第23話 天地の狭間に空、浮くは綿雲(2)

――『鴻蘆星』。


 演説を無事に終えた葵は今、ラブホテルの一室の寝台の上に正座になっていた。

 半透明硝子の向こうにいる草玄に目を向けないようにしながらも、耳に届くシャワーの音に、嫌が応にも緊張感と後悔の念が増して行った。


(早く終わらせて、さっさと忘れたい)


「葵。次いいぞ」


 白のバスローブを軽く羽織った草玄は、バスタオルで頭を拭きながら葵にそう告げた。

 葵は草玄を見ないようにしながら、素早く横を通り過ぎて、シャワー室へと入った。


(…やべえ。ぜってー真っ白になる)


 髪を乾かした草玄は今、全身が軽く殴られているような錯覚に陥る中、ふかふかの寝台の上で、どうやって進めて行くかを頭の中で念入りに思い浮かべていた。


(真っ白になったら、また勢いに任せちまう。それだけはぜってー駄目だ)


 あの時の自分なら冷静に事に運べたのに、と、今日でいいと物わかりのいい事を言ってしまった事をすでに後悔していた。


「あ~くそ」


 草玄は両の手で乱暴に頭を掻き回した。


(つーか、起たなかったらそれこそどうなんだって話だよな~)


 草玄が苦悶の表情を浮かべながら寝台を転げ回っている所に、葵がシャワー室から姿を見せたので、瞬時に動きを止めて膝を正し。

 自分と同じようにバスローブを軽く羽織っているだけで、下着も身に付けていない彼女を視界に端ギリギリに入れながら、口を開いた。


(下くらい隠せよな~)


 恥じらいと言う言葉を覚えてほしいと思うほどに、あっけらかんと素肌を見せる葵に、祭りでお馴染みの太鼓の音のように心臓が飛び出すのではないかと思うほどに脈打つ。正直、身体中に響いて苦しいし煩い。


「あー。光。どうする?暗くするか?」


 動揺を悟られないように、さも自分は慣れていますよと言わんばかりに、素っ気ない声音を絞り出す。


「明るいままがいい」

「あっそう」


 勘弁してくれと思ったが、駄々をこねずに承諾した。

 心臓が本当に爆発するのではないかと危機感を抱くほどに自己主張をする中、髪を乾かし終えて自分の前に膝を正して座る葵に、緊張感が最高潮を迎えた。


(何で明るい方がいいんだ?葵だって恥ずかしいだろ~)


「あの、さ」


 草玄同様、葵も視線を何処に置けばいいのか分からずに右往左往させながら、遠慮がちに口を開いた。

 頬はすでに染めあがっており、瞳も潤んでいる、その艶のある姿に。

 緊張感とは別に高揚する気持ちも確かに拡張して行く。

 草玄は二の句を告がない葵の頬にそっと手を添えた。葵は小さく肩を揺らした。


「葵」


 他の指は添えたまま、親指で頬を、次に唇を愛撫した。

 身の置き所がないように身体を縮こませながらも、潤いを増す瞳だけは真直ぐに自分を見つめる葵に、高揚が勝り、目を瞑ってと優しく囁いて後、顔を近づけて、唇を重ね合わせた。

 顔の向きを変えながら、重ね合わせては、微動させて、軽くついばんだ。

 頬に添えていた手を後頭部に、もう片方の手は葵の手を強く握った。

 繋がれた手も、重なり合う唇も、熱が増して行き、ただ一つの欲求が身体を占めた。

 唇は流れるように顎、首筋へと下りて、鎖骨へ辿り着くと、場所を変えては何度も強く吸いつきながら、後頭部に添えていた手でバスローブを掴んで後ろに動かすと、羽織っていただけのそれは簡単に後ろに落ちて、露わになった葵の裸体に、高揚感が増す。


「そう、げ、ん」


 羞恥心で一杯だろうなと思う余裕さえできた草玄は、震える声音で自分を呼ぶ葵の顔を見ずに、握りしめていた手を動かし、指の間に指を入れて、再度強く握りしめた。

 唇を鎖骨から離して膝を崩し、葵の肩を掴んで後ろに倒すと、馬乗りになって、葵の顔を見つめた。


「明かり消すか?」


 羞恥心で一杯なのか。口を一文字に結び、今にも泣きそうな葵はそれでも首を縦に振る事はしなかった。


「手、離さないで」


 これが精いっぱいだと言わんばかりに蚊細い声でそう懇願する葵に、ぞくぞくと、くすぐったい刺激が身体中を駆け巡る。

 ふと、熱に侵された身体の中でも、特にその熱が集まった股間に目を向けると、すでに起っている自身が見えた。

 途端、急に夢から現実に呼び戻されたような感覚に陥り、高揚と緊張が反転した。


(やべぇ。これからどうする?)


