第33話 舞走と明装と迷走のバレンタインデー 

 バレンタインデーの葵と草玄の過ごし方二パターン。




◆厳耕が葵に告白する前



「葵。あーん」

「………」

「…しょっぱい。塩入れたなこいつぅ」

「………」


 いちゃいちゃ空気を何とかしようと手渡したチョコに塩や唐辛子や山葵を入れるも効果なし。幸福感を後生大事に抱え込み駆けまくっている草玄から逃げる事を許されず、恥を感じつつ乙女思考に傾倒中。




◆玄耕が葵に告白し、葵が玄耕の気持ちを受け入れた場合



 満面の笑顔で手渡されたのは、赤いリボンを蝶々結びでラッピングされた重みのある透明な袋。

 開けなくても分かるその中身は、手作りだろうと思われるまんまるのトリュフが五つ。

 本日二月十四日。バレンタインデー。

 男女が愛を誓い合う日。


(好きだと告白はされなかったけど、もうそれはお互い分かり切っている事だからだよな)


 以前言われた詩、何度だって言って欲しいけど。

 恥ずかしがり屋さんだから仕方ないんだよ。

 でもほらこうやって行事にかこつけて、言葉の代わりに物を贈ってくれたし。

 ああ、身体が軽い。綿の翼が全身に生えたよう。

 うふふふ、あははは。

 

 浮ついた心を全面に放出させた草玄。見えなくなってから食べてね、との葵の伝言を素直に受け入れて、愛の結晶を溶かさないようにしながらも、大事に、大事に抱え込んだ。


 目に見える、愛の結晶。

 見えなくなるのは惜しいけど、食べないわけには、ね。

 ほらきっと感想を求めてくるだろうし。

 美味しいのには違いないけど、もっと甘めがいいとか甘さを控えたほうがいいとか、自分の好みを伝えたほうがいいだろうし、さ。

 ぴったりだったらどうしようか。

 もう最高ジャン。

 ぴったりじゃなくても、来年の事を考えれば。

 やっぱり最高としか言えないジャン。


 さて、と。姿が見えなくなったし食べようか。

 

 片手を台にして、赤いリボンの片方を掴んで引っ張って解く。

 袋が開いて濃厚なトリュフの匂いが漂って来る。

 リボンを付けたままの入り口をもう少し大きく開いて、トリュフを一つ摘まみ、サラサラのココアパウダーとヒンヤリとしたトリュフ本体の感触を指で得ながら、口の中へと運ぶ。

 ほろ苦いココアパウダーが口に広がったのが合図のように。


 マグマが発生した。


 地面を転げ回りたい、のを必死に抑えるが、耐え切れず両膝は地面に落ちる。

 熱い。痛い。熱い。痛い。熱い。痛い。

 呑み込んでもいないのに、その痛覚が迫ってきたような喉元を片手で強く押さえる。これ以上体内に取り入れない為に。自己防衛反応だ。


 草玄の瞳からはボロボロと大粒の涙が溢れて零れ落ち続けた。

 吐き出して牛乳を摂取すればこの悶絶するような痛みからは少しでも解放されるだろう。

 しかし、その選択肢はない。


 愛ゆえだ。

 草玄は思った。

 これは葵がきっと自分を試しているんだと。

 これを吐き出したが最後、三下り半を突き付けられるのだと。


 草玄の愛を試す、などと、葵は全くしそうにないが、今日と言う日が彼女を狂わせてしまったんだと信じたい。

 だってそれ以外にこんな酷い仕打ちをするだろうか。

 まさか、実は好きではなくて、それを言えなくて、こうして実行に移したとでも?

 いやいや。食べるの大好きな葵が食べ物を吐き出させるような事をするか。

 そうまでしても、嫌いだという事を知らせたかった?


