かんわ

第32話 海と雲:過去結婚篇

「おい。くっつくなって」

「やだ」

「歩きにくいんだよ」

「や~だ」

「……羨ましい」




―――『珂国』首都、達甲にて。


 道を歩きながら腕に両腕を絡める女性とそれを嫌がる(照れ隠しかどうかは不明)男性の後方を歩いて彼らを見ていた草玄はぽつりとそう呟いた。



(俺も)



 以下は草玄の妄想である。


「くっつくなって」

「ごめん」


 両腕を腕に絡めたら邪険にされた葵はバッと素早く腕を離し、沈んだ表情を見せた。


「その。久しぶりに会えたから、嬉しくて。つい。鬱陶しいよね」


 ハハッと空元気を見せた葵に向かい合うも一時無言の草玄であったが。


「嘘だって」


 ニッと笑い、ぐっと葵の肩を掴んで引き寄せ抱きしめた。


「草、玄?」

「照れ隠し。本当はすげー嬉しかった」

「じゃ、あ。これからも、腕組んで、いい?」


 仰ぎ見る不安げな葵の頬に手を寄せ顔を近づける。


「ああ」

「草玄。大好き」


 そっと目を瞑る葵の唇にそっと唇を重ね合わせて後、耳元で囁いた。


「俺も」



(……空しい)



 空想から目が覚めた草玄はトボトボと家路を辿った。


 時期は一月二十日。葵と草玄の挙式があってから十日が過ぎようとしていた午後の出来事である。

 挙式は両国で行われた。初めは和国で、次に珂国。新居はそれぞれ城近くの公用地に設けられたが、葵は和国の王で草玄は珂国の宰相。それぞれがそれぞれの国で仕事をしている為に新婚ほやほやにも拘らずにすでにほぼ別居状態。不定期の休暇に葵が草玄の元へ、草玄が葵の元へ通う。と言った具合で、今の所、まともに一緒に過ごせたのは約一日。かと言って一日丸ごとずっと一緒だったわけではなく、これは一日の間に過ごせた五時間、七時間など短い時間をかき集めた結果である。ちなみに。最高は七時間であった。



 その後、家に着いた草玄は本来なら廊下の奥から走って来て出迎えてくれるだろう人を思い描きながら、ただいまと呟いて力ない足取りで寝室へと向かい、寝台の上に仰向けになった。

 夫婦となって十日。新婚ほやほや。なのに、甘い生活皆無の別居状態。会える日も邪魔(仕事)が入りゆったりと過ごせる時間がない。今日も本当なら一緒に過ごせているはずだったのだが。



「莫迦兄貴め~」



 低い声音を発した草玄の額には、妻を連れ去った和国の王で自身の腹違いの兄でもある更級王への怒りで血管が浮き出ていた。



 



「今頃草玄は怒り狂っているだろうな」

「は、はは」




―――同国のメイド喫茶にて。


 葵は白くて丸いテーブルを挟んで向い合せに座る義理の兄である更級王に曖昧な笑みを向けながら、テーブルの上に乗せてあるグラスを持ち水を口に含んだ。

 今日、休みを貰えた葵は珂国を訪れたのだが、渡船場で待っていたのは夫である草玄ではなく義理兄の更級王で。大事な要件があるから付き合ってくれと言われ、今。こうしてメイド喫茶で向かい合っているのであった。



「あの。更級「お兄ちゃん、だろう?」

「お兄、ちゃん」


 一瞬、葵はぐっと言葉を詰まらせたがしどろもどろも告げると、更級王のニコニコ笑みは喜色満面のニッコニコ笑みへと変化した。


「やっぱり義理妹がいるのは素晴らしいな」

「でも、腹違いの妹さんがいますよね」

紫碁しきは父親似の無愛想で懐かないまま結局未玖王に嫁いでしまったし。お兄ちゃん、なんて夢のまた夢でね。このまま夢で終わるのかと思ったんだが、こうして叶った。ありがとう。葵」