 葵を組み敷いている状態。起っている自身。じんわりと滲み出る冷や汗。混乱する頭の中。自己主張を再開する心臓。霞み行く意識を留めるのは、熱が籠められている左手。


(ここで勢いに任せたらあの時の二の舞だっての。しっかりしろ)


 叱咤するが、熱が冷めた思考が、焦りと混乱を呼び、意識が遠のきそうになる。


(兎に角、どっか触らねぇと)


 でも何処を?


(やっぱ、あそこ、か。あそこしかねぇんじゃねぇの)


 もっと違う所を愛撫した方がいいんじゃないか?がっついていると思われるし。


(いや、がっつくだろ。普通)


 いきなりはないでしょ。だってまだ、十分も経ってないでしょ。もう少しキスしたりさ。頬とか頭を撫でたりして安心させた方がいいんじゃない。


(…そう、だよ、な。でもどんくらい?)


 そんなの葵の反応見ながら判断しろよ。


(いや、そうなんだけどよ。俺もういっぱいいっぱいで。早く終わらせたいつーか。終わらせたくないよ。本音は。けどよ。まだ二回目で。そんな手慣れた事できないっつーか。余裕が持続できないっつーか。つーかっつーか。持続できてねぇし)


 ぷぷ。情けねぇ。


(いや、笑ってるけど、おまえだって俺になれば分かるぞ、この気持ち。飛びそうになる意識をこんだけ留めてるって、すんげぇ根気いるんだからな)


 いや、俺になればって言われても。俺、おまえだし。


(おまえは俺だけど。でも、心の中の俺で。実際にするのは俺で…あれ、訳分かんなくなってきた)


 あのさぁ。自問自答もいいけど、そろそろ止めろよ。葵が待ってるぞ。


(分かってるよ。くそぉ。おまえはいいよな。心の中でそうやって冷静に言えてよ)


 結局答えが出せぬまま意識を現実に戻した草玄の瞳には、不安そうな葵の表情が映り、申し訳ない気持ちが滲み出た。

 言葉にしたかったがその想いを口にはせずに、唇を葵の唇に重ね合わせるや、強く吸いつき、強引に口内に入れた舌を葵の舌に絡ませた。


(熱い)


