第41話 煙月に踏み入れて、雪炎を狩る






 ただ、一時の忘却を。静寂を。安らぎを。癒しを。

 望む日常を。と、


 ずっと一緒にいたいと思わない。

 肉体的接触も全く望まない。


 自分は、

 自分はただ、時々、並んで、静かにお茶を飲む事ができればそれだけで、

 それだけが願いだったはずだ。


 自分は、








「あなたは私に肉体的接触を望みますか?」



 問うて。鳩が豆鉄砲を食ったような顔を見て。己が口にした疑問を思い返して。

 みたが、どうした事だろう。

 脳を介した言葉ではなかったようで、記憶に残っていない。皆無だ。怪奇だ。



(…私は何を言いましたか、と。尋ねるべきか)



 微動だにしないまま、こちらを直視する葵を見て。

 目を逸らしたら時が動いてしまう、時を動かしたくないから目は逸らさないと言わんばかりに、凝視する葵を目の当たりにして、厳耕の頭は悩乱する中、とりあえず直近の記憶を掘り起こした。




 草玄と別れてから、和菓子屋に寄って、拳くらいの大きさのおはぎを四つ買って、平屋宿に戻ってみれば、迎えられたのだ。

 お帰りなさい。

 そう言われて。


 奇妙な話だ。一瞬間、ここが家だと錯覚してしまった。

 この人が、家族だと、

 傍にいてくれる事が当たり前の存在だと。


 ここは家でも、この人は家族でもない。

 違う。分かっているのに、


 どうしてか。


 戸惑い、ざわつきが生まれてしまった。

 落ち着かない。

 この人に向ける想いに気づいた時には感じなかったというのに、




(私はおはぎをきちんと手渡したのか?)



 手洗いうがいは?夕飯は?風呂は?今は何時だ?

 何時からあやふやになっていたのだ私の記憶よ。



 己のあまりの不甲斐なさに叱咤しながら、そろり、眼を逸らして時計を見る。

 八時。どうやら夕飯は終わったらしい。そして今は、おはぎを食べている最中だったらしい。

 実感はなかったが、木の皿の上に一個載っているおはぎを、竹の爪楊枝で分けて、口に運ぼうとしていたようだ。



 さて、ここまで思い出したはいい。朧気でも致し方なし。問題は、

 問題は、自分が何を口走ったか、である。



(……返したいと、思ったような、気が、する)



 お帰りなさい。


 温かい言葉をもらったお返しをしたいと、切に、衝動的に湧き上がって。

 けれど、言葉も行動も返せないまま、戸惑いとざわつきに翻弄されて。


 何もできないまま、



(私は何を、)



 厳耕は時計、手元へと静かに移動させていた視線を葵に戻した。

 未だ凍り付いたまま。

 よほど、想像できない言葉を発してしまったらしいと、容易に想像できた。



「葵殿」



 結局おはぎを口にしないまま、木の皿を机に載せて、正座の身体を腕の力を使って後方へと滑らせてから、深く頭を下げた。

 羞恥で熱くなった顔を隠す為ではなく、真摯に謝罪したかった。



「申し訳ない。あなたに、」


 喉が渇く。緑茶で口内を潤すべきだった。



(いや、きっと、無意味だったか)



 緊張している。

 己を語る事。

 初めてだから、

 あなただから、

 あなたに、だから。



「お帰りなさい、と。あなたに言われて、舞い上がって、嬉しくて、あなたにも、あなたに。返したいと、欲求が沸き上がって。落ち着かなくて、ここに、戻って来てからの、記憶が曖昧で。あなたに先程、何を言ったのか、覚えてはいないがきっと、あなたの様子から察するに、私たちには不要な事を、言ったのだ。申し訳ない」



 熱が活動限界まで上昇しているのではないだろうか。

 限界突破した熱が身体も心も溶かしているのではないだろうか。


(ああ、)



