第6話 同類

 まだ眠気がこびりついているまぶたに逆らうことなく、自分の机という安全地帯に突っ伏する。

 普段であれば自転車の上で浴びる朝の冷たい風が眠気を吹き飛ばしてくれるのだが、今日は生憎と電車での登校だったので、睡魔の残滓ざんしがまだこびりついたままになっていた。

 黒板の上に取り付けられている時計に視線を向けると、朝のHRまでまだ五十分ほど時間があることを告げていた。

 満員電車が嫌だったので学生や社会人で込み合う時間よりも三本ほど早い電車を選んだため、教室には生徒の姿はほとんどなく、朝練をしている部活動の声が教室内によく響く。

 その声を子守唄にもうひと眠りしようと、机の上で組んだ自分専用の腕枕に顔をうずめたその直後、頭部に圧力——もとい殺気を感じて顔を上げた。


 そこにはがあった。

 視線を少しずつ壁の上へと向けていくと、そこには頬を膨らませて俺を見下ろしている顔があった。

 そこでやっとその壁が俺のことを見下ろしている女子生徒である、と気付く。


「タケくん?覚悟はいい?」


 その女子生徒は中指と親指で作ったOKマークの接合部を俺に向けている。


「朝からカリカリしてどうした?カルシウム足りてないのか?」


 眠気で正常に作動していない脳はどうやら余計なことを口走ったらしい。

 OKマークが小刻みに震え出したのを見てようやく状況を理解する。

 あ、俺、死んだな——とさとるが時すでに遅し。馬鹿力少女から放たれた全身全霊のデコピンが眉間にクリティカルヒットし、睡魔と入れ替わるように瞼の裏に星が舞う。


 マジで痛い。この娘、本当に人間なのかしら?人の皮を被ったゴリラなんじゃ……といった感想悪口が喉元まで競り上がってきたが、それらを寸でのところで飲み込む。

 しかし仁王立ちで俺を見下ろしている女子生徒の怒りは、未だ収まっていなかった。


「で?言い訳があるなら聞いてあげる」

「壁とか思ってません眠くてぼーっとしてただけです」

「……壁ってどういう意味かな?」


 どうやらそこで怒られていた訳ではないらしい。むしろ別の地雷を踏み抜いたようだ。

 半覚醒の状態ではその判断は難しい。いや、これだけ理不尽ということはもはや全て夢なのでは?そうだ、そうに決まっている!

 しかしその願いも虚しく、『バコン』というおおよそ人体から発せられてはならない衝突音と共に眉間への衝撃波が再来する。

 

「~~~~~~ッ!!!」


 声にならない悲鳴を上げながら、額を抑えて悶絶する。

 俺の眉間、無くなったりしてないよね?いや、眉間だけが無くなるとかどこのゾンビゲームだ、という話だが。


「で?言い訳は?」


 先程と同じ質問が飛んでくる。しかしなんで怒られているのか全く分からない。

 そんな様子を見かねたのか、媛はやっとアンサーをくれた。


「メール」


 あぁ。


「忙しくて忘れてました」


 確か昨日は尊都への定時報告すら寝落ちしてしまうほどに疲れて……というか疲れた主な原因はこいつが自転車を変な方法で引き留めたせいじゃなかったか?つまり悪いの媛であり、いわゆる自業自得というやつではないだろうか。