 荒い鼻息が顔に当たる。心臓が早鐘のように早く打つ。繋がれた手に籠める強さが増す。

 もっと、と、消えかけた炎がじわじわと広がりを見せながら再燃するも、頭がクラクラしてきたので名残惜しいが唇を離し、酸素不足だった身体に空気を取り入れる。

 吸っては吐く。普段なら聞こえる事のない呼吸音がくっきりと耳に届く。

 どんだけ酸素不足なんだと頭の片隅で突っ込みながらも、未だに短く深く呼吸を繰り返す葵の頬を撫で、滑らかに動かして身体の線をなぞった手は腰の位置で止まった。


「葵。脚……」


 不意に言葉が詰まり、その一点を凝視して後。


「あー、のよ。止めるか?」


 何時もの飄々とした口調で告げた草玄は、馬乗りになっていた身体を左に移動させて、葵の顔が見下ろせる場所に手を繋いだまま腰を落ち着かせた。

 葵は身体を起こさないで黙ったまま草玄の次の言葉を待った。

 草玄は頬を掻きながら口を開いた。

 気持ちが冷めたわけではないが、幾分かは冷静になった。


「なんつーか。葵。さっさと終わらせてくれって、思ってないか?」

「……うん」

「やっぱなー」


 落胆するでもなく、その答えを受け入れられた。


「何でさ、今回、してもいいって思えたんだ?」


 一度目を伏せて草玄から視線を逸らして数秒後、葵は草玄に視線を合わせた。


「草玄。私たちがさ、この行為するの、何回目?」

「…二回目、じゃあないな」


 葵は小さく頷いた。


「一回目で限樹を産んで、二回目は私が死ぬ一週間前で、今回が三回目」

「悪い。二回目、俺、全然覚えてないんだ……俺が、誘ったのか?」


 今回のように、一回目をやり直す為に。


「ううん。私がやろうって言った。子どもを産む為じゃなくて」


 子どもを産めるのは一回のみ。それをちゃんと分かった上でもう一度してほしいと頼んだのは自分だった。


「何で?」


 性欲がどうだとこの行為を嫌い、子どもを産む為だけにやるんだとあんなにも言っていたのに。何故と、驚きを隠せない。


「怖いまま終わらせたくないなって。ただ、それだけ。でも、終わった後、羞恥心で草玄を避けまくって。もう絶対やらないって」

「なら何で?」

「流されてもいいかなって。もう、ごちゃごちゃ考えて、拒むのは面倒臭いって」

「…情緒も何もないな………どうする?続けるか?」


 未だに起き上がらない葵を見下ろした草玄は、緊張と高揚が急速に消えていくのを感じつつそう問いかけた。


(もう、今から盛り上がるってのは、無理だよな~)


 恐らく四度目はないのだろうと思って落胆はするが、もうどうでも良いかと言う気持ちも芽生えてしまったわけで。


「続ける」

「ああ、そうだな。止めるか……って、今、何つっ、た?」


 自分が思っている以上に欲求不満だったのかと、右手で左右交互に耳を叩いて五分後、草玄は再度何て言いましたかと丁寧に問いかけた。


「続けるって言ったの」


(幻聴じゃねぇみたいだけど)


「…意固地になってねぇか?」


 葵は怒っているように眉根を寄せながら、首を横に振った。


「…今日しか、多分、もう無理だから」

「それは、そうかもしれないけどよ」


 草玄は首に手を当てた後、唇を尖らせた。

 やりたいか否かと訊かれたら、それはもう断然肯なわけなのだが。


「けどよ。早く終わらせたいんだろ?」

「それは、そうだけど。でも、」


 消え消えになっていた紅を一気に再燃させて、口ごもらせる葵に、草玄の心臓がかつてないほどの高鳴りを示した。


(あれ。何だこれ。俺たちに全く無縁のこのふわふわした空気。あれだろ。夢だろ。これぜってー。現実の俺は今頃一人寂しく寝てるはず。目を覚ませ俺!)


 草玄は拳を作って思い切り頬を殴った。手加減しなかった所為か、鼻からぽたぽたと血が滴り落ちて来た。

 草玄は拭って手に付いたその紅の液体をまじまじと見つめていると、鼻に柔らかい感触が当たるのを覚えて視線を上にすると、ティッシュを宛がっている葵が見えた。


「人間。頓珍漢な事を言い出す日もあるんですよ」


 葵は口を尖らせて悪かったですねと言って、新しいティッシュを宛がい、草玄の顔を見ずに口早矢に告げた。


「私だって、抱いてとか言いたくないし。したくないし。だって、裸でお互いの身体を舐めたり、射れたり…考えただけで、気持ち悪いのに。でもしないと子ども産まれないし。最初は草玄、怖かったし。痛かったし。でも、本当は怖くないし、痛いけど。だから」