 あつい、



「厳耕さん」



 厳耕は顔を歪めた。

 名を呼ばれただけで、大袈裟に身動ぎするなど。



「厳耕さん、あー、の、ですね。えー。本当なら、多分、顔を上げてくださいって言うべきなんでしょうけど。どうかそのまま、顔を下げたまま、聞いてください」

「はい」

「あー、の」

「はい」

「肉体的接触は望みますかと訊かれましてですね」



 早口に言われた、内容は、確かに。厳耕の耳に届いて。

 届いたが。届くより前、音で鼓膜が震えた、その瞬間。

 厳耕は灰塵になって崩れたような錯覚に陥った。

 景色が真っ白になった。



 理由は分からないが、とにかく、真っ白になった。何も考えられなかった。

 微塵も抱いてはいない言葉だったから。

 何故、そんな言葉が生まれたのか、理解不能だった。

 お互いにそんなの、望みはしないのに、



「私はどうしてか頭の中が真っ白になりまして」

「葵、殿」



 声が震える。情けない。制御しなければ。冷静に対処しなければ、

 思うのに、思考も身体も理想通りに動いてはくれない。



「望んでいるように見えたのかなとか、厳耕さんが望んでいるのかなとか、思って、なんですかね。衝撃を受けた理由が分からなくて。頭が真っ白になった理由が分からなくて。望んでいない。答えは明確なのに。望んでいません。言って、厳耕さんがどう想っているか、訊けば良かったのに。どうしてですかね。動けなかった。んですね」

「申し訳ない」



 額を畳に押し付ける。痛みを感じる。構わない。構う。畳に傷をつけたら、血をつけたら。迷惑がかかる。心配をかける。



「謝らないでください。だって、あー、いえ。あー。私は」



 顔を上げてください。

 言われて、顔を上げる。素早く、したかったが、叶わず。遅く。時間を取って。顔を見る。


 すれば、


 目にすること叶わないと思っていた彼女が、

 己をさらけ出そうとしてくれる彼女がそこにいた。

 伝えたい、叶えてほしい、伝えてほしい、叶えられるか否か。願う彼女が。

 目の当たりにして。感極まる。



 実感する。

 欲は尽きない。



「嫌だったら、絶対に、嫌だと言ってください」

「はい」

「約束ですよ」

「はい」

「背中合わせになって座りたいんです」

「はい」



 心身駆け巡る感情。

 かわいい。うつくしい。褒め称える言葉をすべて並べても足りない。

 愛おしい。



「好きです」

「は、い」

「私は肉体的接触を望みません」

「私も、だと、言いたいんですが。言えると思ったんですが。布を介してはいますが、背中合わせに座りたいとの願望は、肉体的接触と言える、と、思いますが、よろしいのでしょうか?」

「はい」

「あー、じゃあ。明日の、朝に、お願いします」

「はい」

「じゃあ、いただきます」

「はい」



 乾燥していないか、少し気になったが、杞憂だ。艶を保ったままのおはぎは、目を引き付ける。

 葵同様に、厳耕もまた、先程分けたおはぎに竹爪楊枝を使って口に運んだ。

 甘すぎない味付けに、半分ほどが潰れていないもち米粒と、小豆の皮の触感。

 もちもちと、味わって、緑茶に手を伸ばし、一口含んで、美味しいと溢す。

 美味しいですと返した葵に、厳耕は明日これを買った和菓子屋に一緒に行きましょうと誘ったのであった。



(私の願望は、明日の朝、背中合わせに座った時に話そう)










 

 取り除く、など、考えもしなかったけれど。

 せめても、やわらげられたらとは、考えはした。

 浅いままで終わると思った。

 深く、望みはしない。

 深くなればなるほど、与え続けるのだから、


 本来は、

 本当なら、


 躊躇がなかったわけではない。


 けれど、




『俺がおっさんが死んだ後も葵の傍にい続けるから、安心しろ』




 いてもいなくても、死を選ぶ。

 彼女より死を選ぶ。

 けれど。


 けれど、


(せいぜい利用し続けさせてもらう)


 お互い様だろう?

 すきなひとにはしあわせにわらっていてほしいのだから、














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