 血反吐が出そうだ。でも出さない。

 口の中が膨張して意識が霞んでいく中、これを渡した時の満面の葵の笑顔が浮かんで消えた瞬間、草玄は立ち上がって天を仰ぎ、口の中のものを溢さないように注意しながらもなるべく大きく口を開き、袋を逆さにして、残りの四個を血が混じる唾液とマグマと化した溶けたトリュフを潤滑剤にして胃袋へと一気に運び入れた。


 グワリと、草玄の瞼が限界値ギリギリまで持ち上げられる。

 マグマの剣が草玄の脳天から足の爪先まで全身を貫いた瞬間であった。

 戻らない草玄を心配した葵が来るまで、草玄の身体は崩れ落ちることなく、天を仰いだまま微動だにしていなかった。











「ごめんなさい。昔、バレンタインに友達と唐辛子とかわさび入りのチョコを交換した時の事を思い出して。まさか、こんな事になるなんて」


 葵と向かい合って椅子に座り、唇がたらこ状態になっている草玄はちょっぴし悲しくなった。

 イタズラされた事自体にではない。可愛いジャン。イタズラなんて。

 だから悲しいのは。

 自分にだけ渡したのではなかった事。

 イタズラを成功させて笑いに来た葵との、めくるめくイチャイチャ時間に突入させられなかった事。

 揺らぐ自分にも。



 草玄は葵を見つめた。

 頬がぷっくり、桃ほどに膨らんでいる葵を。

 皆に手渡し終えてから自分でも食べてそうなったらしい。



「???あれ、葵」



 つい先程、ぷっくら可愛らしく膨らんでいた頬が萎んでいる。と言うよりも、皺とかないし、通常の頬に戻ったわけだけど。疑問符で頭がいっぱいの草玄の視線は葵の両手の上。何時の間にやら出現した美味しそうな桃二つ。

 ふと、唇の重みが無くなった事に気付いた。次いで、膝の上に明太子が二つ落ちている事にも。ご丁寧にそれぞれサランラップで包まれている。



「???」



 唇を触ると、何時もの自分の唇の厚みが感じられる。


 落ちた?膨らんでいた唇が?


 膝の上の明太子を掴んだ。柔らかくて僅かに弾力がある。サランラップを開いて鼻に近づけ匂いを確認。うん。明太子。

 何時の間にやら自分の身体は食べ物を製造する機能が追加されたらしい。おお便利。

 しかしその代価があのマグマならば、こんな機能は要らないような。


 不意に、仄かな桃の匂いが鼻腔を擽り、唇に瑞々しい丸くて少し硬い物体の感触に気付く。葵が皮を剝いた桃を押し付けているようだ。

 視線を上げると、今迄に見た事がない葵の輝く笑顔が映る。


 葵は見つめているだけで何も言わない。食べてという事だろうか。

 口をほんの少し開いて、桃を齧る。舌で潰すと濃厚な桃の匂いが口の中に広がる。桃だ。もぎ立ての美味しい桃。

 この時間をほんの少しでも長引させたくて、口を開く大きさは指が一本入る程度にした。


 草玄は確信していた。これは夢だと。葵が恥じらいもなく、こんなにキラキラとした笑顔で、あーんをしてくれるわけがない。

 けれど今は虚しさよりもむず痒さが勝っている草玄。チョコを貰った時のように身体をふわふわさせたまま、それはもう時間を掛けて、桃を二つ食べ切った。

 とても満足。視覚と味覚は特にもう。


 次は自分の明太子を食べさせたらいいんだろうか。

 しかし明太子単体ってどうなんだろう。白いご飯はないんだろうか。夢なら出現させる事も可能じゃないのか。

 思い描いても、ほっかほかの白飯は出現せず。


 心なしか葵が待っているような気がするので、きょろきょろ目を泳がせつつ、今の今迄掴んでいた明太子一つを葵の口元に運び、口笛を吹くみたいに唇を尖らせて、小声であーんと呟く。熱い。これはハズイ。前世ならもっと品やかに、シャララらーんとか背景に効果音を鳴らせながら、平気でやってそうなものだが。美化しているのかな。美化し過ぎているのかな。

 ちょもちょもと近づけ漸く、葵の唇に明太子が当たる。一秒か二秒か。唇が動いて、もにょもにょ食べ始める。可愛い。悶える。

 むず痒さが倍増。細胞が子虫のようにもぞもぞもぞもぞ動いているみたいだ。


 ただ一点残念なのは、葵に食べさせているのが、明太子だという事。

 明太子が悪いわけでは決してないが、あーんの対象としてはこれは如何に。

 葵の大好物ならまだしもそうではないし。

 せめて明太子入りおにぎり、もしくは明太子入り玉子焼きなら良かったのに。



(単体だけでは望まれない、か)



