第36話 空に撒き、土に塗る血潮。いづるもいづらざるも背中の後。
「何故拒むのですか?私はあなたが最初は拒みこそすれ、そろそろ渡すのかと思っていましたが」
葵の記憶を消す事に躍起になっていたからこそ、それが叶わなくなる行為、つまりは己の命の一部を葵に手渡さないのは明白。
だと、葵には告げた。事実だとも思っている。
しかしそれ以上に、
橙色に染まる空の中。共に浮いた状態。孔冥は立ったままソルティアの視線に合わせた。ソルティアは視線をずらし、座った姿勢のまま畳んでいる羽を手でついばむように触れた。
「私も思ってたわよ。けど、実際。あんなに真っ直ぐ見られながら頼まれたらさ。異様にむかっ腹が立って」
艶々としていて手触り最高な自慢の羽。
今は漆黒の色だけれど、生まれた時は違う、らしい。
普段は何も感じないのに、葵を見ていると、時々、何色だったのかと、疑問が浮かぶ事がある。
現在を司るという過去。けれど、思い起こすのは無意味だろう。
「揺れている葵が好きだったのかしら?」
「つかの間ですよ」
ソルティアは、ついと、孔冥を流し目で捉えた。
「……あら、揺れていないですよって言うのかと思った」
「まさか。葵は揺れまくりですよ。傍迷惑にも見ている此方の目を疲れさせるくらいに」
ソルティアは唇同士を深く合わせた後、華麗に漆黒の翼をはためかせ、孔冥へと急接近し、色艶のある微笑を向けた。
「もう少しだけ焦らして、一生懸命追っかけて来る葵を堪能させてもらうわ」
「……お好きにどうぞ」
最後の悪あがき。
孔冥は夕焼けに射す一点の黒を見続けながら、喉を震わせた。手は口元に。小さく呟いた。
「分かりますよ。素直に渡したくない相手ですからね」
「葵。本当にいいのか?」
「…うん」
――『鴻蘆星』『緑の地帯』の間近に建てられた『文化の町』の一角、『仙水門』付近。
厳耕に会いに来た葵を呼び止めたのは、常になく不機嫌そうな表情の空だった。
「孔冥から聴いた。不老不死になるって」
「うん」
「怖いだろう」
疑問ではなく断定。
空の中に居続けた名残、だろうか。
(本当に真っ直ぐに言葉を届けてくれる)
怠け者で、何時だって、誠実。だからこそ、好ましくて、眩しくて。
自然と柔らかい微笑が生まれる。
「私の所為か。私が生きているから。私が生きる為に」
「…ちょっと正解で、だいぶ違う」
比べて自分は。なんて、不誠実で、醜いのだろう。
生きたいと。己が為の望みを大義名分に掲げて、何度。いや。数えきれないほどの罪を犯し続けた。
苦しんでいる。悲しんでいる。謝罪している。
こんな気持ちがどうなると言うのか。
後悔しているの一言がなければ。無意味にも程がある。
「神様にも聞いたと思うけど。もう、私たちは別個の人間だから、空が死ぬ事はないの」
「知っている。仮定の話だ」
「…うん。もし、どちらかが死ななければいけないと、言われていたら」
目を伏せたい。思って、嫌になる。
「私は空を殺していた」
空が死ぬのは嫌だと。どれだけ思っても口にしても。
死にたくないから。
結論が変わる事はない。
けれど。生きる条件は、生きているだけでは、足りない。足りなかった。
「…人から外れるのは怖い。怖くて、輪廻転生を繰り返して、人を殺し続けた」
意識的に呼吸を行う。
今はまだ、ずらしていない。
動きたくない。動かしたくない。
「殺したと思っていた。でも、本当に殺したと、実感したのは、自分で、この手で、人を実際に殺した時で」
前世の草玄と出会った時代。あの刻になって。あの刻になって漸く、
耐えられなくなって。でも、身体の血は遺さなければいけなくて。
生まれた赤ちゃんを抱くのが怖くて。
なのに、
「やり直したいとは、思わない」
葵を、強いと評するのは、間違っているのだろうか。
瞬き以外、交わし続ける視線。
