第31話 身体に埋め尽くされた紅

 逸早く俺の気配に気付いたんだろう。愛の力は偉大だなと一人頷きながらも、まだそう小さくなってはいない姿を遠目で見つめていた草玄。次に憎々しげに縁台に座る厳耕を睨み付けた。



「早く行け」

「…分かってる」



 舌打ちをしてから、小さく意識して息を吐き、草玄は地面を蹴った。


 心中にあるのは、気に食わない。その感情を表わすあらゆる単語。



(でももし、葵が)



 吐き出して、ほんの少し溜飲が下がる、わけはなく、止めようと強制的に冷やした頭が打ち出した仮定を鼻で笑う。

 最早確定事項なのだ。



(葵は)



「ぐべ!?」



 見失わないように視線は固定したまま。けれど、思考は見失っていたのだろう。胸に鈍い衝撃が走ったかと思えば、背中に回される両の腕と温かい体温。逃げていたはずの葵が何故か抱きついていた。

 軽くせき込みながらも混乱中の草玄は、けれど迷わず葵をホールド。

 したはいいが、これは本物の葵かと疑い中。



(だって、葵が俺の胸に飛び込んでくるなんて有り得ないっつーか……もしかして初めてじゃね。そもそも俺だって葵の胸に飛び込んだ事なくね)



「葵」

「もう少し、何も言わないで。何も訊かないで」



 さらに力を籠める葵に、胸のドキドキは急上昇。

 対して、思考の温度は急下降。吹雪が止んだ後の氷の大陸だ。



(……俺。やっぱ、捨てられんのかな)



 泣きたい。すごく泣きたい。



(あんな、顔。俺には、絶対見せねえだろ)



 こんな、らしくない事をしないでほしい。



(俺には、あの時の葵しか、くれないんだろ)



 別れの記念に、みたいな事を。



(俺が、欲しがってばっかだから)



 あいつみたいには、





 身体が震えている。

 どちらの。どちらともの。


 呆気なく身体を離したのは、

 聴きたくないから。離れ難いから。


 忽然と姿を消した葵に、何の混乱も疑問も抱かず、ただ、次に姿を見せた時が終わりなのだろうと漠然と答えを出し、草玄は口を結んだ。











「孔冥がおまえを殺す前に訊きたい事があったからな」


 ここに連れ込まれた事やこの問い掛けに表情に対し、一切の混乱を見せない葵に、寝そべっていた身体を起こした神様。雲の脚付き椅子を後ろに回して座るように促した。葵は素直に座った。


「何時までお姫様ごっこを続けるつもりか?」

「……死ぬまで、です」

「………その顔、止めろ。鬱陶しい」


 泣くのを我慢しているというべきか、放出しようとしているあらゆる感情を抑え込んでいるというべきか。何とも形容し難い表情を見せ続ける葵の顔面に、神様が雲を当てがると、葵は勢いよくそれを両の手で押し付けた。


「泣かんか」

「泣きません」

「煩くなくて結構な事だ」

「どうも」

「……孔冥が時の神クロノスに頼んで未来と過去に行った」

「……最初の頃、孔冥はよく言ってましたもんね。殺してあげましょうかって。私は、よっぽど生き辛く見えたのでしょう」

「生まれたばかりのあいつは融通が利かなかったからな。人の理からはみ出したおまえが不憫でならなかった、と弾き出したんだろう」

「あの頃の孔冥って、怖かったんですよ」

「今も、だろ」

「…別の意味で、ですよ」

「殺す理由もな」



 実際に吐き出したのは小さな息。

 錯覚してしまう。

 重たい空気の塊だと。



「……私は、孔冥に甘え過ぎましたね」



 葵は押さえ付けていた雲を膝の上に置いて、神様を見つめて微笑んだ。



「あの時、私を殺したのは神様でしょう」



 迷いのない発言に、神様は莫迦莫迦しいと、鼻であしらった。



「壊れかかっていたおまえを見て苛立ってはいたがな。私は孔冥のように甘やかすつもりは一切合切ない。単なる寿命だ」

「……そうですか。私はあの時初めて神様っているんだなって思いました」

「…今、おまえの前にいるのは神だが」

「あ、いえ。そういう意味じゃなくて」


 葵は手を振った。


「神様、というか、信念。あの、信じていれば神様が助けてくれるというやつです」

「他力本願か」

「…あの時は、そうですね、あの時ほど、助けてくれって、心の中で叫んだ事はないかもですね」

「…頼らんな。本当に。だからあいつはいとも簡単にぐらつく」

「……私では、駄目ですから」


 神様は舌打ちをして、即座に立ち上がったかと思えば、葵にデコピンを食らわした。

 葵は俯き、額を三本指で擦った。


「痛い」

「死ぬなら自分でやれ」


 氷の矢を心臓に突き刺したかのような、冷酷な声音。

 次いで、渡されたのは、砂時計。


 膝の上の雲に放り投げられたそれをじっと見つめていた葵は、こわごわと手に取り、その場から姿を消した。











『殺したのは、私だ』


 実際に血で埋め尽くされているかわからない。

 大地も空も人も自分も。

 けれど、確かに自分は、血で埋め尽くされている。

 窒息されそうなほどに。


 人を殺したこの時に、私は初めて生き。

 壊れてしまったのだ。


















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