「希羅ちゃん。邪魔者も居なくなったし、始めよか?」


 修磨の気配がその場から離れたのを感じた洸縁は、まだ少しいじけている希羅の肩に優しく手を置いてそう言い、希羅は洸縁の瞳から少し視線を外し小さく頷いた。






―― 一時間が経ち。


 洸縁はゆっくりと息を吐き、つと、額から頬に流れた一筋の汗を手の甲で拭い、治療の終了を希羅に告げた。


「何時も、ありがとうございます」

「気にせんといてぇな。君の両親にお世話になった僕にとって、希羅ちゃんは娘も同然の存在なんやから。な?だからそんな顔せんといて」

「…はい」


 希羅は仰向けに寝かせていた上半身を起こし、治療代を払おうと懐から財布として使っている桜柄の小さな巾着袋を取り出そうとしたのだが。


「何時も言っとるやろ?お金は要らんて」

「駄目です」


 厳然たる態度を他人行儀だと不満げに口を尖らせる洸縁に、希羅はされど、膝を揃えて向かい合いぴしゃりと言い放った。


「いくら両親に世話になったからと言っても、治療代、勤労の対価を受け取らない理由にはなりません。だから、受け取ってください。質素な生活でも、別に、治療代を払ったからと言って食べるのに困るほどの貧乏ではないので。もし、そう思っての辞退なら、そんなの掃き溜めにでも捨ててください」


 希羅と洸縁は互いに譲らないと、睨むように座視し合っていた。何時ものことである。

 そして、何時も折れるのは――。


「分かり…ました。その時に、一括で払います」


 敗者のように項垂れる希羅に、洸縁は満面の笑みを向けた。

 その勝ち誇った勝者のような洸縁のその表情に、希羅はむっと口を一文字に結んだ。




『何遍言わせるん?お金を受け取るんは、希羅ちゃんの病が完治した時やって。なに?僕の医師としての腕を信用してへんの?傷つくわぁ』




 そう言っては目元に裾を寄せて泣く、振りをする洸縁に、希羅は毎度毎度、治療代を受け取ってもらえていなかったのだ。

 毎回そう言うやり取りを繰り返しているのだから、払うと言わなくてもいいと思うかもしれないが、それでも希羅がその都度その都度に、律儀にそう申し出ていたのには理由があった。


 治療の段階で何かあってはいけないからとか、無論、洸縁の医師としての力量を信用していないわけではない。

 だが。


 希羅は一瞬、固く目を瞑った後、修磨が居ないこの時だからこそ、洸縁を直視して訊こうと思っていたことを口にした。


「あの。どうして修磨さんを退治しないんですか?洸縁さん。陰陽師でしょう?鬼は人に害をなすって、噂を流した張本人なのに」

「さっきも言ったやろ?そう言う噂を流す京都の陰陽師、『平安の雫』が嫌で、抜けたって。鬼が人に災いをもたらしたとこを見たことなんかないくせにな。よう言うわ、全く」

「でも。…人に害をなすのかもしれないのでしょう?人とは、…違う存在なんだから」


 間髪入れずに口にした洸縁の返答は真っ当な理由だったが、希羅は腑に落ちなさそうな表情を浮かべた。退治して欲しいと言うわけではないのだが。


 確かに。鬼が人に害をなしているところなど、ましてや姿など見たことがない希羅だったが、妖怪が人を襲うところは幾度となく目にしてきた。だからこそ、その可能性が一分でもある鬼を退治できる力を持つ洸縁があっさりと修磨を受け入れた事は正直、目を疑うほどの衝撃だった。


 此処で一つの疑問が生じる。人を襲う、との事実を持つ妖怪の巣窟のすぐ間近に住む希羅は、他の人よりも襲われる可能性は高い。にも拘らず、何故此処に一人の身になってもこの家に住み続けるのだろうか。


「希羅ちゃんかて、鬼である修磨を受け入れたやろ。それと一緒や。危険かもしれん。けど、危険やないかもしれん。分からんから殺してしまお言うんは、それこそ危険な思考や。確かに。それは自分の、他人の身を案じるからこその至極当たり前の思考やけどな。…うん。そうやな」

「え、と。これは?」


 自分が修磨と一緒に暮らすと言う洸縁の発言を全速力で否定しようとした希羅だったが、目の前に差し出された物体に、その言は一旦、喉奥底に引っ込めさせられてしまった。


「ん。結界を通り抜けられるほどの力の持ち主の修磨やから、不安に思ったんやろ。だからな。これはお守りや」


 そう、先程の疑問の答えはこれであった。希羅の家一帯と街から家までの道のりには魑魅魍魎を跳ね除ける強力な結界が施されていたからこそ、希羅は住み続けられるのであった。


 だが、それが住み続ける最大の要因ではなかった。ただし、天涯孤独の身だからと言って、他に行くところがないから、と言うわけでもなく。




「修磨が帰って来たら、試しにそれをあいつの目の前に差し出してみ」


 洸縁はにやりと、面白いことになると言わんばかりの表情を浮かべたが、希羅はこんな遊び道具が鬼に通じるのかと首を傾げた。


「って。いえいえ!一緒に住むこと前提で話が進んでいますが、嫌ですよ。そんな急に見知らぬ人、と言うか、何だかよく分からない存在の鬼と一緒に暮らすなんて」


 有り得ないと、首と右手を全力で左右に振りまくり否定する希羅は、あまりに激しく動かし過ぎて少し気持ち悪くなってしまい、動きを止めた。


「大丈夫や。僕言ったやろ。修磨は君の守護神やって。僕の陰陽師の力も信じてや」

「…えーと。では何故お守りを?」

「守護神も間違いを犯すやろうからな。その万が一の時の為にや」


 会話の中終始、自信満々で無邪気な笑みを向ける洸縁に気を少し落ち着かせた希羅は、数分後にでも修磨を家に受け入れる自分を想像してしまった。

 その時、トントンと遠慮がちに戸を叩く音がし、修磨の声が耳に入って来たかと思うと、洸縁は希羅に視線を向けた。


 じっと、怖いくらいに注視するその双眸に、希羅はだが、優しく語りかけられているような気がした。

 最後に決めるのは君で、嫌だと言うのならば全力で修磨を追い払うと。


 今のところ、希羅は洸縁が何故此処まで修磨をこの家に居させたいのかはさっぱり分からないが、何か深い意味があるのだろうと思った。

 そして、それに加えて。


「…弟も、そうでしたから。両親の忘れ形見と考えます」


 自身が予測したように、希羅が修磨を受け入れる事にした一つの理由は、両親の存在だった。何故か思ってしまったのだ。修磨と両親は知り合いなのでは、と。会ったこともなければ、一度たりともそのような話は聞いたこともないにも拘らず、初めて修磨の顔を見た時、恐怖とそしてほんの少しだけ、懐かしいと感じたのだ。



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