緊張よりも、一歩進んで、穏やかな空気が流れているおかしな空間。
出来損ないで良かったと思う。
世間と自分との狭間で迷う事はない。本心からの想いを伝えられる。
「私は葵には何をしても生き続けてほしい」
空は目元の力を解いた。
これで恐らく、何時もの怠け者の自分になったはず。
「葵は悪だと思う。でも、今は、私には、善も悪も常識も道理もどうでもいい。生きる事が好きだと、笑う葵に、何時までも生きていてほしい。だから、」
間違っている。
その一言が掠っても、それだけ。残る事はない。
「不老不死になって葵が死ぬのは嫌だ」
人を殺し続けろと、言い切る。
空と。名を呼ぶ声に、生きて来た年月を想わせる。
姿かたちは丸きり同じなはずなのに。
空はほんの少しだけ、委縮してしまった。
もし。もしも。死んでもいいと、
葵が口にしたのなら、
(これは、かなり、堪えるかも)
不安そうに見つめる空に、葵はこの上もなく実感し。
加えて、危惧も覚える。
欲深さの正当性。
間違ったカリスマ性。
強い信念、一途の上には何もしても許されると思われる事。
(私は、本当に、)
思っている以上に、遥かに異常な存在。
闇の深さに、愚かにも慄く。
「空。私は間違っている。今回の決断も、きっと、間違っている」
「知っている。構わない」
厳かな声音も、つかの間の時間。
葵は小さく頷き、明確に答えた。
不老不死になっても生きると。
「葵」
「うん」
「葵みたいな人は現れない。葵だけだ」
「…うん」
「私たちの前からいなくなるな。知っているから」
「……空」
「葵を見ても能天気な莫迦にしかならないから」
「…それは、喜ばしい」
「…ひどい事を言って悪かった。でも、訂正はしない。私は葵に生きてほしい。枷になったら申し訳ないと思うが」
「空」
「…うん」
「空は死ぬ?」
「ああ。結構、お腹いっぱいだ」
「…まだ、まだまだまだ、いかないで」
自分にこの言葉を告げるのは、勇気が要っただろうな。
空は思い、立場が逆転してしまった葵の頭に手を置いた。
髪の毛と皮膚と頭蓋骨。細やかさと柔らかさと硬さ。冷たさと温かさと熱さ。
おいていきたくないな。
衝動的に過ったこれは。いや。これも、きっと残らない。
「それは閻魔帳次第だ」
「……空」
言葉を失くして、次いで、苦笑する葵の髪の毛をくしゃりと撫でては放し、空は葵の目的地へと視線を向けた。
「あの人に別れを告げに行くんだろう。いい気味だ」
姉上を家族として顧みなかった報いだ。と、空は思った。
それに、どうせ辛い目に遭っても、あれだ。変わらないだろう。少しは、へこむかもしれない。だから迷惑にも姉上は心配して。必ずあの人も現れて。
(巻き込まれる)
戸籍上母親。実質母親。実体は草玄の兄。だった前世を持つあの人に、何かしらやらされる。
どれだけ無視をしても追いかけて来る。
全くへこまない。むしろ喜々としてさえいる。
こっちを何とも。否。面白がっている証拠だ。
なんて、父母だ。姉上が気の毒過ぎるが、不思議にも更級さんとはうまくいっているようだ。
姉上の懐の深さには頭が下がる。
「葵。更級さんはどうにかならないのか?」
「うん。ごめん。あの人に敵うのは多分、神様くらいだと思うよ」
「そうだろうな」
空はげんなりとした。葵は苦笑を零し、目を伏せて、微笑を向けた。
かなわないものだ。空は笑いたくなった。本当に、コロコロと表情が変わる。
「空。ありがとう。ごめんなさい」
空は受け止め、間を置いて、不敵に笑った。
「必ず、私の有り得ない姿を見せるから」
目を点にした葵は、吹き出し、楽しみにしていると答えて、厳耕の元へと向かった。
生きて、生きて、生きて。
笑って。
世界に希望を抱かせてくれる人よ。
「どうか、」
奇跡に希う。
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