのですか。あなたも思ったはずです。普通なら亡くなった知り合い、例えばそう、祖母とかが現れるものではないかと。また、自分を呼ぶ家族の声が聞こえてもいいのではないかと。あなたはそう思っていたはずです」


 図星です。しかしだからなんだというのでしょうか。少しばかり先祖に私を知るのもが少ない、もしくは家族は今の私のところに駆けつけている真っ最中であるのかもしれません。あなたは愛されてはいない、などと悪魔が言うのかもしれません。しかし私はそれを否定するだけの言い分をきちんと考えてまとめました。


 しかし悪魔はそんなことを言いませんでした。ただ、「かわいそうだった」と一言置きました。「あなたは私が声をかけさえしなければ勝手に川を渡っていたでしょう。それを誰も止めようとはせずにね。私がそうなんです。私であるあなたならわかるでしょう。胸の痛みで何も考えられずにいた私を止める人がいたでしょうか」


 私はその問にすぐ答えることは出来ませんでした。実際その通りでしたから、私はすぐに否定することは出来ずにいたのです。確かにあの時川の向こうに私がいなければ私はそのまま川を渡り切っていたのでしょう。それを誰が否定できるでしょうか。


 川の向こうの私は微笑むとまた私に向かって手を伸ばしました。私もそれに向かって手を伸ばしました。一歩、勝手に足が進みました。胸の痛みが何だか引いていくように感じます。もしかしたらこの私は一度もチャンスがないままに進んだことに、たった一つの心残りがあったのかもしれません。


 私の足が進むにつれて水かさは増し、腰を超えたあたりまでになりました。ですが足を取られることはありませんでした。水の流れも私を向こう岸に連れて行ってくれる感じがします。


 川を半分ほど渡ったでしょうか。私と川の向こうの私はお互いに手を差し伸べ、このまま川を渡りきるものだと信じ切っていました。しかしその時です。私の後ろから別の声が響き渡ってきました。


 私は後ろを振り返りました。するとそこにはあの消えたはずのトンネルが再びあったのです。川の向こうの私は目を丸くしてそれを見ていました。あ、また声が響いてきました。私は耳をまします。


 ああそうか。これは家族と……それと友達の声です。あまりに悲惨な泣き声はまさに叫び声とも劣らない迫力があります。私は気付きました。なるほど、私はとても愛されているではないかと。ふと私は川の向こうの私を見ました。その私は口を開け、「嘘だ」とぼそり呟いていました。


 「嘘じゃない」私ははっきりと口にしました。「私には私の帰りを待っている人がいる。私は行かなくてはいけない」私は悪魔に言い、そして差し伸べていた手を再び胸にあてました。私を呼ぶ声が耳に入るたびに胸の痛みが戻るのです。これはきっと生きる上での痛みなのでしょうか。


 「本当にいいのかい」手をおろした悪魔は私に問いかけました。私はすぐに首を縦に振ります。「思い出したんだ。そういえば私泳げなかった。これ以上川を渡るのは無理だった」そういうと悪魔は声をあげて笑いました。「なるほど、確かにそうだった。私は金槌かなづちだったね。そうだそうだ」


 私はその悪魔の笑いには悲しみが含まれていることに気づきました。「どうして悲しそうなんだい」私がいうと悪魔は笑ったまま答えました。「悲しいなんてとんでもない、悔しいんです。私はなんの迷いもなくそのまま川を渡ってしまった。だがその足を少しでも止められていたのなら、こんな風に私を呼ぶ声が聞こえたのかと思うと悔しくてたまらないのです」


 ああ、と私は気付いた。こいつは悪魔なんかじゃない。本当に未来の、渡ってしまった私なんだと。そしてその私が今の私を呼び掛けていなければ、私も川を渡っていただろう。私を呼ぶ家族や友達の声も知らないままに。


 私は川の向こうの私に手を振った。「ありがとう」そういうと向こうの私は「早く行ってあげなさい。家族のためにも、私のためにも」とそれ以上言葉を述べることはありませんでした。私は私を背にして川を歩きました。一歩とまた一歩。その歩が進むたびに胸の痛みが増していきます、川のかさが減っていきます。


 それでも私は声のする方に歩き続けました。トンネルに、あの光輝くトンネルに。胸を押さえながら足を運び続けました。それから私は一度も振り返ることはしませんでした。ひたすらにひたすらに『生きる』を抱いて進み続けたのです。


 そこから私はトンネルをどう歩いたかは覚えてはおりません。しかし、目が覚めた私が病室で、そのかたわらに白衣をまとった医師とその横で喜ぶ顔の知る者たちが見えました。聞いた話によると私は車にかれて意識がなく重態じゅうたいおちいっていたらしいのです。


 私は私の無事を祈っていてくれた皆に「ただいま」と伝えました。するとすぐに沢山たくさんの「おかえり」が返ってきました。それを聞いて私はようやく生きたことを知ったのでした。

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