第37話 どくはく
狭めては、見つけようとはしなかった。
これしかないと、
人を殺し続ける事でしか、人でいられないのだと。
一度も考えた事はなかったのか。
(違う、)
他人の命に縋らなければ生きていけなかった。
だからこそ、後悔はない。
ならば、何故。今更。違う道を進もうとする。
(違う、)
道は違えていない。
他人の命を喰らう。
変わらないまま。
唯一、違えているとしたらそれは、
(ここまでして私は、)
殺して。漸く。本当に。
キモチワルイと。
この身を引き剝がしたくなった。
そうした所で、なにものにも変えられないと言うのに。
明確な着地点があれば、こうして生き永らえる事はなかったのだろうか。
生きたい。
あまりにも不明確過ぎる。
もう、食べたくはない。
食べなければ生きてはいけない。
循環を続ける。
食べて。食べられて。地に埋もれ。水に流れ。回り続ける。
幾億もの命が今も尚、立つ場所に眠っている。
閉じ込められている。
この広大な世界が、初めて狭く感じた。
息苦しいと、逃げたくなった。
「好きだと仰ってくれた事、本当に嬉しかったです」
『仙水門』の中。茶室にて。
縁台で正座になっていた厳耕を、葵は外からその部屋へ入ってほしいと告げ。今二人は、向かい合って座る。
真っ直ぐに見つめ合い。葵は深く頭を下げた。数秒のつもりが、恐らくは数十秒。頭を上げたくない。思いながらも、また、向かい合う。
真っ直ぐに。
見ていると、浮ついた心を、そっと地に立たせて落ち着かせてくれる。
この心地に、重い溜息をつきたくなる。
草玄以上にあり得ない人だった。
全く以て有り得ない状況だった。
「お茶一杯分の恋人でお願いします」
自分がこんなセリフを発言する日が来るとは。葵にはとても想像だにできなかった。
(沈黙が、)
視線は交じり合ったまま、外れない。ともすれば、どちらとも石になってしまったが如く微動だにしていない。しかし、瞬きもしていないので、時間にしてみれば一分にも満たなかっただろう。
(やっぱり、呆れる、よね)
大体、お茶一杯分の恋人って何だ?もうお茶友達でいいじゃん。恋人にはなれませんって、きっちり線引きして。それでも良ければって。
草玄を手放せない以上、そうするはずだったのに、
それが誠意ってもんじゃないでしょうか?
葵の眉間に僅か、皺ができた。僅か、口を閉じる力を籠め。そうして、僅か、顔を強張らせた。
(一人だけだと、ずっと、思い描いて来たのに……不倫する人サイテーって言葉がそっくりそのまま返って来た)
サイテーの言葉が木魂する。
全速力で逃げ出して独りになれる場所で暫く引き籠りたい。葵の心はその通りに行動していたが、身体は漬物石みたいに動かないまま。そんな彼女を動かしたのは、
「場所は何処でも宜しいのでしょうか?」
取り零さないように、瞬き一つを慎重に。
通常よりもかなり手間を取って、言葉の意味を正確に把握した瞬間、湧き上がる感情を力任せに抑え込んだ。
「いいのですか?」
質問には答えられない。まだ。確認をしたかった。こちらこそ。
「…正直、あなたが私を恋人として受け入れるとは思いもよりませんでした」
見の内に占めるこの苦しさは歓喜なのか。厳耕には分からなかった。
離れようとする葵をどうやって引き留めるかだけを考えていただけに、この状況に全くついて行けない。頭が考えるよりも、口が勝手に動くという経験を初めてしたのだ。
(恋人……私が)
ただ一時の忘却を。静寂を。安らぎを。癒しを。
彼女が望む日常を。と。
与えられるのであれば、そうしたかった。どうしても。
だが、この感情が恋人になってほしいと哀願するものであれ、それを望むつもりはなかった。
何でも良かったのだ。友情だろうが愛情だろうが。
本当に、真実、そう思っていた、の、に。
厳耕は無意識に口元を手で押さえた。一時そうして。外す。混乱している彼に、この行動の意味を知る術は今はなかった。もしかしたら、一生分からないままかもしれない。
「こちらこそ尋ねたい。本当に宜しいのですか?」
「……よろしくお願いします」
混乱が丸見えの厳耕に、葵は間を置き、引き締めて、断言した。
本来ならば、双方共に、次の言葉が見つけられず、かと言って動く事もできずに、むず痒い無言だけが占める時間が続くはずだったのだが、それは早々に打ち破られた。
もう一人の葵の恋人によって。
「初々しい恋人の誕生だな」
「……草玄」
拍手を送りそうなほどに意気揚々とした声音でそう告げるや、草玄は葵の隣に腰を下ろして胡坐をかいて、横顔を見せる葵の名を呼んだ。葵は厳耕に小さくお辞儀をして、重たい身体を動かし、草玄に向かい合った。
草玄は懐から一枚の手紙を出した。
「この手紙に書かれている事は本当か?」
先程の陽気さは鳴りを潜め、硬さを帯びた声音。
葵は肯定した。
「なるほど……でも、俺とは別れない?」
「うん」
「で、そこのおっさんとも付き合う?」
「うん」
「ふぅん」
「………二人とも、手放したくないです」
こんな事を言いたくない。羞恥心とか道徳心とか。片隅でまだ往生際悪く抗う心がまだありながらも、この言葉を言えたのは、ただ、ほんの少し、危うい天秤が片方に傾いているだけ。
意気揚々と、こんな私が嫌ならそう言ってくださいと茶化す。それさえも今はできない。
