第8話 恋人の聖地
「張り切って行こ~!」
媛の掛け声を合図に三人で中之島大橋の入り口を通り抜ける。
入口には柵が一つ設けられているだけで、誰でも簡単に出入り出来るようになっている。道幅も大人が五人ぐらい横一列に並んでも余裕がある程に広い。
今回の目的地はこの橋の頂上。らせん状になっている道を二周分登り、橋の中央部分まで到達出来れば目的達成となる。
小学生の遠足でも使われるスポットではあるが、当時登ったときよりも橋の高さに圧倒される。主に体力的な意味で。
一方の榮さんはというと、登り始めこそやや緊張していたが、他愛のない会話をしながら登っていくうちに表情からは少しずつ硬さが消えていった。
「そういえばこの橋ってなんで『恋人の聖地』って言われてるの?」
「昔テレビドラマで使われたときに『恋人をおんぶして渡り切れればその二人は永遠に~』みたいなストーリーがあって、それがきっかけらしい」
「創作ってことかしら?伝承とか実際のエピソードがあるわけではないの?」
「俺の知る限りですけど、そういうのは無いんじゃないですかね」
当時の俺はまだ幼稚園生くらいだったし、今も特に伝承に造詣が深いという訳では無いので詳しいことは知らんけど。
「それってさ、恋人同士じゃなきゃダメなの?」
「そもそもそんなこと出来る
「なるほど!タケくんってそういうところ知能指数高いよね」
「俺はサルか?というか使い方間違ってんぞ」
失礼な物言いだが慣れてくると屁でもない。
しかしそんな俺にとってはなんてことのない媛の一言が、榮さんを地獄へと突き落していた。
ここまでは会話によってなんとか誤魔化していたが、既にあと半周で頂上までの最後の登り坂、というところまで登って来ている。下を覗き込めば高いのが苦手という訳ではない俺でも少し緊張する程の高さだ。
そんな場所で高いという事実を認識すれば——
「あばばばばば」
そりゃあこうなりますよね。
本日の二度目のフリーズ、というか既にその場でへたり込んでいる。
「完全に腰抜けちゃってるなぁ……これは厳しいかも」
「なるほど……じゃあ降りるか」
「だね。おねーちゃんが落ち着いたらお願いできる?」
「半ば以上そのために来たようなもんだからな」
他意はない。断じて。
榮さんを柵にもたれさせ、その両脇を固めるように俺達も座り込む。
「にしても本当に高いところダメなんだな、榮さん」
「昔はそんなこと無かったんだけどね」
「何かダメになるような体験をしたとか?」
「……さぁ?あたしにも分かんない」
「そうか……」
「うん……」
話題が尽きる。
不意に訪れたその沈黙は、それまで気が付かなかった港特有の濃い磯の香りやゴウゴウと唸る風音を際立たせる。
その心地良い感覚に身を委ねて空を見上げる。お昼過ぎから始まったこの旅だが、どうやら到着までに時間を費やし過ぎたようだ。赤く色づいた雲が風に運ばれてゆく。
この大橋は夕焼けスポットとしても名高く、もたれている欄干の隙間から強い西日が差し込んでいる。
いつまでもこの心地に浸っていたいところではあるが、とはいえそろそろ下りる準備をしないと夜になってしまう。まだ榮さんは立てない様子だが、無理にでも負ぶって降りるべきかもしれない。
重い腰を上げ、座ったままの彼女に向けて口を開きかけ——そして言葉が零れた。
「夕陽、上で見ませんか?」
その言葉はまるで、この瞬間の俺の意識を反映するかのようにふわふわと宛てもなく宙を漂っていた。
なぜ真逆の提案をしたのか、自分でも全く分からない。あえて理由を付けるとするならば、夕陽に見惚れる彼女の横顔にただ酔っていたのだろう。
彼女を負ぶって三人で頂上へ向かう。
橋の最上部は高さがあるうえに実質海の上なので、強い風が常時吹き抜けている。
足取りが不安定な俺たちは、
三人で
夕陽は光をどんどん強め、ラストスパートと言わんばかりにギラギラとした光を撒き散らす。
「ごめんっ、先に降りる!風強すぎ‼」
そんな沈黙を破ったのは媛だった。
風で暴れるスカートを抑えながら先程まで来た道のりを小走りで戻ってゆく。その後ろ姿を二人で——俺は視線の端で——見送った。そして媛の姿が見えなくなり、橋の上には俺と榮さんの二人きりになる。
すると唐突に、背中から謝罪の声が飛び出した。
「この間はごめんなさい」
「え?……あぁ!いえ、大した額でもなかったんで気にしないでください」
「もちろんそれもだけど……付き合って、って言ったこと」
「そっちですか。いや、何で謝るんですか?」
一瞬、まるで世界が息を潜めたかのような静寂が訪れ——
「——アレさ、やっぱり無かったことにしてもらえないかな?」
ぞくりと悪寒を感じた。
息を吹き返した強風が俺の汗を冷やしでもしたのだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。今はその言葉の真意を問うのが先である。
「あの、それはどういう……?」
「なんと言うかあれはさ、私の言葉じゃないから」
榮さんの言葉ではない……?