 ちなみに寝落ち直前の尊都へのメールは送信出来ておらず、朝起きると数えるのが面倒なほどの安否確認のメールが届いていた。


「お前、自転車のチェーン外れてるの気づいてただろ。あれが無けりゃメール出来てたかもな」


 忘れてたからどっちにしろ送ってなかったとは思うが。


「それとこれとは関係無くない⁉」

「無く無く無く無い!」

「えっと……無いの反対の反対のまた反対だから……ってややこしく言うな!」

「まさか真面目に考えるとは思わんだろ」

「うるさい!」


 理不尽だ。


「とりあえずあたしが納得出来たら許してあげる!」


 理不尽だ。

 だがせっかく弁明の機会を得たのだ。しっかりと使わせていただく。


「~中略~、ってなわけで原因はお前にある!」

「……あたしそこまで悪くなくない⁉」

「悪いだろどう考えても!アレがすべての引き金なんだから!」

「外れてるのは気づいてたけど、でも教えてあげようと思ったけどタイミング逃したんだもん」


 どんな言い訳だ。タイミングが無かったというより怒られるのが嫌だった、というだけだろう。

 というか、怒られるのが嫌ならそもそもあんな止め方しなければ良かっただろうに。


「だって普通に止めると逃げるじゃん」

「逃げない……とは言えないな」

「ほらやっぱり!」

「いや、それについては日頃のお前の言動に問題がある」

「あたしが何したっていうのよ⁉」


 今さっきまさに甚大な被害を受けたばかりの眉間がうずく。

 加害者の中には往々おうおうにして『自分が加害者である』という認識を持たずに他者へ危害を加えているタチの悪い奴がいる。こいつはその典型例だ。

 というかそもそも『昨日中にメール送る』なんて約束はしていないはずである。そう反論をしようと口を開きかけたその時。


「朝から夫婦喧嘩とはおアツいね~」


 横からさらに面倒な声が割って入ってきた。

 本来であれば部活の朝練中であるはずのナギだった。


「なぜお前がいる⁉」

「あぁ、まぁオレはほら……ね」


 そう言いながら自身の左膝を見下ろす。

 新チーム始動後の練習中に事故で左膝を痛め、今は後輩の指導をしつつリハビリを兼ねて部活に出ている、みたいな話を聞いた気がする。


「もう四月だし、ちょっとリハビリ間に合わなさそうなんだよね」


 だからもう部活は出てないよ、と軽い調子で乾いた笑い声を上げる。

 だがもし本当にそうだとして、用もなしにHRまでまだ四十分以上あるこの時間に教室にいるというのは不自然に違いなかった。


「それにしてもナギっち、学校来るの早いね?」


 少し気まずくなった雰囲気を察知した媛が素早く話題をシフトする。女子ってこういうの上手いよね。


「早く来ればみんなとたくさんお話出来るじゃん?」

「さっすが、デキる男は違うね!タケちゃんも真似してみれば?」

「真似してる時点でアウトだろ。二番煎じほどイタいものはない」


 明るくしようと努力しているところ悪いが、俺にそのスキルを求められても困る。

 下手に調子を合わせようとして柄にもない事を口走ると、かえって変な空気になる事を俺は知っている。ソースは女子との会話を頑張ってた頃の俺。


「でも良いものは取り入れていくのがデキる男じゃない?」

「それは少し違う。『良いものを取り入れて、それをさらに昇華できる人間』がデキるヤツだ。真似してるだけで出来る男になれるなら世の中から『出来るヤツ』という概念が無くなる」

「でもそれは人によりけりじゃん?」

「その時点で『真似をする』っていう行為自体がリスキーなんだよ」


 それも注目度が学年どころか学内ナンバーワンの奴の真似なんざしてみろ。次の日から女子はおろか男子からも嘲笑ちょうしょうの的となり、自分の席という安全地帯すら針のむしろと化す。それすなわち死、だ。


「そっかぁ。まぁ確かにタケくんがそういう事言ったら多分マジで引くかもしれない」

 

 多分なのか、マジなのか。


「それで?今回の夫婦喧嘩の原因は?」

「原因なんて誰かに言ったりしないし!ほら、そういうのって犬も食べない、って言うじゃん」

「まず夫婦って言われてるところを否定しようか」


 コイツと夫婦とか眉間がいくつあっても足りない。


「そうだよね。プライベートは詮索するものじゃないもんね。だから友達として興味本位で聞くね。で、何で?」

「もっとタチ悪くなってんじゃねぇか」

「ほら、こういうゴシップネタって鮮度が大事じゃん?」

「魚か!てかゴシップってなんだ」

「噂話」

「意味は知ってる。これのどこがゴシップになるっていうんだ」

「だってタケっちがオレ以外の誰かと話してるっていうだけでもうニュースだし、その相手が媛ちゃんで、しかも喧嘩してるとあればこれはもう号外ものでしょ」

「断言する。その価値観は絶対に間違っている」


 媛は他の連中に比べれば話しかけてくる頻度も多い。そう珍しい事ではないはずだ。


「え~そんなことないって!なんていうかなぁ……感覚的には『普段絶対に人前に現れない生物が姿を現した』みたいな?」

「UMAか俺は」

「でも確かにタケくんのレア度ってそんなものかも」


 たしかに俺という存在そのものがレアであるとすれば、誰かと話してる俺はシークレットレアのようなものなのだろう。一応俺、皆勤賞なんだけどな。


「っていうか話逸れすぎ!原因は結局なんだったのさ?」



「こいつがチャリのチェーン外れる原因を作った」

「タケくんが約束したのにメールをくれなかった」



「タケっち、約束は守らなきゃだめだよ」

「俺の話はスルーかよ」


 というか人のものを壊してはいけないというルールは守らなくて良いんですかナギ先生。


「でしょでしょ⁉おかげで今日は寝不足で……」

「女の子に寝不足は大敵なんだよ?その原因を作ったタケっちは大罪人だよ⁉」


 そうか、そうか、つまり君はそんな奴なんだな。

 議論や論争においては味方が多いことが重要だ。そしてこの場においては俺に味方はいないらしい。男の友情なんて信じちゃいけない。


「ということで、タケっちは今日中に必ずメールすること!以上、閉廷!」

「おいせめて俺の都合を聞くとかの配慮はないのか」

「今後一切の反論は認めない」

「横暴すぎる!」


 とりつく島もない、とはこの事だ。


「でさ、今から媛ちゃん借りていい?」

「ん?あたし?いいよ!」

「おい待てまだ話は終わって……」

「はいはい、とりあえず何でもいいから送ればいいの!じゃ、媛ちゃん借りてくわ」


 遅れてやってきた似非えせ裁判官は偏りすぎな判決を下し、媛と共に教室から出て行った。

 

 先ほどまでの騒々しさが一転、教室内には静けさが戻ってくる。

 その静けさの中、ふと自身に向けられた数々の視線に気が付く。ナギと媛とのやり取りの間に登校して来ていた数人のクラスメイトが、珍しいものを見るような目でこちらを見ていた。

 しかし話しかけてくるでも、視線を切るでもなく、ただ見ているだけである。一番反応に困るやつである。彼らは俺に何を期待しているのだろうか。

 こういう時は寝るに限る、という事でその視線を全て無視して机の上で腕枕を組んだが、デコピンによって吹き飛ばされた眠気は戻って来てくれなかった。

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