手放したくない。
(それでも、)
背を向けるのなら、追わない。それだけは、はっきりしている。
何時でも。
「心は許しても身体は許さない」
「……」
「おっさんには指一本触れさせるなよ」
真面目な顔ながらも陽気さを伴った声音に変わり、僅かに楽になったのも束の間。返答に窮する草玄の発言に応えられずにいた葵に代わってか。厳耕が口を開いた。
「葵殿の身体には興味はない。だからこそ、触るつもりは毛頭ない。断言しておこう」
「………」
「あーそう。そうですか。へー。ご立派。葵の心に惚れたとか言うんですか。へー」
「変な茶々を入れるな」
「言っとくけどな。めっちゃ言いたかないけど、言っとくけどな」
何を言えばいいか分からず、口を中途半端に開いたままの葵をよそに、草玄は厳耕にずずいっと近づき宣言するや、一旦口を閉ざして、苦々し気に口を開いた。
「一番目の恋人の俺より、二番目のおっさんの方が、葵の理想の恋人、だ」
「…だろうな」
横目ながらも二人の視線が一斉に集まり、背を向けたくなるも叶わず。葵はさらに重くなった身体をやっとの思いで動かし、二人に向かい合った。しかし、肯定はできなかった。二人も葵に返答は求めなかった。
「おっさんに先に会っていたら、俺を恋人にはしなかった」
「そうだな」
「んで、おっさんが死んだ後も、ぜってー、葵は恋人を作らない」
「…ああ」
「……俺が、」
地団太を踏む。内では思いきり。外には出さない。
葵にとって、運命の人がいるのなら、確実に目の前の相手だった。
何の因果か。割り込んだのは自分。葵の理想を壊したのは、自分だった。
【国に必要な姫を演じていた】
葵からもらった手紙の一部。俺と結婚したのも、その為。恋愛感情よりも、優先させたのは、あの時命を奪っていた姫の国。
何処かで分かってはいたが、ひどいと詰り、憤った。葵がいない場所で。
もし葵が姫の立場にいなければ、恐らく、高確率で、俺とは一緒にはならなかった。限樹を産む事さえなかっただろう。
【演じたくはないから、手紙にしました。一緒にいてください】
俺がいなければ、余計な辛苦を味わせる事もなかっただろうに。
憤り。嘆き。全部が嘘ではないと叱咤し。手を伸ばす。
手放したくないのは、こっちも同じ。
身を引くべきかもしれなくとも、できない。
みっともなく縋る。
「俺が先に出会った事で、おっさんも半分になった。葵にとって、俺もおっさんも必要なんだよ!」
語気が強まったのは、言い聞かせたかったのか。言い包めたかったのか。
心中を占めるのは、情けないの一言。
出会うべきではなかった。出会ってしまった。
一緒になりたかった。
ずっと一緒にいたい。
(葵は言いたくなかったから、手紙にしたんだろう)
間違ったと。
俺と一緒になったこと以上に、限樹を産んだ事がより一層に葵を苦しめたはずだ。
そうしなければという義務感と、演じていると後ろめたさを持つ心。その齟齬が葵を遠ざけた。
(莫迦だなあ、本当に)
そうなりたかっただけ。そうしたかっただけ。義務感だけではない。演じていたとしても、心は本物だっただろうに。後ろめたさなど、感じる必要は微塵もなかったのだ。
前世に思いを馳せながらも手紙を読み終えた後、葵が手を伸ばす理由は前世で手を掴んだ申し訳なさなんだろうと、落ち込んだ。流石に考えずにはいられなかったのだ。
何故、と。
でも、今はまあ、どうでもよくなった。考えるだけ考え、悩むだけ悩んだ結果だ。行きつくとこまで行くと、思考が破綻して、どうでもよくなる。
俺も葵も一緒にいたいのだ。
葵が今も尚、俺を必要とするのが申し訳なさなのだとしても、そこに付け込む。
余計なおっさんがついてくるのも、まあ、受け入れよう。半分こなんだし。
(だからと言って。葵の身体に触れるのは許さないけどな)
その心配は無用だろうが。牽制せずにはいられない。
(俺は、心だけ欲しい、なんて言えない)
触らずにはいられない。色欲が悪いとは思わない。
それでも、引け目を感じるのは、余りにも違うからだろう。
葵の理想なだけに余計に、
(けど、このおっさんが、)
必ず訪れる未来を想像し、草玄は眉を顰める。
触れられないだろう、恐らく、百年くらいは。
気に食わないのだ、本当に。必要としている事に、
互いに補う存在なのだと、認識しているから。
草玄は厳耕を睨み付けた。厳耕は真っ向から受け止めた。
一生一緒にいるつもりもない目の前の相手を、その事で詰る事はない。
手を取ったくせに死ぬつもりかと。葵に死を見せて、悲しませて、苦しめるつもりなのかと。
どれだけ思っても、決して言わない。
「茶の席に、俺は行かない……」
葵を頼むと言いたかったと思う。でも続かなかった。続けられなかった。
もう告げる事はないと、草玄は厳耕から葵へと顔を向けた。
自分だけでは足りない。これから一生情けないと思い続けるだろう劣等感ゆえのその心は、マイナスだけではない。
「葵。俺たちに関してはもう責めるな。今日、この場で終わりにしろ。な?」
切願は届くも、きっと責めるのは止めないだろう。根底にある風習がきっと邪魔をする。
(ま。責める間もなく引っ掻き回すか)
小さく頷く葵を前に、草玄は口の端を高く上げた。
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