ママ
海月
第1話
氷がカラカラとグラスの中を泳ぐのをストローでかき乱す。
こんなことが楽しいだなんて。よほど暇なのかもしれない。それとも、なにか面白いものを求めて、自らの手でなにかを操りたいのかもしれない。
「ごめんなさい。三限が長引いてしまって」
いやねえ、あの先生ったらいつも時間にルーズなんですもの。
美子さんがゆったりと一人用ソファに腰掛ける。もう慣れたものだ。
いつもの喫茶店は私たちによく似合う。よく言えばクラッシック。要するに古風なだけ。
「あら、桜子さんったら今日もスラリとしてステキじゃない」
挨拶もそこそこにおしゃれな美子が指摘したのは、大学に入ってから覚えたパンツスタイル。
ジーンズがこんなにも楽だなんて知らなかった。もっと早く気づいていればどんなによかっただろうか。
その反動か迷ったらこれと決めている。
ママは「悪い友だち」に毒されたと騒いでいたけれど、学友たちは単なる「学友たち」に過ぎない。
卒業したら、きっと会うこともなくなるとわかっているから、割り切っているところがあった。
きっと、いや確実にクラスメイトがここに来ることはない。
彼らには不釣り合いな場所すぎる。きらきらとした青春とは似ても似つかない。
それに比べて、ちらりと彼女の顔を見る。
やっぱり美子さんは違う。どこか似た匂いがしている。
二人きりのお客さまであることすら自然で、さも当たり前のように私たちだけの空間を享受するような。
大学内で唯一と言ってもいいくらい私とそっくりな雰囲気を醸し出している。
そのせいか必修科目のクラス分けで同じ教室になっただけなのに、気がついたら一緒に行動するようになっていた。
私たちの恒例となっている話題はもっぱらボーイフレンドのことである。
美子さんはきまって彼に対する心配事をこぼすのだが、それに共感して毎回のように盛り上がってしまう。
「それでね、ママ、ママってうるさいのよ。この間だってプリンセスホテルからお母さまと出てくるのを偶然お見かけて、ほら、あの会合にお呼ばれした日よ。なんでいたのよって後から問い詰めたら、なんて言ったと思う?」
さらりと自然に手を上げ、マスターを呼ぶ。そして、さも当然のようにストレートティーを注文してから美子さんは声を荒らげた。なんて器用なんだろう。
「デザートビュッフェに行ってきた、ですって!」
口をつけられたコーヒーの薫りがフッと漂う。それから一息ついて、
「私が先月から行きましょうって誘っていたのに、よりによって「ママ」だなんて
信じられない!それでちょっとどうなの?って聞いてみたら白状したわ。だって、ママが行きたがっていたからってね!
その前日も会えないって話だったのに、その埋め合わせもせずに、よくもまあ感心するわ」
いっぺんにぶちまけるあたり相当怒りが募っているらしい。
丁度タイミングを図ったかのようにカップとソーサーが運ばれてきた。相変わらず気の利くのマスターだ。
「あれってお金ないからって断られていたんでしょう?」
ストローをクルクルしながら尋ねる。
「そうよ。私が出してもいいのだけれど、パパが金蔓になりかねないから出しても七割にしなさいって。だから、私ずっと待っていたのよ。それが結局「ママ」となんて」
よっぽど感情的になっているのか、語気が強くなる。
「挙げ句の果にこれよ。ママのお金はママがどう使おうが自由だろう。それに付き合うだけで、お小遣いがもらえるんだってね!まったく嫌になっちゃう」
一番の愚痴を吐き出したところで、また紅茶を啜っている。そしてカップをソーサーに置く仕草はあくまでも上品さを保っていた。
「ところであなたのところはどうなのよ?」
