第158話 クリスティーナ・シトリン
クリスティーナ・シトリンはグレンガルム王国宰相ブランドン・シトリン公爵の三女である。
クリスティーナは公爵令嬢として幼い頃から淑女としての教養、貴族としての力を得るための教育を受けてきた。
絵画、音楽、料理など様々なことを学び、マナーを覚え、魔法の訓練をする。
そんな生活はクリスティーナにとって当然の日常であり、真面目にこなしてきた。
魔物との戦闘にも参加し、ランクやレベルを上げて魔導士をマスターしている。
第一学園三級生の中でも優秀で一目おかれる存在だ。
しかし、シトリン家の中では大したことがなかった。
シトリン家は大きく分けて二つに分かれている。勇者の直系であるシトリン家と宰相をしているシトリン家の二つだ。
勇者の直系は特別な存在だが、ほとんどの者が軍に所属し、文官や政治の働きはしない。
初代勇者の直系とシトリン家の直系が同じ公爵家として存在している特殊な形である。
そして、ブランドンはシトリン家の直系であり、宰相まで上りつめた。
そんなシトリン家は優秀な者が多い。
兄姉たちは学園の首席や次席となり、今でも常に研鑽を積んでいる。
次期当主の長男はもちろん、他の兄姉も文官として、研究者として活躍している。
優秀な兄姉と比べるとクリスティーナは大したことがなかった。
真面目に頑張っており成績優秀ではあるが、首席にはどうあがいてもなれそうにない。
性格上あまり社交的ではなく、人脈の形成も苦手としている。
公爵の娘ということで周囲には上級貴族がいることが多いが、友人と呼べる者はいなかった。
公爵家として役に立たないとなれば、貴族の娘として、有用な者と政略結婚することが望まれる。
そして、シトリン家に足りないものは魔法関連である。魔法科でミストリープ侯爵家やガーランド公爵家と婚約することが求められた。
特にミストリープ侯爵家の男性は侯爵家に戻らず、王国魔法騎士団に入ることがある。
クリスティーナはそんな政略結婚に向けて、真面目に行動していた。そのことも、友人ができない理由であるのだが。
そんな日々を過ごしているとき、急に父親のブランドンから連絡が来て、セージ・ナイジェールの婚約を取り付けるように指令が下った。
クリスティーナは戸惑いもあったが、当主からの命令に背くようなことはしない。
すぐに準備し、ナイジェール侯爵との面会に立った。
そして、王宮を案内することになる。
クリスティーナはセージと並び、その後ろを少し間を空けてベンとシトリン家の使用人が歩く。
しばらくして、クリスティーナは思った。
(お父様……ナイジェール様との婚約は難しそうです)
紹介された時は興味を持たれていると感じた。
政略結婚に向けて真面目なクリスティーナは見た目を常に磨いており、身体は現段階での理想の体型を維持するよう努力している。
今日は侍女たちが腕によりをかけて自分を可愛く仕立て上げた。
婚約者がいたことは驚きだったが、それでも可能性はあるだろうと思ったのだ。
しかし、セージからすれば子供のおめかしに興味はなく、婚約者がいると答えたこともあって考えもおよばない。
セージが興味を持ったのはクリスティーナの魔法の知識である。
「特級魔法についてなんですが、最初はupio adで始まりますよね。この意味についてどう思いますか?」
「例えば水魔法ウォーターによって現れる水はどこから来ていると考えていますか? 別の空間もしくは世界の一部から移動するのか、魔素のようなものが変換するのか、まぁこれらは明確に判断できませんが……」
「魔物と人で魔法攻撃を受けたときの補正値の違いについてですが……」
セージは王宮の案内そっちのけで魔法についての質問をした。
しかし、それはクリスティーナに答えられないことばかりだ。
答えられないどころか、質問の説明をしてもらわないと、何を聞いているのかさえわからないことも多い。
クリスティーナは話を魔法理論学や呪文学から歴史学、数学に移した。
魔法や薬に長けていると聞いていたが、元孤児である。
これなら、教えられることがあると考えたからだ。
そして、魔法のことだけでなく、他のことでも圧倒的に知識が及ばないことを知ることになる。
「それは方程式を作れば簡単に解けるんです。しばらくすれば代入を習うと思いますよ」
「それはグレンガルム王国からしたらそうなんですが、アーシャンデール共和国側からみると異なりますね。実は……」
態度は丁寧で優しく、馬鹿にされるようなこともない。
でも、答えられない度に興味を失くしていくのが読み取れてしまっていた。
ただ、焦る気持ちがあっても、知識が増えるわけではない。
(きっと……ナイジェール様にお教えできることはなにもない。ごめんなさい、お父様)
クリスティーナは自分の不甲斐なさに落ち込む。
最初、緊張で少し震えていた手は、今や不安と焦りで冷たくなっていた。
口数が少なくなってしまったクリスティーナに、今度はセージが話しかける。
「ご趣味はなんですか?」
セージとしては気をつかって言ったことだが、クリスティーナはこの質問が来たときに終わったと感じた。
自分には何を聞いても無駄だと諦められて聞くことがなくなり、困ってしている質問だろうと思ったからだ。