ということはやはり、俺があの時聞いたのは幻聴だったのか。いや、今まさに榮さんからその言葉を否定されているということは榮さんから発された言葉であることの証拠である。しかし、それでも自分の言葉ではないという。
じゃあ誰の言葉だ?
分からない。分からないが言っている言葉の意味は分かってしまう。要はフラれたのだ。
特にそういう類の好意を抱いていた訳ではないが、一瞬でも期待を抱いてしまった心には今、黒い感情が渦巻いている。
ああ、俺はこの感情を知っている。失望という感情だと知っている。
でもこれは彼女へ向けて良いものではない。
じゃあ、誰へ向ける?
そんなの決まってる。
彼女の言葉を真に受けた。戸惑いつつも受け入れ、同時に期待を抱いてしまった。期待を抱いた。だから、失望した。
家族の事ですら理解できなかった自分に、
戸惑った時点で疑いを持つべきだった。正気に戻るべきだったのだ。
つまり、この失望の原因は
その結論を引きずり出し、その黒い感情を理解したことにして押し殺す。そして、いつの間にか瞑っていた目を開く。
眼前の夕陽はその半分以上が海に溶けており、その光を水面が乱反射している。
そのあまりの眩しさに、開けたばかりの目を細める。
いつまでも黙っている俺の背中で、彼女もどうしたらよいのか分からずにいるようだ。密着しているせいだろうか、顔は見えないがそんな雰囲気を肌で感じ取る。
その間にも夕陽はどんどんと海に溶けてゆき、辺りにはすっかり夜の気配が漂い始めた。
欄干部分に立っている街灯が俺達を照らし始める。その侘しさが俺たちを
不意にデニムのポケットの中で携帯が振動する。
取り出そうと無意識のうちに左手を離しかける。しかし榮さんが背中からずり落ちそうになり、その手を慌てて引っ込めて背負い直す。
「あ、あのさ、私が取ろっか?」
「……お願いしてもいいですか?」
「うん」
榮さんの手が携帯へと伸びる。
「ぅぐッ——」
他人の手が自分の体を
「媛からだ。出てもいい?」
「ッ……お、お願いします」
『おっそーーーい!!!』
耳元で怒声が響く。
左耳がキーンと聞こえないはずの音を捉え続ける。不意打ちを受けた可哀そうな耳を庇うように左肩で抑える。
『もう夜になっちゃうよ⁉』
「ごめんね媛。すぐ戻るから」
「というか勝手に降りたのお前だろ!」
腹いせとばかりに少しだけ語気を強める。
『勝手じゃないし!ちゃんと伝えてから降りたし‼』
売り言葉に買い言葉とでもいうかのように、媛が喰ってかかってきた。
そういう事じゃない、と心の中でツッコむ。しかし遅くなったのは事実な訳で、この空気に助け船を出してくれたことには感謝である。本人にそのつもりは無いだろうが、これ以上はお門違いな気がするので反論は控える。
姉妹はその後、いくつかの言葉を交わして通話を終える。
「じゃあ、行きます」
「うん、お願い」
返事を受けて来た道を戻る。
あと半周で地上という所までただ黙々と
その最中、足元に出来る自分達の影にふと違和感を覚える。しかし、慣れない長時間の外出におんぶにと、既に体力的に限界が近い状態である。そんな俺に思考に割けるリソースは残っていない。一心不乱に降り続けた。
「やっと降りてきた!」
最後のカーブを回った俺たちを頬を膨らませた媛が出迎える。
「もう、心配したじゃん!」
「何かあれば連絡するだろ」
榮さんを背中から下ろしながら答える。
「そうだとしても!待たされている方は心配するの!」
「そりゃすまんかったよ」
「待たせちゃってごめんね、媛~!」
立てるまでに回復していたらしい榮さんは、道中での強張りや先ほどまでの気まずさなどがまるで嘘であるかのような調子だった。
「ほんとだよ~!もうすっかり夜だよ?お腹空いちゃった」
その後、俺と榮さんが歩けるようになるまで媛の愚痴を聞きながら最後の休息を挟む。
媛の愚痴が寒さを訴える弱音に変わる頃には俺も榮さんもすっかり回復し、三人揃って駅へと歩き出す。
俺個人の課題の方は形はどうあれ解決した。
しかし本題の方は果たしてクリア出来たと言って良いのだろうか。そんな疑問がふと湧き上がり、歩みを止まらせる。そして、その疑問に既視感を覚えて大橋を振り返る。
「タケくんどしたの?」
「……いや、何でもない」
そう返事をして、前を歩く彼女たちに追いつく。
まぁ仕事は
本人たちが満足できている以上、新たな
榮さんを真ん中にして、三人並んで大橋を後にする。
そして、一対の影が夜の闇へと消えていった。
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