飛び火したかのようだが、私も鬱憤が溜まっている。
「うちもママ優先よ。休みの日だってママとお出かけだからって会えることの方がすくないわよ」
恋人といったら、ガールフレンドをなによりも大切にするんじゃないの。
思っていたものと違うことに腹が立つ。
「結局みんな「ママ」が大事なのね。いい年してなにが「ママ」よ」
美子さんが吐き捨てる。
「他の人が男の子たちが「ママ」って言ってるのなんて聞いたこともないのにね」
ぷくりと頬を膨らませる姿が、上品なブラウスに映える。
「そうね、私のところもママとお母さんが時々混ざっていることはあるわ。大人ぶってお母さんって人前では言っているけど。普段はきっとママって呼んでるはずよ」
こそりと内緒話をするくらい小さな溜息が漏れた。
「あなたもママってお母さまのことを呼んでいるじゃないの」
苦笑いさえ溢れてしまう。
「仕方がないでしょう。うちはずっとパパ、ママで育ってきたんですもの。周りもみんなそうだったから、それが普通と思っていたのよ。まあ、世間の常識とは違ったみたいだけど」
あなただってそうじゃないの。
美子さんの抗議は完全にブーメランだったみたいね。
「確かにね。私も昔からパパ、ママね。父は厳格な人だったけれど自然にね。ママはお母さんって雰囲気でもないし。」
それに周りはパパ、ママが多かったから。
言い訳めいた私たちの主張はさらに続く。
「そうでしょう。もうママが浸透しすぎて今更変えられないわ。ただ、これはきっと私たちあるあるなのよ。だって、このクラスの誰も、さっきも話したけれど、特に男の子は自分の両親のことをパパとかママって言わないじゃない。私だって親しくない人にお話するときは父と母って説明するわ」
拗ねたような口調に頷いてしまう。
「言われてみればそうね。年頃になるにつれて、ママって遠くなるものよ。距離感というか。一緒に過ごす時間が短くなるとか」
美子さんの論説は的を射ているのかもしれない。思わず同調してしまった。それに調子づいて美子さんはさらに言葉を紡ぎ出す。
「そうなのよねえ。でも、私たちのボーイフレンドときたら。初めてでしかも憧れだった少女漫画の世界のはずなのに。まったくどうしてこんな風になったのかしら」
シフォンのスカートが冷房の風に流されていて、目を引いた。
「なんででしょうね。最近は「マザコン」も流行っているそうだし。そこまでいかなくとも、母親と距離の近い子供が増加しているとか、いないとか」
身につけたばかりの知識を晒してみせたが、実際のところはわからない。しかし、美子さんはうんうんと首を縦にふっている。
「でも、それこそ歌子先生の教え通りなのかもしれないわ。あ、高校生時代お世話になった音楽の先生ね。ちょうど私たちぐらいの息子さんがいるんですって」
パチンと両手を合わせて勢いづくのがわかった。
「それで、そうそう!歌子先生がポロッとこぼしていたのを聞いたことがあるの。母親と息子の関係は特別だって。まるでデートをするように買い物をしたり、カップルみたいに振る舞ったりするんですって。あんなの都市伝説かなにかだと思っていたのだけれど。あながち間違いではなさそうね」
頬杖をつく姿でさえ気品を醸し出している。
「地味で冴えない男なのに。どうして揃いも揃ってママ中毒なのかしらね」
ふぅと軽く息を吐いてみせる。前髪が気持ち持ち上がった。
「でも、記念日にはプレゼントをくれるのよ。私の欲しがっていた、ほらスイスの時計とか」
「あらステキじゃないの。なんだかんだそういうところもあるのね」
二人してパンッと手を合わせると空気が入れ替わったようだ。
「なんでもアルバイトをしているらしいの。だから、記念日の前は連絡がつかないくらい忙しいみたい」