「あ、いえ」


 変わった人だ。葵は更級王に対してそんな感想を抱いていた。雲のように掴みどころがない人だとも。

 葵はグラスをテーブルの上に置いて本題を切り出した。


「あの、大事な話と言うのは?」

「うん。実は」

「ご主人様。オムライスをお持ちしました。一生懸命作ったのですよ」


 テーブルにケチャップの名前付きオムライスを乗せた二つ結びの髪の従業員の十代の少女に大きな瞳を近づけられた更級王は、彼女の頭を優しく撫でた。


「ありがとう。とても美味しそうだ」


 えへっと照れくさそうに笑った少女はスプーンを持ってオムライスを掬い、更級王の口元に近づけると開いた口にそっと運んだ。


「どう、ですか?」

「ああ。見た目通りに美味しいな」

「わぁ。嬉しいです」


 手を合わせて喜色満面の笑みを浮かべた少女は御用があったらお呼びくださいと言い、手を振りながらこの場を去って行った。


「と言うのを葵にもやって欲しいのだが」

「無理です」


 更級王と同じようにオムライスを一口食べさせてもらった葵は、ごくりと呑み込むと同時に即断した。


「誤解があるようだね。メイドをやって欲しいと言っているわけではないんだ」


 じーっと見つめる葵に、更級王は朗らかな笑みを浮かべた。


「それは、どういう意味ですか?」

「草玄に甘えて欲しいんだ」


 葵は点にした眼をぱちくりと瞬かせた。


「あの、それは」

「ここは客が多いな」

「そう、ですね」


 疑問には応えはくれなかったが、更級王の言うように。辺りを見渡せば席がほぼ男性客で埋まっている状況。中には女性もいる。需要が高いようだ。


「何故だと思う?」

「メイドさん目当てでは」

「そうだ。だがただのメイドではない。甘えてくるメイド目当てで彼らはここに足を運んでいるのだろう」

「甘える、ですか」


 眉根を寄せる葵に、更級王は真面目な顔で力強くそうだと頷いた。


「わざわざ金を払ってでも、彼らは甘えて欲しいんだ。恐らく、この中には既婚者もいるだろう。きっと妻に甘えられてないんだ」

「えと、草玄もここに通っているのですか?」

「いや。草玄は葵にしか興味がないからな」

「いや。そんなことはないと思うんですけど」


 サラッと言われ戸惑う葵。未だに更級王の本意は分かっていない。


「では何故彼に甘えろと言ったのですか?」

「人は甘えられて強くなる生き物だ。男は特に、そうだろう。見てごらん。周りの男性客を。甘えられてやる気に満ち満ちていると思わないか?」

「…そう、です、かね」


 嬉しそうにしているのはとても分かるのだが、それは若い少女と接している為ではないのだろうかと思わずにはいられない。と思っていたら。


「お婆さんがいますね。お孫さんの忘れ物を持って来たのでしょうかね」

「あの御婦人も従業員だ。制服を着ているだろう」

「…え?」


 少女たちが来ている落ち着いた茶色基調のメイド服と老女が来ている着物を見比べると、確かに。その落ち着いた感じは似ているような。少女と同様に頭に白のレース付きカチューシャも身に付けているし。



(そう言えば、少女と同じくらいお婆さんもいるような)



「経済的、と言うのもあるだろうが、この仕事に遣り甲斐を感じているのだろう。例えばあの男性客は御婦人の肩を叩いているだろう。恐らく、親孝行できなかった両親に面影を感じて代わりに優しくしているのだろう」

