第42話 古代の芽吹きにかざすは、紫闇のうたかた






 一人分の合間を取って、並べられた布団。


 仄かに光る壁時計が知らせる時刻は、深夜一時を回った辺り。


 静謐な空気がこの部屋を包む中。


 緊張して眠れないとの危惧は無用だったようで。


 おやすみなさい。就寝の挨拶を交わして、同時に布団に入って、そう時間は経たず眠りに就いたようだ。


 今はふと、瞼が開いた。


 眠りに就こうと思えば就けるほどに、微かな隙間だった。


 眠ろうとする身体に、緩く待ったをかけて、頭を動かして、隣人に視線を向ける。


 生きているのか、少しだけ不安になるくらいに微かな吐息が、耳を傾ければ聞き取れる。


 広がる感情に後押しされるように、瞼が緩く持ち上がる。それでも、起きている時の半分ほどの位置に留まる。


 名前を呼んでみたくなった。


 この静寂さを壊さないように微かな声で。


 敬称を付けずに。


 厳かに。

 

 名前を呼びたくなった。返答の声はいらないので、せめて、こちらに顔を向けてほしかった。


 いとおしい。

 あいしている。


 占められているのに、この人より死を選ぶ。




 薄情。冷徹。任務を遂行するだけの機械人間。

 賛辞だった。そうなるように生きてきたのだ。願った通りの評価は有難かった。

 生きてきた甲斐があるものだと、誇らしくもあった。


 過去の自分に悔やみはない。家族と呼べる彼女らにも懺悔の言葉など送りはしない。


 これからも、確実に。

 彼女に好意を抱いてさえ、思考は変わらない。


 世間からすれば、大層悪逆非道な父親なのだろう。

 客観的に評せはすれど、やはり、態度を改めるつもりは毛頭なかった。


 仮に、彼女から家族ともっと打ち解けてほしいと言われたとしても、首を縦に振りはしない。


 ないだろうが。もしそう請われたら、この恋は冷めるのだろうか。


 彼女に愛想をつかすのだろうか。


 ないな。

 断言できる。


 彼女が何を言おうが、冷めはしないと断言できる。


 帯びているのだ。熱が。全身余すところなく、やわらかく、やさしい、熱が。




 ああ。

 名を呼びたい。あと数時間が待ち遠しい。


 緊張して、高揚して、眠れはしないだろう。

 そう危惧したいのに。任務を遂行するだけの機械人間には無用なもの。


 要らぬ感情に翻弄されて、万全の体調で挑めるようにする肉体が、精神がこれほど有難いと思った事はないだろう。



(いや。彼女の前では失態続きか)








 もしも彼女に幻滅されたら、

 その刻はどうなるのだろうか。




 過った疑問は追究叶わず、意識が途切れた。




 

 






 海苔が真ん中に巻かれている小さな俵型の塩おむすびが三つに、豆腐とわかめと人参の味噌汁、薄黄色の甘い沢庵に甘くない卵焼き、地鶏と長ねぎに玉ねぎの焼き鳥が三本、薄く切られた刺身こんにゃくときゅうりの酢味噌和え。


 時刻は午前八時半。

 朝食を言葉交わすことなく食べ終えてから、一息ついて、食器を母屋へと持って行った葵が戻って来てから、はや三十分。

 この場は微妙な空気が漂っていた。



 背中合わせに座る。

 和菓子屋を訪れる。



 交わした約束を何時果たせばいいのか、どちらから先に果たすべきなのか。

 葵はと言えば、考えあぐねていた。


 なんなら、昨夜の己の願望は口にせずに、知らぬ存ぜぬでやり過ごそうか、とさえ考えていた。


 せめても、昨日言った勢いでさっさと実行に移せばよかったのだと、とてつもなく悔いていた。



 永続的に羞恥心の歌が繰り返される中、葵は隣りに座る厳耕へと身体を向けて、下げたい頭を必死に真正面に固定しながら、笑えばいいのか真面目な顔をすればいいのか、咄嗟に浮かんでしまった疑問を後者だと素早く選取して、おもむろに口を開いた。 



 視界の端に映る壁時計が示す時刻は、午後九時半。

 一時間も悩んでいたのかと思うと、羞恥心はさらに増した。



「昨日言ったように、背中合わせに座りたいのですが、今実行しても大丈夫でしょうか?」


 緊張して言う事か。

 内なる自分のツッコミが炸裂した。


「五分ほどでよろしいのです」


 期限を付ける事か。

 内なる自分のツッコミ炸裂。



(………何をしているんだか)



 熱くなる体温とは裏腹に、下降し続ける精神世界。もはや吹雪さえ襲来していた。

 中和してくれればいいのだが、強固な境界線のおかげで、灼熱も冷寒もどちらも味わう羽目になっている。

 気分は地獄であった。



 ほとほと呆れながらも、顔だけは真正面を向け続けている己を密かに褒めた葵。厳耕が何か言うよりも早く、何か付け足すべきかと混乱していたら、口を開く厳耕が瞳に映った。



 知らず、肩が跳ねる。



「五分ですね。分かりました」



 言うや、厳耕は一度立ち上がって、背中を向けて座り直した。

 