 草玄の鼻を摘んで、真直ぐに見つめた。


「お願いしたのは、後悔したけど、後悔してない」


 口を一文字に結ぶ葵の身体はわずかにだが、震えていた。

 恥ずかしさなのか。怒っているのか。緊張しているのか。怖がっているのか。

 沈黙が続く中、ふと、葵がティッシュを宛がうのを止めた。どうやら鼻血が止まったようだ。


「でも、草玄がしたくないなら、それでいいから」


 草玄は石になったかのように身体を動かす事ができなかった。

 目の前で行われている出来事が信じられなかったのだ。

 思考が混乱して、息もしにくい。

 頬の痛みが感じられないから、夢なのだ。これは。


「俺、は、その、抱きてぇよ。けど」


 夢なら思うままに葵を貪ればいい。なのに、何だこれは。


「葵。嫌がってたし。無理やりなんて、嫌だから」


 頭の中で警鐘音が鳴り響くのに、口が止まらない。


「本当に、大切なんだよ。壊したくない。けど、時々、壊して、バラバラにして、全部くっつけばって、思う」


 貪り尽くしながら、細胞まで肉塊をバラバラにして、自分もバラバラにして、全てを重ね合わせたい。

 一つになどなりたくない。

 違う存在と認識できるぎりぎりの瞬間まで、重なり合いたいだけだ。

 身体だけではなく、心も。魂さえも。


 草玄は自分の頬を摘んで引っ張った。


「邪魔なんだよこれ。せめて、血肉だけでも。せめて、血だけでも」


 言葉を詰まらせてから、頬から手を離し、苦笑を溢した後。

 おぼつかなかった焦点を葵に合わせた。


「俺の事だけ考えて。俺の名前だけ呼んで」


 葵の手を取り、口付けた。


「羞恥心なんて感じさせないくらい、俺に夢中にさせるから」


 怯みの色を見せてもなお、真直ぐに見つめるその瞳に吸い寄せられるように、草玄は葵の唇に唇を重ね合わせた。

 思考は冴えたまま、身体は熱を膨張させていく。

 草玄は唇を離して後、座ったまま顔だけを抱き寄せた手で、葵の中心の、最も過敏なそれに触れた。

 葵の身体が弾かれた糸のように揺れた。

 草玄は指にまとわりつくような熱い蜜に安堵しつつ、過敏なそれを執拗に擦り続けた。


「あ、やぁ。そ、げん」


 草玄の指も、葵の身体の振動も緩急を繰り返していくほどに。

 熱い蜜と喘ぎ声が量を増していくと同時に、自身もまた膨張させていく。


「やぁ!」


 達した葵は疲労に負けて草玄の肩に額を乗せた。余韻に浸る身体は未だに微動を繰り返し、吐息が漏れている。

 草玄は蜜を付けたままの手で葵の顎を掴むと、唇を重ね合わせた。


「ん、そ、あ…や」


 声音を聴きたくてわざと唇を離してはまた重ね合わせた。幾度も。幾度も。


「葵。射れる」


 頭の中にかかる靄が思考を遮断させた。

 葵は優しい声が落ちて来たと思えば、自分の中に入った異物に身体が大きく反応した。


「痛いか?」

「痛く、ない」


 濡れた手が首に当たり、耳元で囁かれた言葉が今度は認識できた。

 草玄は葵の中に入れる指の数を増やす度に葵に確認を入れ、葵はその度に否定をした。

 中に入れては、過敏なそれに触れるを繰り返して、シーツを濡らす蜜の量を量ると。

 草玄は葵の手を引っ張りながら身体を移動させて後。

 壁に背中を当て、葵に足を広げて開いた自分の太股の上に乗るように告げ。

 葵の腰に添えた手を前に押して、葵の陰間に大きく起つ自身を宛がい、葵の顔を見ながら、徐々に自身を射れていった。


「葵、無理、なら、無理って、言え、な」


 自身を徐々に葵の中に埋めて行くと同時に、眉根を寄せて口を固く結び、それでも首を横に振る葵の、未だに繋ぐその手に口づけを施し続けた。


「あったけぇ」


 自身を完全に葵の中に埋めて後、草玄は感激し、ぽつりとそう告げた。

 自身を温かく包み込み、繰り返すその微動は、自身を刺激し、膨張と射精を促した。

 今までなら刺激を求めて莫迦みたいに腰を動かしていた。が。

 草玄は背中に腕を回して強く葵を抱きしめた。


「そう、げ、わた、も」


 もたれかかる葵はもう身体に余力を残していないのだろう。切れ切れに言葉を発し、喘ぎ声と呼吸を漏らす。

 限界なのだと察しても、草玄は葵を抱きしめる腕にさらに力を籠めた。


「悪い。この……まま、で、いたい」


 刺激を求めて腰を振るよりも、長く葵の中に埋もれていたかった。

 微動にこそばゆい電流が走り、自身が大きくなっていき。

 自身を圧迫するそれに、堪えられず漏れる吐息が、絶え間なく続く。


「あお、い」


(もっと、奥に射れてぇ)