「代わり、ですか」

「一時でも心は軽くもさせられるし強くもさせられる。だが所詮は代わり。変え難いものになれば話は別だが」

「……」



 声音がほんの少し変わったかのように感じたがそれはほんの一瞬で、次には何時もの優しげなものに戻っていた。



「その点、草玄は幸せ者だ。代わりを必要としないからな」

「私は、甘えてると思うんですけど」

「例えば?」

「例えば。家事全般は手伝ってもらっていますし」

「それは葵が手伝って欲しいと言って?それとも自主的に?」

「自主的に、ですね」

「草玄がやらなければどうしてた?」

「自分でやっていたと思うんですけど」

「葵は甘え下手だな」

「いえ、十分彼の好意に甘えています」

「もっと自分から積極的に甘えて欲しい。頼って欲しい。夫婦となったのだから、草玄に歩み寄って欲しい。義兄の出過ぎた助言だが」


 苦笑した更級王に、葵はいえと言い両の手を左右に振った。


「草玄のことを想っているって、すごく伝わってきました」

「不甲斐ない義弟だがよろしく頼むよ。葵」


 ふっと柔らかい笑顔を向けた更級王に、葵は瞳を右往左往させた後、頭を下げた。


「よろしくお願いします。お兄、ちゃん」

「うん。やっぱり最高だね」


(……これからずっとこの呼び方なのかな)


 今の所、更級王に対して身内としての不満はそれだけ葵。果たしてそれが幸せなのかどうかは測り切れなかった。








 『珂国』に用意された自宅に戻って来た葵は玄関先で出迎えてくれた草玄に戸惑いを隠せなかった。


「た、ただいま」


 かつてこれほど満面の笑みの彼を見たことはないと思うほどの笑顔だったのだ。


「愉しかったか?」

「う、うん」


 その大袈裟なほどの優しく柔らかい声音に、靴を脱いで廊下に上がった葵はしどろもどろに答えながら、草玄と共に居間へと向かった。


「兄貴は元気だったか?」

「えと、そうですね」


 ここ一週間は毎日会っているはずなのにそう問いかけてくる草玄。未だにあの笑顔と声音は崩しておらず、向い合せに座っている葵は居心地の悪さを感じていた。


「そうか。元気だったか」

「あの…怒ってる?」

「何で?」


 ゆったりとした口調でそう告げた草玄。否定はしていない。


「お義兄さんの方を優先したから」

「何だ。そんなつまらないことを気にしてたのか。別に。全然怒ってないよ。俺の身内だから大事にしてくれようとしてくれているんだろう。嬉しい限りだよ」


(…怒ってる)


 心が籠もっていない言葉というものをここまではっきりと実感したのは初めてだった。


「その。何処か行こうか?」

「帰って来たばかりで疲れてるだろ?」


 立ち上がった葵に、草玄は首を左右に振って座るように言い、代わりに自分が立ち上がり扉の方へと歩き出した。


「茶でも淹れて来るからゆっくりしてろ。な?」

「は、い」


 扉が静かに閉められて草玄が去って行く足音が聞こえなくなって後、葵は息を吐き出し身体中に入れていた力を抜かせた。



(やっぱり、断った方が良かったのかな。でも、断りにくいし)



『甘えて欲しい』



 更級王の言葉を思い返し、葵はぎゅっと瞼を閉じた。


(自分から甘えるって、どうすればいんだろう)


 家事を手伝ってくれる。それだけで有難いのに他に頼む事はあるのだろうか?


(買い物。ご飯に付き合って。とか?映画、はないし、劇、『珂国』の観光地とかは大丈夫だろうけど、旅行は時間がないし。夫婦と恋人のデートって何が違うんだろう?)