 どうぞ。


 促すようなものではなく、こちらのタイミングでどうぞと言われたような気がした葵。躊躇したらどうにも動けなくなると、立ち上がって背中を向けて、腰を落ち着けて膝を立てて座り直して、その態勢のまま、隙間を詰め寄って行った。



 無心であった。



「……では五分でお願いします」



 こんなに苦悩を押さえつけながらする事なのだろうか。

 揺るぎない大きな背中に感銘を受けながら、努めて感情を打ち消そうとした葵。もう、頼む事はないだろうと無表情で決意した。一回で十二分だ。




「………」



(布越しでも、感触が分かるものだな)



 彼女とは裏腹に、自分はさぞや居心地が悪いものだろう。厳耕は自嘲した。


 五分で良かったのかもしれない。長ければ長い分だけ、嫌な思いをさせるだけだ。

 せめても、体重をかけぬべく、垂直を保とう。



(…いや。僅かでも前のめりになった方が、大勢は楽ではないだろうか。しかし、僅かとは言え、いきなり動けば、驚くだろう。宣告した方がいいだろう)



 口を開こうとした厳耕。ふと、意識して時計を見れば、二分が経っていた事に気づき、戦慄した。


 背中合わせの際に、願いを口にしようと決めていたのだ。あと、三分しかなかった。


 あおい。


 敬称なしで呼んで構わないだろうか。



「はい。構いませんよ」


 情けない。厳耕は愕然とした。盛大に身体を揺らしてしまった。口にしたつもりはなかったがそうではなかったらしい。


「あおい、」


 何かに操られるように躊躇なく口にした声音はきっと、とても間抜けなものに違いない。

 当然だ。感情が込められていないのだから。


「はい」


 落ち着かない。史上最高に落ち着かない。身体の動きを止められない。


 背中合わせでよかったと、心底思う一方。


 背中合わせの所為で、動揺が駄々洩れだろうと心底思う。


 名を呼びたいと、切望する。



「前のめりになった方がいいだろうか?」

「いえ。このままでお願いします」

「…居心地は悪くないだろうか?」

「いえ。あの。嬉しいです。ありがとうございます」

「あおい、」

「はい」

「和菓子屋には、昼食が終えてからでいいだろうか?」

「はい」

「五分経ったら、昼食まで、この部屋で過ごしていいだろうか。のんびりと過ごしたい。隣り合ったり、向かい合ったり。何時ものように」

「はい」

「背中合わせは。正直に言えば。極まりが悪いが。落ち着かないが。怖いが。これからも機会を設けてもいいと思う」

「…怖い、ですか?」

「…怖い、な。遠くに感じる。とても」

「………私が置いて行く事はないですから」

「…私は、酷な事を言っている」



「いいえ。違います。厳耕さんは……酷な事をしているのは、私です。死を選ぶって言ってくれているのに。真摯に向かい合ってくれているのに。私は何も言っていない。死なないでって。一緒に生きてって。言っていない」

「私がその願いを叶えないと知っている。言う必要はないです」

「でも、私は。私は……言うべきだと。あなたの手を取っているのなら、言うべきだと。聞こえているのに。言えない。死を選ぶあなただから、私は」

「両極に位置するから選んだ。正反対だから、手を伸ばし、取り合うと決意できた。違いますか?」

「………違い、ません」



「正反対ならば、本当は、認められなくて、いがみ合って、反発し合って、言葉をぶつけて、互いを知って、深く身の内を知って。反発のままに終わるか、惹かれ合っていったはず。ですが、それはきっと僅かにでも重なり合う部分があるから。私たちはきっとそれがない。だから言葉少なくとも。極論を言えば、互いの言葉がなくとも、取り巻く情報だけで惹かれ合った。言葉なくとも、傍にいてくれるだけで満足できていると、私は推測する。ここに来なかった私たちは、ですが」



 厳耕は僅かに口角を上げた。



 そう。今までの自分たちならば、ずっと、それこそ自分が死ぬまで。言葉少なに、心休まる長閑な時間を過ごしていただろう。


 ずっと、ずっと。

 変わらないと思っていた。

 変化を求めようとは思っていなかったのに、一石を投じたのは、自分だった。



「これからの私たちは、もしかしたら口論するかもしれませんよ」

「……きっと、私は勝てないでしょうね」


 解けた緊張に、安堵する。


「ええ。論破してみせます」

「前言撤回します。私だって、負けるつもりはありません」

「言いましたね」

「はい」

「すでに五分以上経ちましたが、体勢は変えますか?維持しますか?」

「変えます」

「…同じ意見ですので、口論はまた次の機会までお預けですね」

「はい」

「…あおい」

「はい」

「長生きします。ギネスブックに載るくらい長く、あなたの傍に居ます」

「………これからもよろしくお願いします」

「はい」


 そろり。葵と厳耕は体勢を変えた。隣り合ったまま、顔だけを向けて、しばし、神妙な顔になった。少しの間、続いた無言を破ったのは、葵だった。


「すごい色ですね」

「ええ」


 互いに見えなくても気づいているだろう。

 顔色がすごい事になっていた。











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