第3話 新学期
長期休みの中で唯一宿題の出ないこの世の天国とも思える春休みが終わると、新学期という地獄がやって来る。
高校生になって三度目の春。
これまで二年間くぐり続けたこの校門も何故かこの日だけは新鮮に感じられる。この現象にそろそろ名前を付けてあげてもいいのではないだろうか。
昇降口付近は新年度恒例のクラス替えに期待と不安が半々、といった甘酸っぱい『青春』という名の感情を抱いた生徒たちでごった返していた。
そんな人々の群れを素通りして下駄箱で上履きに履き替える。
昇降口から向かって右手の階段を一階分登り、右に曲がってすぐの突き当りにある教室——3-A。ここが高校最後の一年を過ごす教室である。
なぜクラス発表を確認せずともこの教室が分かったのか。
それはA組というのが一学年に一クラスしか設けられていない特殊なクラスなためである。だからわざわざ群衆に突っ込まなくてもクラスが分かる、というロジックである。
そのためメンツも基本的には変わり映えせず、教室の後ろ扉から入ると既に登校していた馴染みの顔が出迎える。
「あけおめタケっち。今年もヨロシク~」
「間違っちゃいないが間違ってるぞ、ナギ」
年度明け、って意味では合ってるか。
そんなズレた新年度一発目の挨拶をしてきたのは、
イケメンで秀才。人格から容姿に至るまで非の打ち所がない優等生。天から二物を奪い取ったのかと言いたくなる。
そしてその二物には『誰とでも仲良くなれる』という能力まであるらしく、俺のような変わり者にも話しかけてくる変わり者である。
「ところでタケっち?先週の恋人との密会について詳しくお聞かせ願えるかな?」
「何の話……ってお前見てたのか?」
恋人には心当たりはないが、休み中に誰かと会っていたのはあの時以外にない。
「オレ、あそこでバイトしてるんだよ」
なるほど、春休みだしな。
「短期でか」
「いや、一年生の夏から」
……いつも見られていたというのか。
そこそこ利用してるファミレスだったのだが今日まで知らなかった。変なことはしていないが、プライベートを覗き見されていたような気分になる。
しかしナギはそんなことを気に留めることも無く、自身の興味を優先して質問を続ける。
「それで?いつの間にリア充の仲間入りを果たしたのか洗いざらい吐いてもらおうか」
取り調べをする刑事のように顔を近づけ圧力をかけてくる。
どうやら俺みたいな人間が恋人を作ると犯罪になるらしい。そんな国家あってたまるか。
というかそもそもリア充の仲間入りをした覚えはないので弁明すべく口を開く。
「——ということがあって、お礼しいと言われて少しお茶しただけだ」
話し終わるころにはナギの顔が俺の目の前にまで迫っていたので、それを右手で鷲掴みにして遠ざける。俺のハジメテがこいつとかシャレにならん。
また正確には奢られてはいないのだが、そこはわざわざ話す必要は無いのでカットした。
「な~んだ。遂にあの一匹狼に春が来た!ってスクープかと思ったのに~」
鷲掴まれていることなどまるで意に介していないかのように、ナギは俺の右手の中で残念そうな声を上げる。
「そのまま喋るな!」
掌に感じる生暖かい吐息と空気の振動が気持ち悪い。
咄嗟に手を放したが、既に興味が失せたのか、それともちょうどそのタイミングで教室に入ってきた級友に興味が移ったのか、ナギはその一言を最後に俺の席から離れて行った。
一定以上のコミュニティの中ではしばしば、本名以外の名がつくことがある。本名をモジってつけられる『あだ名』やその人物が起こした事象などからつけられる『愛称』、そしてその人物の特性や身体的特徴、習慣等からつけられる『
そんな俺の蔑称が『一匹狼』だ。
由来は単純。この二年間、学校生活のほとんどを一人で過ごしていた。ただそれだけである。
別に会話が苦手だったり、友達が出来なかったという訳ではない。内容の無い会話をする時間が無駄に思え、自発的に交流をしなかっただけだ。
その結果としていつの間にか一人でいることが増え、そのうちに誰が言い出したのか付いた名である。
もちろん蔑称であるので表立って言う奴はあまりいない。ナギは変人なので別だが。
「一匹狼、ねぇ」
俺はこの蔑称の事が嫌いじゃない。いや、なんなら少し好きまである。
一応それなりに偏差値のある高校なので、あまり関わることの無い他のクラスの連中であっても、そのワードだけで俺の立ち位置を察してくれる。
おかげで話しかけてくるのは業務連絡以外ではナギとアイツくらいなものだし、人除けになってくれているという点で非常に重宝している。
「はい席付け~、朝のHR始めんぞ。
気の抜けた低音ボイスと共に、クマのような巨体がのっそりと教室に入ってくる。
生徒たちはそれまでの級友との雑談を中断し、入ってきた人物に対して口々に「先生また太った?」「てかそのシャツ、アイロンかけてないっしょ」等々の軽口を飛ばす。
それらに適当に返事をしつつ、その騒めきを遮るように学級委員長が号令をかける。
そして静かになった教室で、教卓に立つクマのような巨体——
「え~新学期、明けましておめでとう」
お前もかよ!