 唯一交際していた二週間はご飯に行くか組手稽古に付き合ってもらうか、の二択で、味も素っ気もなかったような。



「私やって行けるのかな?」



 ぽつりと呟いた葵はゆっくりと瞼を開き上を向くと、木が十字に組み重なる天井が見えた。何処にでもある普通のもの。だが自分は。



(自信、ないな)



 ゆったりとした足音が耳に入りガチャリと扉が開かれ草玄の姿が目に入った葵は、湯のみ二つを乗せているお盆を両の手で持つ彼に近づき、両の手に手を重ねた。

 草玄は一瞬目を丸くするも、直ぐに先程の作り物の笑みを葵に向けた。


「どうした?」

「あの、ね。その。私ね」

「うん」

「草玄と」

「うん」

「背中合わせに座りたいんだけど」

「…うん?」


 首を傾げた草玄。笑顔だが先程の能面の笑みではなく地が出ているものだった。


「憧れで。恋人。夫になる人とそうするの。駄目、かな?」



 上目遣いで葵にそう告げられて、笑顔のまま一拍固まっていた草玄は次に、何も言わずに葵から離れテーブルに一つ湯呑を置いたかと思えば、もう一つの湯呑を手に持って勢いよく飲み乾した。

 不安げに後ろを振り向いた葵はその光景にぎょっと目を丸くした。季節は冬。お茶と言えば熱湯の緑茶で、火傷必然なはずなのに。



「あの」

「熱い」


 呆然と立っていた草玄は湯呑をテーブルに置いてぽつりと呟いた。


「夢じゃない」

「だ、大丈夫?」


 そう告げては向けられた片手を、草玄は優しく両の手で包み込んだ。


「あの」

「夢じゃない」

「そう、だね」

「夢の葵はもっとエロいことを要求してくるはずだから、現実」

「…出来れば知りたくなかったよ」

「でもその裏をかいてたとしたらやっぱ夢なのか?」


 一喜一憂する草玄にじっと見つめられ、葵はどう反応すればいいか困惑していた。


(普段が普段だし、やっぱ似合わないことはするべきじゃないのかな)


「現実だよ」


 このまま夢だと思わせておいた方がいいのでは。ふとそう思ってしまった葵はだが、もう片方の手を草玄の両の手に重ねて告げた。


「現実」


 素っ頓狂な声音が出てしまった草玄に、葵は優しく笑いかけた。


「うん」

「…本当に?」

「本当」

「俺と背中合わせに座りたい?」

「座りたい」

「恋人みたいだ」

「もう夫婦だけどね」

「夫婦」

「夫婦」

「俺、夫だよな」

「うん」

「俺、葵にとって、大事な存在でいたい」

「うん」

「俺。俺は、葵の夫で」


 不意に言葉を詰まらせる草玄に、胸を痛めた葵は重ねた手に力を籠めた。


「草玄。大好きだよ。本当に。すごく。あなたの傍にいられて幸せ」


 その優しい微笑に、不意に滲み出る何かを必死に抑えた草玄。じんわりと温かいものが全身に沁み渡り、笑みが零れる。不安が一掃された。


「俺もすげー好き。大好きだ。幸せだ。けど欲を言えばもっと甘えて欲しい。俺に触れて欲しい。俺も葵に触れたい」

「あ、え。と」


 赤面する葵。二人の周りの空気がフワフワしているように感じ、普段ならば気恥ずかしさの余り離してと言うのだが。


「じゃあ、その。背中合わせ、を、いいでしょうか?」

「座って?それとも寝転びながら?」

「座って」

「俺何してたらいい?」

「あ。と。仕事があるならそれをしてていい。私は本を読みたい」

「話さない方がいいか?」

「出来れば」

「どれくらい?」

「残りの時間全部。駄目、かな?」


(……何なんだ。この可愛い生き物は)


 今すぐに家から飛び出して叫び出したい草玄。崩れそうになる顔を必死に引き締める。


「いや。全然。俺もそうしたいなって思ってたし。仕事も丁度あったし。一石二鳥、みたいな感じで」

「じゃあ、私本を持って来るね」


 嬉しそうな笑みを向け去って行った葵の後ろ姿を見つめながら、草玄は口を固く結んで拳を強く握りしめた。


(やべぇ。すげー幸せかも)