(私は、どこまでいっても、役立たずなの……)
「趣味がなければ好きなものでも……」
セージはそこでクリスティーナを見てぎょっとした。
大きな瞳に涙を溜めていたからである。
クリスティーナは瞬きすれば落ちそうな涙を堪えていた。
異変を感じたベンが「セージ」と呼び掛けて視線が外れたとき、クリスティーナはこっそりと袖で涙を拭った。
本当は使用人からハンカチを受け取って涙を拭くべきだが、そんな余裕はない。
そして、静かに深呼吸をしてから、質問に答える。
「趣味は……料理でしょうか」
淑女教育の中で、クリスティーナは料理に興味を持った。
いつも食べていたものがどう作られているのかを知り、工程で全く別物に変化する不思議さに魅力を感じた。
料理の教育が終わった後も、合間の時間に調理場に行って料理長に教わったほどだ。
特にお菓子作りに関しては、料理長に褒められるほどの腕前になっていた。
ただ、貴族として料理と答えるのは間違いである。料理は使用人がすることだからだ。
淑女教育として料理も行われるが、それは料理を知るためであり、ただの教養である。
しかし、クリスティーナは素直に答えてしまうほど、学力の差や興味の持たれなさに心が折れていた。
「料理? 調理師のランクはどれくらいですか?」
「マスターしております」
クリスティーナは八歳で料理が始まってから五年間にわたり料理をしてきた。
数か月前にとうとうマスターしたのである。
「それはすごいですね。料理人でもマスターするとなると大変と聞きましたが」
「私は公爵家の料理長から学びましたので」
そこで、セージの目がキラリと光る。
その事に少し俯き加減で歩いていたクリスティーナは気がつかなかった。
「では、高品質の料理などを作ることはできますか?」
「はい。特にお菓子は得意ですので、いくつか高品質で作れますわ」
「高品質のお菓子? それはいいですね! パティシエを……えっと、お菓子作り専門の調理師を目指してるんですか?」
セージが急に食い付き始めていることに気づいたクリスティーナは戸惑いながら答える。
「お菓子作り専門、というと菓子職人ですか? 目指しているわけではありませんわ。公爵家の娘として生きていますから」
「公爵家の娘は菓子職人になってはいけないのですか?」
不思議そうに聞くセージに戸惑いは深まるばかりだ。
クリスティーナにとって当たり前のことだが、公爵令嬢が菓子職人になるなどあり得ないことである。
「そういうわけではありませんが貴族ですし……」
「貴族で菓子職人になれたら強そうですね」
「強い、ですか?」
「公爵家のお菓子なんて売れそうじゃないですか」
そのセージの言葉に納得する。
公爵家にいて商売を考えることはなかったので新しい視点だった。
「でも公爵家の娘が菓子職人なんてお父様が許すはずありません」
「ということは、許してもらえるなら菓子職人になりたいということですか?」
それを聞いて、学園通りで見たお菓子のお店を思い出した。
クリスティーナはそこでお菓子作りをする場面を思い浮かべる。
水、火、風、氷魔法を駆使して、様々なお菓子を作り出し、店内に並べる姿を。
ただ、それと同時に公爵令嬢としてのことも頭によぎり、クリスティーナはセージの質問には答えられなかった。
答えてはいけない気がした。
「もしなりたい、やってみたいなら挑戦してみませんか? あなたはあなたの人生の主人公です。誰かに否定されたとしても、自分の幸せを考えない者の言うことを聞く必要はありません。自分で進む道を作るんです」
「自分で進む道を作る……」
(そんなこと考えたこともなかった)
クリスティーナは公爵家の進む道、当主ブランドンの意向に沿って生活してきた。
自分で進む道を決めたことはない。
まだどうすればいいのかわからないが、心の隅に挑戦の言葉がささる。
「というような言葉を耳にしたことがありますが、難しい話ですよね。まだ学園生ですし、覚悟が必要ですし。でも人生楽しまないと損ですから――」
そこで、廊下に立っていた騎士がセージたちを止めた。
「ここから先は王族専用となります。お引き取りください」
(いつの間にこんなところまで!)
「申し訳ありません、すぐに……」
「いえ、ちょうどよかったですよ。第五王女殿下に呼び出されていましたので」
そう言って手紙を騎士に渡す。
(えっ……えっ? 第五王女に? どうして?)
「それではクリスティーナ様。ご案内いただきありがとうございました」
「いえ、とんでもございません」
ここに来たのはたまたまで、案内も何もできていなかったと今更ながら反省した。
そして、セージが一人の騎士に連れられていく時、ハッと思い出す。
「ナイジェール侯爵閣下、次に会う約束を――」
そう言って踏み出そうとしたところで、騎士に遮られ、言葉を止める。
それを見てセージが振り返った。
「そうでしたね。えっと、また手紙を書きます」
クリスティーナは一瞬忘れられるのではないかと思ったが、それを伝える余裕はない。
「……はい。お待ちしております」
整理しきれない様々な気持ちを抱えつつ、淑女の礼をして見送るのであった。
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