第5話 家族

「ただいま」


 空腹の限界を超えた男子高校生の胃袋が『早く飯を与えろ』と遠慮なく呻き声を上げる。その本能に従って買い食いをしたくなる衝動を、理性というよりも根性で抑え込む。

 自転車さえ生きていれば、買い食いの誘惑に惑わされることも、不慣れな電車の時間に右往左往することも無かったのに……と無限に湧き上がる文句とイライラをすべて空腹のせいにして帰宅の勝鬨かちどきをあげた。

 するとリビングから黒い毛玉がするりするりと近づいてきて、俺を視界に収めるなり「なーお」と鳴き声を上げる。


「ただいま、ヤナ」


 飼い猫であるヤナに声を掛けるが返事はくれず、「ついて来い」とでも言うように背中を向けてリビングへ歩き出す。

 リビングは電気こそ点いていたが、誰もいない。

 嫌な空気を肌で感じる。そして同時にそれを「正解」とでも言うかのように、和室の襖の前でヤナがぴたりと止まる。その意味を理解して、胸の奥にズキリと痛みが走る。

 しかしそれを作り笑顔で覆い隠し、ヤナに「ありがとう」と伝えながらその頭をひと撫でして襖を開ける。

 

 電気の点いていない和室は真っ暗だった。そんな真っ暗闇の中に、襖から差し込んだ光を受けてひとつの影が浮きあがる。

 その影は丸めた背中の上に、まるで精気を抜かれたかのような呆けた表情かおを乗せて座っている。そしてその視線はある一点をひたすらに見つめていた。

 その影を無駄に刺激しないよう、可能な限り穏やかな声で呼びかける。


「ただいま、母さん」


 その一言にビクっと肩を跳ねさせて俺を見る。


「……ト?……ヤマトなの⁉あぁ良かった!おかえりなさい‼」


 先ほどまでの無気力が嘘のように勢いよく立ち上がり、痛みを感じるほどの握力で俺の両肩を鷲掴みにする。だが残念ながら俺は兄貴ヤマトではない。

 湧き上がる様々な感情を押し殺し、落ち着かせるためだけに作った優しい声音でゆっくりと言い聞かせる。


「母さん落ち着いて。俺だ……健だよ」

「タケル……?あぁ、健ね……」


 一応は落ち着かせることに成功したようで、俺の存在をようやく認識する。そして正気に戻ったかのように——いや、まるで人格そのものが入れ変わったかのように明るい笑顔となる。


「あぁ健、おかえりなさい。おなか空いたでしょう?」


 そう言うと何事もなかったように台所へと向かう。

 その後ろ姿を見送って、母が先ほどまで座っていた座布団に座る。目の前には仏壇と写真がある。それを母と同じようにしばらく見つめてから俺が立っていた場所を見る。


「そこまで眩しくは無い、かな」


 笑顔で覆い隠したはずの痛みが再び顔を覗かせる。それを自分の目が光に慣れていたせいだろう、という現実逃避のような結論をひねり出すことで誤魔化した。


       * 


 今日一日、色んな意味で掻かされた汗をシャワーで流して自室に戻る。

 久しぶりの登校というだけでなく、走ったり電車に乗ったり……と慣れないことの連続だったうえにバイトまでこなしたとなれば、さすがに眠くて仕方がない。

 髪はまだ少し湿ってはいるが、自然の力を信じて布団にもぞもぞと潜り込む。

 だがまだ眠る訳にはいかない。枕元で充電されている携帯電話がゆっくりと点滅している。


『今日はどうだった?』


 布団の中でメールを開くと、題名はなく本文もその一言のみのメールが入っていた。毎晩その日の母の状態を共有する我が家の定時報告である。

 俺は眠気を堪えて返信用のページを開き、簡潔だがなるべく状態が分かるように報告を打ち込む。


『久々に落ち込んでた。俺を兄貴と勘違いして一瞬だけ取り乱したけど、その後は落ち着いた。多分もう大丈夫』


 三年前の以来、母は時々不安定になる。普段の生活では何ともないのだが、たまにあのように深く落ち込んだり取り乱すことがある。


『了解。おぃは大丈夫?』


 報告を送ってから、ものの三十秒ほどで返信が来た。

 今日の出来事を思い返すと自分のことを心配してくれる存在がいる事に少し救われた気分になったりする。

 しかしホッとした事と布団に包まれていることで、眠気がピークに達していた。


「おれは……だいじょうぶ……こそ、あんま……」


 少し強がって心配し返す返事を送ろうと指を動かすが、その最中にも刻一刻と意識が睡魔に飲み込まれていく。

 もはや夢かうつつか定かではない意識の中で、家族なら寝落ちくらい許してもらえるだろう、という甘えが働きそのまま意識を手放した。


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