「あら、あなたのためにずいぶん尽くしてくれるじゃないの。どこでお仕事しているのかしら?」
段々とテンポよく会話が弾んでいく。
「それが教えてくれないの。なんでも私に言ってもわからないからって。確かにチェーン店とかなんとかって説明されてもさっぱりだもの」
美子さんのボーイフレンドの指摘は的確だ。
「そうよね。馴染みがないものはやっぱりすぐには理解しがたいものね」
「そうなの。いったい何の話をしているのかさっぱりなときもあるもの」
困り顔の彼女に少しだけ大人ぶって足を組んで、
「これでよくお付き合いできているわよねえ」
とあしらってみせた。すると頬をぷくぅと膨らませた抗議が返ってくる。
「だって、世の中にはステキな男性が溢れているはずって思って。たまたま近くにいたのが彼だったんだもの」
再び頬杖をついて、ぷくりと顔を含ませた。お行儀は悪いはずなのに、なぜだか品があるから不思議。
「そういう桜子さんはどうなのよ。どうして彼をボーイフレンドにしたわけ?」
ちらりと観葉植物に目をやって、
「私だって似たようなものよ。女子校を離れてちょっと冒険したくなっただけ。でも、思っていたより退屈ね」
と溢した。それは間違いではない。ただ全てでもなかった。
そう、退屈。もっと胸がときめいてハラハラするような、遊園地のアトラクションのようなものを人間関係に求めていたのに。その結果がこれだなんて。本当にツイてない。
つまらないことに時間を費やすのは無駄だけど。ストローからコーヒーがするすると昇る。口内に溢れる苦味に少しだけ顔をしかめてしまう。
それに関連づけるかのように、ボーイフレンドの顔が頭に浮かんだ。
真面目そうな彼なら、手のひらで簡単に転がせそう。派手じゃないからこそ、今後の人生に対して影響もないだろうと、打算的な考えが胸の表面にちらつく。
私の思い通りに動かせそうなところが気に入っている。その割にはママの存在が大きくて邪魔だけど。
「でも美子さん、その割にはボーイフレンドの好みに忠実よね」
彼女は顔を心なしか赤らめた。店内の空調は完璧に保たれている。
「だって、せっかくの恋愛ですもの。どうせならより好かれていたいじゃない」
指先をモジモジとさせる様子は正に恋する乙女、といった具合だ。
「彼のお母さまね、フェミニンなお洋服を好まれるらしいの」
確か、美子さんは高校時代は茶道部に所属していたはず。入学当初はキッチリとした堅苦しい、よく言えば礼儀正しい印象を拭えなかった。それに比べて、と目の前の人をさりげなく観察する。
ふんわりとした茶色の巻き毛とシフォンケーキのような柔らかな布の組み合わせが、和やかな顔立ちによく馴染んでいる。
「じゃあ、きっと私のママとそのお母さま気が合うんじゃないかしら」
不用意な発言だったかもしれないわね。
ただ、もしも。もしも、将来その彼が美子さんと結婚したなら、うちとの繋がりも見据えておかなくてはならないと、パパの娘としての算段が働いてしまっただけだ。
「まあ!そうなの……!」
美子さんは私の思惑をするりとかわして軽く微笑む。もしかしたら、何も察していないのかもしれない。柔らかな表情はむしろ考えが読めなくて、ときどき困惑してしまう。
「以前に彼のお母さまをお見かけしたときにこういう髪型をされていたから合わせてみたんだけど、もしかしてあなたのお母さまも?」
「ええ、言われてみればそうね」
これで数日前、急にサロンでパーマをあてたらしい理由が明らかになった。ママもこのスタイルを愛用している。
「あなたは彼に合わせようとは思わないの?」
いつもかっこよくきめているけど、それはボーイフレンドの趣味なのかしら?
