第39話 柚子の香りに微笑む遊子



 『鴻蘆星』『緑の地帯』の間近に建てられた『文化の町』の一角、『仙水門』の中。茶室にて。


 週に一度か二度、葵と厳耕は縁側に並んで座り、厳耕が点てたお茶、そして葵が買って来たお菓子を楽しむのが習慣になっていた。二人共に滅多に言葉は発さないが、本人たちは満足していた。

 本人たちは。




「付き合い始めて今日で一か月だって言うのに。お父様は特別なものを何も用意していないなんて」

「節目を大切にしないだめだめな彼氏だよね」

「会う時にいっつもはりきって美味しいお茶を用意するのはいいけど、それじゃあ、こういう時に困るじゃない。会う時が記念日だと思っているんだろうけど。やだ、お父様。可愛い」

「いやいや。絆されちゃ駄目、麗歌。見たでしょ。お茶屋さんでうろうろうろうろ、お店の妨害をしているんじゃないかってくらいに何百回も回って、結局、代わり映えしないお茶を買って行ったのよ。冒険心がないのよ、冒険心が。あのままじゃ、捨てられるわね。間違いないわ」

「お母様。それは、言い過ぎよ。葵さんはお父様を捨てたりなんかしないわ。ただ、この程度の男かって、それでも冷めた目を隠して変わらずに接してくれるわ」

「そうね。包容力は半端ないし。でも、冒険心は必須」

「毎回同じ場所って言うのが駄目じゃないかしら。偶には違う場所で会えばいいのに」

「頭ガッチガチだから、あの二人。ここがいいって定めたら、他の場所なんて除外よ除外。葵は二股をしている罪悪感から冒険しようにもできない。だからあの朴念仁が動かなきゃいけないっていうのに」

「私たちが招待するって言うのはどうかしら?例えば、温泉とか」

「温泉」

「温泉…一か月では早いかしら?」

「いいえ。そんな事ないわ。どうせお茶しか飲まないだろうけど、景色が違えば、変化も与えられるわ。冒険する気も起きる」

「日帰りがいいかしら?」

「そうね。夕食や朝食が出ても、頑なにお茶しか口にしないだろうから。何もかもがもったいないわ。それに、泊まるなんて草玄が知ったら…プク。もう、面白い事にはなるでしょうけど、止めておきましょう」

「何より一か月だし」

「そう、一か月だし。お泊りは三か月目に」

「それじゃあ、話が決まったところで、ここを用意したから、空。あの二人に招待券を渡してきて」




 毎度の如く姉である麗歌と生物学上母親である更級に巻き込まれた空。嫌だと口にしたくともできなかった。姉の願いだ。叶えてあげたい。

 例えばそれが、世界一叶えたくない願い事だったとしても。



(どんな顔をして渡せばいい?)



 手っ取り早いのが、郵送員の真似をして、当選しましたとか何とか言って、さっさと渡してくる。しかしそれだけでは二人が行くかは不確定。渡して来てと頼まれただけ。確実に行けるようにしてくれとは言われてはいない。しかし、確実に行って欲しいのは明確。どうしようかとつらつら考える中、何故こんなくだらない事に悩まなければならないんだろう。空は切に疑問を抱いた。


 期限は今日。『緑の地帯』内。タクシーを使えば三十分程度で辿り着ける。道筋がややこしい秘湯ではある為、車を使わねば行けないのは難点ではあるが、見事な景色とまったりとした空間、舌鼓を打つ料理が食べられる、それはそれは素晴らしい時を過ごせるらしい。

 完全予約制の宿である。

 実はこの日に向けて、すでに麗歌が取っていたのだ。

 つまりは、先程のやり取りは小芝居であった。

 空に前もって知らせれば、それだけ悩む時間が増えると考え、今日まで引っ張ったというわけである。



「空は麗歌に対してだけは、一生懸命で誠実よね」



 麗歌は苦笑を零した。

 そうさせているのだ、自分は。

 好意だけではない。負い目で以て。

 優しいと空は言うが、とんでもない。

 一番優しいのは空で、そして、誰に対しても誠実なのだ。



「世界一の妹です」

「……そうね」




 いくら思考を巡らせても、最後に何かやらかしそう。

 誤魔化さずに、二人からだと無感情で渡した方がいい。

 そう結論付けた空は、無感情、無表情、ただひたすらに渡す為に歩けとの思考で以て、二人に近づいた。

 葵に会うのは、正直気まずい。

 人を殺せと言って以来だった。

 普通に接せられる自信は、なく。

 それも相まって、余計に無感情を貫く。



「姉と更級さんからお二人に贈り物です。本日限定。日帰り温泉です。足湯に浸かりながらお茶を飲んできてはどうでしょう」



 無機質にそう告げた空。これが精いっぱいだった。

 できる事はやった。あとは、素早く立ち去るのみ。

 ミッションコンプリートの文字を頭の中で占めながら、くるりと背を向けて足を踏み出そうとした。


 その時。

 心遣い感謝するとの言葉が届いた。

 厳耕の言葉だった。


 瞬間、ぞわりと産毛が逆立つ。

 人間らしさを覗かせる、生物学上では父親にあたるその男性の言動に、激しく違和感を覚える。

 姉が喜ぶのは嬉しい。

 葵が喜ぶのも嬉しい。

 けれど、あの男が喜ぶのは、



(ああ、もう)



 くるり。身体を葵たちに向けて一直線。

 スタスタスタ。迷いなく、足取りをしっかりと。

 いつ、いつまでも、囚われているなど、莫迦らしいにも程がある。

 もう、あざ笑ってやるくらいの気概を持てるはずだ。

 なにせ、泣き言を史上最悪の相手に零したくらいだから。



「偶には違う事をして、葵を喜ばせろ。莫迦父」



 その名称を淀みなく言い終わった瞬間、冷涼な風が吹き込んだ気がした。

 気分を下降させるものではない。

 むしろ、気分爽快だった。

 目も合わせられている。

 くだらない。くだらない、くだらない。



「葵。今度はみんなで出掛けよう。莫迦な両親を除いて」

「……うん。行こうか。空の試験が終わったら」

「…旅行を褒美に頑張る」

「うん」



 むむむと口をへの字に曲げる。

 大きくなったと思ったのに、葵を前にするとやっぱり小さく思える。

 ちょっと、かなり、面白くない。

 むむむむ。



「…葵。行って来い。今日」

「………はい」

「じゃあな。もう、タクシーも来たみたいだし。楽しんで来い」

「……空。ありがと」

「……どういたしまして」



 タクシーに乗ってこの場を去る二人を見送った空。

 満足げに頷き、笑った。








「俺、恋の神様になりたい!」



 孔冥に天界に連れて来てもらった草玄。神様の選択権を持つ選択神様に喜色満面にそう宣言したのであった。















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