 こんなままごとみたいなやり取りなど絶対に物足りないと思っていたのに。




「葵。もっと体重乗せていいぞ」

「うん」


 背中に徐々に温かみと重みが乗せられて行くのを実感する草玄。支えているのだと。夫婦と言う名称だけで十分ではないのだと。それが欲だとしても。


(くすぐったいな)


 顔は見えない彼女を実感できるのは背中から伝わる温かみと重みと息遣い。

 もっと触れて欲しい。言葉で。体温で。鼓動で。瞳で。感触で。全てで。



(何読んでんだろうな。恋愛?歴史?自伝?生活?何でもいい。早く聴きたい)



 されどこの心さえ、早くして欲しいと言う焦燥ではなく、待ち遠しいと言う愉悦。待つ時間さえも心地好い。

 初めてもらった感情。持て余す事がほとんど。だが今は静かに浸透する。波紋はない。穏やかな気持ちだけ。

 草玄もほんの少しだけ葵の背中に体重を乗せた。

 支え合っているという実感を直接味わいたかった。今みたいにずっと。ずっと。



(俺は…)



 この瞬間が永遠であればいいと。

 瞼を上に持ち上げてゆっくりと下げて目を細める。自然と端が上がった口から想いが零れ落ちる。


「俺、不老不死の力を手に入れたい」


 伝えるつもりなど微塵もなかったはずなのに。


「そんで、葵と永遠を生きるんだ」


 言葉にすると、想いの強さを自覚させられる。実現したいと。


「俺の全部を葵にやる」

「…あ、と。何か言った?」


 告げてから一拍経った後、何気ない様子で告げた葵に、草玄はああと一言告げた。所詮独り言のようなもの。本に集中していれば聞こえなかったのも致し方ない。大体。



(言ったところで、葵は要らないって言うに決まってる)



 その否定の言葉は、せめて今だけは聴きたくなかった。自分からこの心地好さをぶち壊すような真似などは絶対にしたくはなかった。



「愛してるって、言ったんだよ」

「私も愛してる」

「葵」

「ん?」

「子作り、何時にしようか?」


 意地の悪い質問をしたとは自覚している。不思議なものだ。困った葵も欲しいなど。


(俺って性格悪いな)


「あ、と……ごめん。もうちょっとだけ時間くれない?その」


 途切れ途切れに告げる葵はきっと赤面しているのだろうと想像すると、もっと、と欲深くなる。もっと、もっと。

 自分の事だけを考えて欲しいと。


「どれくらい待てばいい?」


 甘えられた途端、現金な事に態度が大きくなってしまい、その包容力や忍耐力のない紳士的でない態度に情けなさを痛感し、自分を罵倒する。


(何やってんだ俺は)


 結局何時だって雰囲気をぶち壊すのは忍耐力のない自分だった。


「五十年後でも大丈夫だぞ。生涯現役だし。うん。葵なら七十でも産めるって」


 殊更明るく冗談っぽく告げる。


「で、二百まで二人で生きような。な「来月」

「え?」


 『なんてな』と告げるはずの言葉は葵の蚊細い、されど意思の強い発言によって遮られ、草玄は笑顔を固まらせた。言葉が出にくい。待ち望んでいた言葉なはずなのに。


「葵。今」



(俺、どうしたんだ?)



 ドギマギしている。多分、人生で初めてかもしれなかった。

 ごくりと唾を飲み込み、葵の言葉を待つ。ドクン、ドクンと、心臓の音が煩い。血管に意思が芽生えたかのようにざわめく。

 葵はゆっくりと告げた。



「来月の初めに『緑茄』に行くでしょう?未玖王と紫碁に会いに」


 私用(新婚旅行)と公用(平和協定と援助の謝礼)の半々で、葵は草玄と共に『緑茄』へ行く事となっていた。


「あ、あ」


 手に汗がじんわりと滲み出し、握りしめていた手をゆっくりと開いたり、閉じたりする。


「紫碁が新婚だからって気を使って見晴らしのいい宿を取ってくれたみたいで。その、だから。その時まで、待ってはもらえないでしょうか?」



 草玄は葵の言葉が遠くから響いて聞こえた。

 太鼓を叩いているみたいに、全身が脈打つ。瞳を忙しなく右往左往に向け、両の手を組んでは解すを繰り返した。

 待ち望んでいた言葉。だが正直もっと後の話だと思っていた。まさかこんなに早くに叶うなど。



(俺、どーしたんだよ)