美子さんは上目遣いな瞳に好奇心を浮かべてみせた。
「全然。でも、私の格好は彼のお母さまとほとんど同じだって言っていたから、別にいいんじゃないかって思っているの」
重ねた手の甲に顎を乗せて、目元だけで笑う。
大学生活で学んだこざっぱりとしたファッションはとてもしっくりきた。拘束具みたいなリボンもレースもない、シンプルな格好はどこまでも自由だ。
「あらまあ!あなたって私のママと仲良くなれそうね」
美子さんのにこやかさに、私の服装は不釣り合いな気がした。きっと彼女のお母さまは美子さんと似ていないんでしょうね。
パンツスタイルとTシャツとか軽いブラウスとか。あとはスニーカーを引っかけるだけ。
美子さんの顔と合わせるとちぐはぐな感じがする。グラスに雫がツゥーと滑った。
「髪型だってそうよ。そのキリッとしたショートカット」
この春、思いきってイメージチェンジしたばかりの、整えれた毛先が頬の当たりでサラサラと揺れた。
「これね、楽なのよ」
「ママもそう言ってるわ。お仕事するときにちょうどいいんですって」
「バリバリのキャリアウーマンですもんね」
うちのママとは大違いね。
お茶にお稽古にお買い物にと出歩き回っているママはいつまでも若々しい。それで交友関係を広めて、パパのお仕事をサポートをしているというのはわかっているけれど。家にいない時間の方が長いのが、母親らしくないなとは思う。
「そうなの。ずぅっと、お家にいないんだから」
拗ねたような口ぶりに、どこか似たようなものを感じた。あまり認めたくはないけれど、私たちはまだまだ子どもなのかもしれない。
「特に最近はねえ」
「そうなのよ!私たちが大学生になったからきっと安心しているんだわ」
まだママといたいお年頃なのに、と美子さんが顔をしかめた。
「どちらにしても、私たちのママはいわゆるママじゃないのよね」
「違いないわ」
クスクスと二人して声をあげる。店内にはマスター以外は他にいないのに、できるだけ声を潜めてしまう。癖なのかもしれない。
「それに、ママと私って似てないのよね」
「うちもよ」
「ママってば、こーんなに背が高いんだから」
身振り手振りで美子さんが表現しようとしている。小柄な彼女がやってもそのすごさは伝わりづらかった。
「身長ってけっこう気になるわよね」
「そうなのよ」
全く嫌になっちゃう、と言わんばかり。
「桜子さんはいいわよね、スラリとしていて」
「ありがとう。きっと父譲りね。母は華奢なの。ちょうど、そう、あなたくらいね」
ぱちくりと美子さんは目を瞬かせた。
「ふふ、じゃあ、私とあなたのお母さま、それから彼のお母さまはみんな「ちんまり隊」ね」
楽しそうにコロコロ笑っている姿が本当にちんまりとしていて、なんだかおかしかった。
「そういえば、桜子さんのボーイフレンドはなにかお仕事はされているの?」
女の子の会話は内容が飛びやすい。今みたいに前後するのもいつものことだ。その変化球が好きだった。
「ええ、彼もアルバイトをしているそうよ。接客業とは言っていたのだけれど」
具体的なことは知らないのよねえ。
そう、知らないし、知ろうとも思えなかった。私は彼にそれほど興味がないのかもしれない。
「いいじゃない。そうやって教えてくれるとわかりやすいわね。私も今度はそういうのを聞いてみようかしら」
美子さんの楽しそうな様子がちょっとした仕草からも伝わってくる。
「プレゼントとかはどうなの?」
うきうきと尋ねてくる姿まで愛くるしいときた。
「ときどきね。でも、美子さんのところと同じよ。忙しくなって会えなくなるから。くれるタイミングがわかりやすすぎるの」
そういう単純なところは気に入っているけれど、嫌いだった。退屈させられるのは気にくわない。
「最近もまたこそこそいそいそしているみたいだし、近いうちになにかあるのかもしれないわ」
左耳に髪をかける。コーヒーが飲みづらい。すっかり薄くなってしまった。
「楽しみねえ」
同じタイミングで美子さんも紅茶を啜った。そちらもすでに冷めきっているらしく、もうふぅふぅとしていない。
「ふふふ、実は私の彼もせかせかして連絡がつきにくいから、実はわくわくしているの」
普通の人なら、なかなか会えなくて淋しいとなるところなのかもしれない。
彼女は世間一般からずれている。そして、別の感覚だけれど、それは私も同じ。顔を合わせる無駄が省けてむしろ喜んでいるくらいには。
「そろそろ出ましょうか」
液体のなくなったグラスに氷が滑って音をたてた。彼女のティーカップも綺麗な底が見えている。
「ええ、すっかり長居しちゃったわね」
私たちが立ち上がったそのとき、カランと扉が開いた。入れ替わりにお客さんが来たんだろう、とふとそちらに目を向けた。
「ママ!」
美子さんも叫んだ。二人のそれは悲鳴にも似たものだった。
ママと腕を組むボーイフレンドの姿が目に入った。
そして、それは美子さんと同じ状況だ。
彼女もまたお母さまとボーイフレンドが手を繋いでいるのを目の当たりにしている。
どうやら私たちのママは彼らのママをしていたらしい。
ママ 海月 @jellyfish27
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