思わず頬杖から顔だけで転ぶ。何だ?俺の知らないところで流行ってんのか?それとも俺の知らない新常識なのか。
「と言ってもメンツは去年と変わらんから新鮮さには欠けるがな。で、今日だがこの後は……」
挨拶もそこそこに今日の予定の説明が始ま……らない。
その風貌の通りの性格をしているこの教師にかかれば、やること盛り沢山なはずの今日のスケジュールも「始業式のあと、色々やって終わりな」という簡潔過ぎる説明に凝縮される。
そんな訳で設けられた時間よりも遥かに早く終了したHRは自由時間へと突入する。
このいい加減さというか臨機応変さというか、適当加減が学年や男女を問わず生徒達から支持を得ており、一方で一部の教員たちからは疎まれているなんて話もある。まぁ本人はどこ吹く風、といった様子だが。
そしてそんないい加減さだったにも関わらず、始業式から帰りのHRまで一切問題なく終わるのは、たぶん生徒が優秀だからだ。
「んじゃ、あんま長居せずに気を付けて帰れよ~」
教室から出ていく先生のその一言を『待ってました』とばかりに教室内が活気づく。が、俺はその熱気を横目に手早く荷物をまとめる。用も無いのに教室にいる理由は無い。
支度を終えて後ろ扉をくぐろうとしたその時だった。
「八剱くん、少しよろしくて?」
背後から女子生徒に呼び止められた。この話し方は間違いなく学級委員長だ。
言葉遣いや立ち振る舞いはまるで貴族のように品があり、委員長を任されるだけあってしっかり者なイメージの生徒である。
「少しもよろしくないのでお引き取りを」
なるべく早く切り抜けたいので、背中を向けたまま答えた。
俺はこの委員長のことが少し苦手だ。感覚的なことなので上手く説明は出来ないが、彼女のその振る舞いの中身とでも言おうか、それが空っぽな気がしてならないのだ。その感覚が何とも不気味なのである。
「よろしくないのは貴方の提出物の方ではなくて?出していないのは貴方だけでしてよ?」
「……明日でも間に合いますでしょうか?」
その指摘にビクリと肩が跳ねた。俺以外みんな提出済みとか優秀過ぎるだろこのクラス。
その口調ゆえの圧力に屈し、使えもしない敬語で答える。俺の心のは彼女の事を格上と認識しているらしい。俺より格下を探す方が難しいから当然の事ではあるが。
とにかくさっさと彼女から解放されるべく、適当に切り上げて教室を後にした。
「八剱、少しいいか?」
だが、そこを階段手前の壁に体重を預けて立っている林才先生に呼び止められた。どうやら俺は今日限定で人気者らしい。それがせめていい意味なら良かったのだが。
先生に連れられ、階段の左手に伸びている渡り廊下を渡り、渡り切ってすぐ右手にある社会科教室へと入る。
この教室は座席が大学の講堂のような作りになっているのが特徴的な教室なのだが、別に社会科の授業で使われる訳ではなく、なぜ名前が『社会科教室』なのか誰も分からず、更にはそもそも授業以外でも使われることがほとんどないという謎の教室だ。
誰かが入ってくる心配がないため、他の生徒や先生に聞かれたくない話などをする際には重宝するスポットである。
先生は教室に入ると、視線で席へ着くように促すしながら後ろ手に扉を閉める。それに従い手近な席に腰を下ろし用件を待つ。
先生が手元のファイルから取り出したのは、春休み前に提出していた進路希望調査の用紙だった。
進学校であるこの高校では進路の話をする機会が多めに設けられているのだが、先生が出してきたその用紙の第一希望には『就職』と書かれているのみで、他は空欄になっていた。
「今回、何で就職を第一希望にしたのかなんだが……やっぱりお袋さんか?」
ストレートに質問が飛んでくる。
前置きの無いその質問に、こちらも簡潔に「はい」とだけ返す。
「そうか……お袋さんはどうだ?」
「……前よりは、ってところですかね」
「そうか。あまり無理はするなよ?」
「ええ、伝えておきます」
「ん。お袋さんもそうだが八剱、お前もだ」
「…………え?」
自分に向けられた言葉であると気付くのに
「最近はコンプライアンスだとか個人情報だとかがいろいろ
「いえ……家庭の事情ってのがあるんで」
「それを言われると何も言えなくなるんだがなぁ……まぁ、僅かだがまだ時間はある。お前の成績なら多少始動が遅れても受験には間に合うだろ」
「いやだから、第一希望は就職ですって」
「第一希望は、な」
「っ……何が、言いたいんですか?」
険を含んだ口調で問い返す。
そんな俺に対し先生は「すまん、少し大人げなかった」と目を伏せながら、「でもな」と続ける。
「お前があの事を気に病んでいるのだとしたら、それはお門違いだ。お前さんが気に病むべきことじゃない」
「先生に何が分かるっていうんですか!!!!!」
自分でもびっくりするくらいの大声が出ていた。
はっと我に返り「すみません」と口先だけの謝罪が零れたが、それからお互いに黙ったままの時間が流れる。
たぶん大した時間は経っていなかったが、それでもその沈黙に耐えられなかった俺は何も言わずに荷物を掴んで教室の出口へ走る。
扉が閉まる直前の僅かな隙間から少し困ったような笑みで俺を見送る先生の姿が見えたがそれに反応を返すことは出来ず、今さら扉を開けるなどもっと出来るはずも無く、もやもやとした気分のまま昇降口へと足を向ける。
先生の言うことはたぶん図星なのだろう。ああ言われて言い返せなかったし、今も晴れないこの感情がその証拠だ。
だが、希望の先に待つ現実が必ずしも幸福ではないことを俺は知っている。
望む場所が高ければ高いほど、墜ちた時の傷は大きくなるものだから。
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