 こんな時こそ、甘く優しい言葉を贈ればいいのに。何も浮かんでこない。一つも、だ。

 飛び跳ねたいほどに嬉しいはずなのに、それ以上に不安や焦りが生まれる。



(俺、ちゃんとやれんのか?)



 草玄は口を何回か開閉させて後、思い付くままに言葉を発した。

 そう思ってはいても、心が籠もってはいない上の空の言葉を。

 何故か黙っている事ができなかったのだ。



「俺に任せとけば大丈夫だからな」



 葵は初めてで、自分は数えるのが億劫なほどにしてきた。



「ちゃんと先導するから」



 だから悦ばせ方も大体見当が付いている。

 だが今までの経験が霧となって蒸発していく。消えて行く。何も残っていない。何も。

 何も分からない。



「優しくするから」



 優しくできんのか?



「満足させるから」



 満足させられんのか?



「心配なんて、一つもする必要ないからな」



 不安だけが増長する。



「葵の初めて、俺にくれ」



 怖いと思ってしまった。

 大切な人。本当に。自分よりもずっと、ずっとだ。

 不安にさせたくない。怖がらせたくない。悦ばせたい。満足させてやりたい。

 勇気を振り絞って抱いてくれと告げた葵に恥をかかせたくない。

 初めての相手が自分で良かったと思われたい。

 重圧が圧し掛かり、浮かれていた気分が一気に重く沈む。

 男としての責任、と言うものを、今初めて感じていた。



(来月って。あと十日とちょっとじゃねぇか。俺)



「葵。悪い。仕事、思い出してよ。ちょっと行かなくちゃいけなくなった」


 声音が固くなる。


「あ、うん」


 不安げな葵の声音が聞こえ、心の中だけで本気で謝罪するが。


「悪い。今度はじゃあ、『緑茄』で」


 表にはほんの少しの申し訳なさを含ませた素っ気ない態度告げる。

 悟らせてはいけない。微塵も。

 草玄は背中から温もりがなくなったのを感じると、スッと立ち上がり葵の顔を見ずに、ただ頭に手をぽんと置いて立ち去って行った。













――現在。


 ぱちりと瞼を開き、寝かしていた上半身を起こした草玄は後頭部を掻きながら辺りを見渡し、目に止まった人の元へとのそのそと歩き出した。

 今はまだ夜明けの時分。だが暗いその部屋でも近づけば寝台の上ですーすーと規則正しい寝息を立て眠りに就く愛しい人の寝顔が見えた。



「葵。俺さ、おまえと一回しか、してないよな?」



 聞こえていないと確信できるから訊ける言葉。

 結局、情けないことに頭が真っ白になって終わった時にはただ茫然と座る自分がいるだけ。ほぼ覚えていない状態で終わってしまった、初めての子作り。

 視界の隅で葵が仰向けで寝ていることは確認できるが、彼女の顔をまともに見ることなどできず、また彼女の気持ちさえ汲むことさえもできないほどに狼狽えて、その場を去ろうとした自分。

 今なら?



「俺さ、多分。何時だって、情けない格好しか見せられないかもしれない。一番見せたくないおまえに、俺は……」



 不意に口を閉ざした草玄は丸めた拳を口元に当てた。

 何かを忘れている気がしてならない。

 本当に一度だけしかしていないのか?


