第30話 茶葉の色
全てを、と。
望んで渡してもらった一欠けら。
葵からしたらそれで。
俺からしたら総てで。
「葵に会っていたら。俺は見向きもされなかったかもな」
『厳耕が傍にいたほうが葵の為かもね』
反芻する言葉。
否定など、今の姿を見て誰ができるか。
形作られていたかどうか分からない笑みで以て、草玄は葵と厳耕の元へと足を進めた。
微睡みを帯びて心休まる穏やかな時間の中。
緑茶を飲み干した孔冥。身体を起こしてどら焼きを少しずつ口に運ぶ葵にご馳走様ですと微笑み、椅子から立ち上がって、お湯ポットから急須に湯を注いだ。
まだ鮮やかな色を保つ茶葉から緑茶の匂いが仄かに沸き立つ。
(随分と、おとなしい)
薄毛の白髪。刻まれた皺。垂れている頬。全身の線が細く。ほんの少し力を込めて触れれば骨が折れそう。生命力溢れる今の葵からは想像できないほどに、死と隣り合わせの存在。
(食べている時が一番幸せだと感じさせる笑みは健在だが)
静かに、穏やかに、上品さを帯びて。
(こんな女性になっていたのか)
今の葵が辿る事はない未来だ。
「転んだだけなのにね。骨折しちゃって入院よ」
退屈でしょうがないと愚痴を溢す葵に、おかわりはいかがですかと尋ねたら頷かれたので、ベッドの傍の小さな収納棚の上に置かれた葵の茶器に緑茶を注ぐ。どら焼きを半分食べ終えた葵は緑茶を口に含んだ。少量を、ゆっくりと。
「まぁ、おかげでこんな美形のお兄さんとお話しできるのだから、怪我の功名かしら」
「…ありがとうございます」
すらりと、何の気負いもなくこんな誉め言葉を口にする葵に、これも年を重ねた故の賜物かと感心する。
葵は小さな笑い声を立てると、茶器を収納棚の上に置いて、真っ直ぐ孔冥を見つめた。
深みと色を増した瞳。
混ざり合って色が分からない。
「死が怖いか。だったかしら」
「はい」
病室に入って、ボランティアの者だと紹介して、椅子に座るように勧められ、世間話を幾分かして後の質問。葵はそうねえと言葉を濁し、お茶を勧めたのだ。
「怖いのと、まぁ、いっかって気持ちが半々。常にヤジロベエ状態?どちらにも公平に傾く」
「不老長寿になれるとしたら、今のあなたはそれを受け取りますか?」
「………昔ね。変化が怖かった」
返事がない事に、昔語りを始めた葵に、答えを導き出そうとしているのかと、孔冥は葵の言葉に耳を傾けた。
父と母と姉と私と。家族が中心で。家族が傍にいる事。そこだけは不変を願った。家族がいなくなる事が、死と同じくらい。ううん。十代の頃は、死の方が、自分がいなくなる事の方が怖かったんだと思う。
でも、二十代になると、家族がいなくなる事の方が怖くなった。誰もいなくなったら、後をついてっちゃおうかしらとも本気で思った。
三十代、四十代は、死んじゃってもいいかって気持ちと、家族がいなくても大丈夫かしら、大丈夫じゃないかしらって気持ちが振り込みたいに揺り動いて。
五十代で、父が亡くなって、姉はもう結婚してたから、実家には母と二人。母がいなくなったら独りぼっちっかなってうっすらと思った。友達がいなかったわけじゃないんだけど。中心はやっぱり、家族…両親だったのね。でも、いなくなる事が死ぬに直結はしなくなったかしら。
年を重ねて、新鮮さが失われていくって、誰かが言ってたのを聞いたんだけど。全くそんな事はなかった。知らない事を知る度に心は踊るし、美味しいものは美味しいし。
六十代になって、母が亡くなって。悲しかったけど、不思議と、涙は出て来なくて。生きていようって。寿命が来るまで。
ゆったりと。けれど、流れを途絶えさせぬべく、呼吸を惜しむように告げられた言葉。
答えは?
「今の私は受け取らない」
「…そうですか」
落胆か納得か。どちらも入り混じっているのか、それとも全く違う感情なのか。図り切れない孔冥は、けれど、今は夕日を言い訳にこの場を去ろうとしたのだが。
「今の私はね。明日の私はわからない」
茶目っ気を含んだ笑みの意味に気付けないまま。孔冥はゆるりと首を振った。
「言葉にした以上、それが答えです」
「今の私は。でしょう」
「……あなたは何も知らないから」
声に出すつもりはなかった。
答えを出した彼女に、
穏やかに全てを包み込むような彼女に、
葵の在るべき姿に、
「過去のあなたはそれを受け取り、後悔しているのに、傷ついているのに、後悔していない。あなたのようにはなれない」
指針が大きく傾く。
掴めない感情。
けれど確かに一つ、強く感じるのは――。
苛立ち。
(申し訳ありません。葵。私は、あなたを殺す)
失礼しますと丁寧なお辞儀をして、足早に立ち去る孔冥。扉の先で過去の世界へと行こうと目論んでいた。
葵を不死の男に遭わせない為に。
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