 葵に二つ目の明太子をあげながら、片手を葵の頬に添えると、葵の目が細まった。

 流石夢。現実ではまだまだ、まーだまだ拝めない表情だ。

 ふっと、哀愁が凝縮された溜息が出る。

 何やら切なくなってきて、早く起きたいと思った。幸福だけど、物足りない。

 ぴゅーぴゅー、隙間風が聞こえると思ったら、胸に穴が開いていた。拳程度。広がるんだろうか。

 


「俺だけじゃダメだってあんな親父を好きになる事ないだろうが」



 ポロっと零れてきた言葉。こんな恨み言があったのか。

 聞こえただろうに、葵は何も言わない。

 伝わるのは、サランラップ越しに葵の唇の感触と温度。

 笑顔が消え、目は伏せられる。

 夢と現実の混合。



 逃げないで欲しいと。強烈に願った。

 小出しにしていいから。

 その時が来るまでに手を取ってと。








 パチリ。目を覚ました草玄の視線の先には、日めくりカレンダー。二月十四日の文字。

 きっと、バレンタインデー期間限定の食べ物巡りにでも付き合わされるのだろう。

 どこもかしこも、爛漫に輝かせて走り回るのだろう。

 本来ならば。




「あーん」

「………」

「あーん」

「………」

「口移しをご希望か?」

「そのままごっくんしてください」

「つーか、口移しか」

「うん。あの。いや。どうやって明太子を唇に貼りつけているのか気になるね」

「米粒」

「………」

「潰れているから美味しくないぞ」

「………」

「………」

「………」

「………」

「二股する人間でごめんなさい!!」

「なんて女だ別れてやる!!なんて言うなんて思ってないだろう」

「…思ってない」

「動転して捨てられると思った時もあったが」

「………」

「捨ててくださいとも言うかとも思ったが」

「………」

「一瞬な」

「………」

「チョコくれないのか?」

「…ごめんなさい」

「期間限定食べ物巡りもしないのか?」

「……うん」

「………二股を許す男なんて、そうそういないぞ。感謝しろ」

「……はい」

「…そんな顔すんなよ……自分に恋する人が二人もいてラッキーだアッハッハって。能天気に笑ってればいいだろ。んで、そんな奇特な人。これから現れる事ないだろうから、好きになっても仕方がないって、捕まえとけばいいだろ」



(……何を言っても無駄、か。まぁ、腸煮えくり返るけど。俺が、未熟な部分をあいつが補ってるだけなわけで。その部分が埋まれば、あいつなんてポイだし。それに、あいつがいてくれたおかげで、葵の弱みにも付け込めるかもしれないしな)



 本日。二月十四日。バレンタインデー。愛を誓い合う日。

 であるのに、彼女からは二股を告白される。

 しかも、情けない話だが、相手の方が彼女にとっての理想の彼氏だろう。

 ならば、こちらが取るべき態度とは?

 彼女の気持ちを軽くするべく、こちらから別れを持ち出す?

 それが正解だと言うやつの方が多いと思う。

 二股を寛容するよりもよっぽど彼女を想っていると。



 そうだろうな。そうだろうね。

 何が正解なのかさっぱり分からない。

 いやいや。分かってるよ。別れた方がいいって。

 でも、それは、葵を一人にする事を意味していて。

 あいつが。あいつなら。手にしてくれたなら。

 自分が別れたくない言い訳だって?

 無論否定はしない!!



(それでも葵が手放さないなら)



 どれだけ悩んだって、結局自分は葵一直線であり、自分の運命は葵が握っているという事だけは確かなのだ。

 ただ、もしかしたらもう。



(ま。そんな人生もありだろう)



 愛を囁く。心の中だけで。

 言葉にして届けても、今は傷つけるだけ。

 莫迦でひどい女。

 けれど、物質的には逃げないで、こうして傍にいてくれるから。

 傍にいる事で、伝え続けていてくれるから。



「莫迦葵」

「……うん」


 それに、自分は大きな間違いをしているのかもしれないから。

 もう少しだけ。このままでいいだろうと思う。











(2017.2.9)



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