 だがあの時と同じように、訊くことなどできない。


 初めてが終えて。

 その場を去ろうとした自分を後ろから抱きしめた葵の身体は震えているのを感じ、ピタリと動作が止まって、それからゆっくりと上げていた腰を下ろしたのだ。

 静寂がその場を占める中、彼女は蚊細い声音で告げたのだ。


 一人にしないでと。


 その言葉で全てを察した。

 孤独を感じさせてしまったのだと。

 恐怖を感じさせてしまったのだと。

 最悪の初めてにさせてしまったのだと。

 なのにどんな言葉をかければいいのか全く分からなかった自分。

 色々な感情が入り混じって、兎に角この場から遁走したくて。

 一歩足を踏み出そうとしたのだが。


 それ以上は進むことなどできはしなかった。


 柔らかい裸体が自分の裸体に繋がっているのではないかと錯覚するほどに密着していた。

 胸に回された腕も。背中に押し当てられた額も。胸も。腹も。腰を挟む両脚も。

 そう。全てが一つになったかのように重なり合っていた。

 その感触に、カーッと熱が全身を帯びたのを覚えている。

 ドキマギしているのは変わらないのだが、追い詰められていた先程とは違う、気恥ずかしさによるものに変わったのだ。


 何故、と思わずにはいられなかった。

 何故あんなにも自分を追い込んでしまったのだと。

 ただ一心不乱にちゃんとやり遂げなければと。それだけを頭の中に占めてしまって。


 葵の顔を見なかった。

 葵の言葉を聞かなかった。


 その吐息さえも。声にもならない言葉さえも。


 見る必要など、聴く必要などないと思ってしまった。


 ただ、小刻みに揺れる身体の反応だけに目を凝らした。

 ただ、喘ぐ声と艶めかしい声だけに耳を澄ませた。

 ただただ、これだけの反応を信じてこのやり方で間違っていないのだと、莫迦みたいに思い込んでいた。


 全てが終わった時になって漸く、葵にちゃんと向かい合わなかった理由を認めたのだ。

 自分に自信がなかった為に、否定されるのが怖かっただけだったのだと。


 だから本当の葵を遮断してしまったのだと。


 時間を巻き戻して欲しいと願ってしまった。


 初めての相手は葵が良かったと、心底思ったのだ。

 なまじ経験がある自分だから、勝手に予測して、決め込んで。

 初めてであったのなら、例えば下手に終わってしまっても、不能で終わってしまったとしても。それで呆れさせてしまったとしても。


 ちゃんと葵を見ていられたのにと。

 多分。最後は笑い合っていられたのにと。


 全ては想像の産物。そうなっていたかどうかも分からないし、何より今更だった。

 そして挽回する機会も訪れないまま、限樹が身籠って、生まれた。

 身籠ったと知った時も、愛せるのかと不安で仕方なくて。

 けど、限樹が生まれて、葵が寝たまま限樹を抱き寄せた時に、泣いたのを見て。

 熱いものが胸から込み上げたかと思えば、温かいものが全身に波及して、知らず。涙が零れ落ちていた自分に気付いて。


 大丈夫だと思った。

 ちゃんと、父親になれるのだと。




「けど、葵を傷つけたまま、別れてしまって。謝ることさえしなくて」



 草玄はそっと葵の頬に手の甲を当てた。

 今なら。



「今の俺はさ。誰も抱いてないから、本当に初めてをあげられる。多分、どう足掻いたってテンパるだろうけどよ。今度こそは葵を見る。何も見過ごさない。だから」



 例えば、葵が自分を選ばなくても。

 これだけは譲りたくはない。

 あの『こうい』が怖いものではないと、ちゃんと教えたい。



「お互い、好きなら、赦してくれる、よな」



 そう言葉にした途端、草玄はバッと葵から勢いよく手を離して、激しく首を左右に振り、手で目を覆った。



(何やってんだよ。俺)



 抑えきれない気持ちが『何時か』来る将来を予言する。

 何時か。

 また取り返しのつかない過ちを犯してしまうのだと。



(違う。今の俺は、絶対に)



 瞼をぎゅっと閉じて、誓いを立てる。幾度も、幾度も、唱え続ける。











『あちゃー。洗い過ぎて擦り切れてしまったわ。おまえが悪い。さっさと手放せばいいのに。まぁ、大事なのは分からんでもないけど………閻魔のおっさんに報告すんのも面倒やしこのままでええか』



 ぶつぶつと不平を呟きながら背中から真っ白な翼を生やす男は手に持っていた水浸しのものを絞って水気を取り、目の前に縦横無尽に広がる箱の一つに入れた。

 結局取れなかった頑固な汚れ。真っ黒なまま。



『記憶を持ったまま生きるのも難儀やと思うけど。これがおまえの選んだ道やし、しゃーないわな。ま。全部じゃないし。一つでも忘れられて良かったな』



 男は箱の隣に立てかけていた蓋を被せた。

 これで自分の仕事は終わり。ただ最後に。

 男は蓋に片手を置いた。



『来世で、幸福がいっぱいありますように』



 数秒置いたままの手を離した男はその箱が消えたのを確認して後、仕事終了と小さく呟いて、その場からゆっくりと立ち去って行った。











「草玄。おはよう」


 皆が目を覚ませてぞろぞろと居間の方へと向かう中、葵は寝台の上で胡坐をかいて俯いている草玄に近づいた。


「どうかした?」


 すると草玄はゆっくりと顔を上げて葵に焦点を合わせ口を開いた。


「俺さ」

「うん」

「俺」

「うん」

「今すげー幸せ。葵と、皆とこんな風に旅できてさ。ずっと、続けばいいって」

「…草玄」


 何か言いたげな様子の葵に、草玄は笑顔を向けた。


「分かってる。他の皆はともかく、おまえは槇に会うまで、だろ」



 本当は一緒にいる事を不本意に思っている事だろう。

 自分にとって邪魔な存在だと。

 期限を付けて、それでも傍にいてくれるのはきっと。

 自惚れかもしれないが。

 自分の傍にいたいからだと。

 そう思っていてくれるだと。

 だから。

 今度こそは。

 ただただ優しくしてやりたい。

 どんな形になったとしても、幸せにしてやりたい。

 無論、夫になりたいからその為に足掻きはするが。



「葵。俺さ。おまえを幸せに、できたのかな?」


 そうポツリと呟くと、目を丸くした葵。数秒経って後、口を開いた。何故か満足げな笑みを浮かべて。


「うん。幸せだった」

「俺。おまえを傷つけてばっかだったな」

「そう思ったなら次の人には気を付けて欲しい」

「ああ。葵を優しくする」

「私以外の人でお願いします」

「葵」

「草玄なら大丈夫だよ。絶対」

「なら大丈夫なんだよ。俺がさ、葵の夫でも。お互い好きだし」

「…好きだよ。でも「諦めないから。絶対。挽回するから」

「挽回?」


 眉根を寄せる葵が口を開く前に、草玄はさっと寝台の上から降りて背を向けた。


「俺は。ずっと。ずっと。葵が好きだ。愛してる。変わらない。ずっとだ」

 返事を聞かずにその場を立ち去る。




「…私だって、ずっと、好きだよ。でも、駄目なの。一緒に、いられないよ」


 俯いてぐっと口を一文字に結んで後、口の端をほんの少し上げて前を向き、歩き出す。








『葵。葵。葵。あおい、あおいあおいあおいあおい。あおい‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐』




 気が狂ったかのように自分の名前を絶え間なく呼び続ける彼に。

 恐怖を覚えるよりも。ただただ。

 悲しくなったのを、今でも鮮明に覚えている。

 ただただ。

 彼の名前と。

 大丈夫の一言を伝え続けたのを。

 ただただ。



















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