 だから腰を振り、だから射精するのかと納得するも、どちらもしたくはなかった。

 例えば一瞬でも。離れたくなかった。離したくなかった。

 それでも、刺激を求める自分も確かにいて。

 自身が離れないように腰を微動させた。


「あ、や…も、そ…げ」


 二度目を達した葵は寒さに凍えるように身体を震えさせていた。

 これ以上やれば本当に葵が壊れると頭の片隅で分かってはいても、自身を葵から離したくはないという欲にも駆られる。

 葛藤する意識は何時しかそれを放棄し、もうどうでもいいと頭を項垂れさせた。

 どれくらい経っただろうか。項垂れた頬に温かみを覚えると、そのままでいてと言われ。

 続く温かみは唇に触れ、上唇と下唇を挟まれたかと思えば、舌に生温かい何かが絡まり合う。

 じりっと、炎に燻られたかのような熱さが自身を襲い、蜜が滲み出て来るのを感じた。


「あお、おま」


 一時その居心地の良さに浸っていた草玄は、ふと、意識を覚醒させ、唇を離した葵を目を丸くして見つめた。

 艶のある唇に、温かみの正体を知り、動悸が激しくなる。


「はな、さなくて、いい、から」


 この場には似つかわしくない見上げる無邪気な笑みに。

 ぎゅっと、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。


「わりぃ」


 言葉に甘えると低く呟くと、葵を抱きしめた。

 そして、手も自身も、葵に繋がったまま、意識を手放した葵を抱きしめ続けた。






「…あの、草玄」

「…悪い。でも、嫌だ」

「嫌だって言っても、もう、朝だし」

「朝だからしちゃいけないって決まり事はないし。まぁ、あったとしても、守らないけどな」


 開き直った草玄に、葵は再度離してと厳しく告げた。

 目を開けた葵はもう草玄が離れているのだと思っていたのだが、抱きしめられ、さらに異物を感じ、隙間を作って視線を下げると、未だに繋がっているその状態にあ然とした。


「ご飯とかどうするの?トイレも」

「……ご飯は、注文すれば…トイレしたい時だけは離す」


 ぼそぼそと告げる草玄に埒が明かないと、葵は片手を草玄の胸元に押し付けて離れようとしたが、疲労の溜まっている身体では隙間を作るのがやっとで、しかも足はずっと折り畳んでいる状態で固まってしまっており、動かす事さえできなかった。


「草玄」


 葵は草玄を睨んだ。


「やだ」


 草玄はふいと顔を背けた。


「…じゃあ、何時までこうしていれば満足するの?」

「……また、したい。百年後くらいでいいから」

「…千年後なら」

「キスは何時でもしたい。抱擁も」

「……善処します」

「じゃあ、あと、一時間だけしたら、離す…けど、どうやって離れる?」


 葵同様、草玄もまた足を折り畳んでいる状態が長時間続いたおかげで固まってしまい、そう易々と動かす事ができなかったのだ。


「このまま葵を後ろに押し倒す。そしたら俺が葵の上に乗っている状態になるだろ。そこで痺れを我慢して伸ばすか。このまま立ち上がるよりも軽減されると思うぞ」

「このまま?」

「このまま」


 戸惑う葵に対し、草玄は力強く答えた。


(繋がったままって。刺激が……せめて、あそこだけ離さないかな)


 思い出したくない昨晩からの情事を思い浮かべ、顔がゆでだこのような紅に染めあがる葵。意識してしまい、心臓が早鐘のように早く、太鼓のように大きく鳴り響いた。


(~~~)


 脱兎の如くこの場から逃げ出したい欲に駆られ、咄嗟に立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、電撃に打たれたかのような刺激に襲われてしまった。

 声にはならない痛みが身体の芯を貫き、涙だけが零れ落ちた。


「葵。大丈夫か?」

「だい、じょうぶ。だから」


(…そう言えば、草玄も。ずっとこの体勢で。私を押し倒す時に衝撃が。でも、草玄の後ろは壁があって押し倒せないし。かと言って動かないと…)


「草玄。横に倒れよう。その方が足を伸ばしやすいし」


 今のままでは壁が邪魔で伸ばしにくかった。


「けど、それじゃあ、片足が」


 葵は分かっていると小さく頷いた。

 このまま横に倒れれば片方の足にとてつもない衝撃が走るのは必須。だが。


「大丈夫。やろう」

「…だな」


 不敵に笑う葵と草玄は数秒後、かつて経験した事のないほどの痺れと痛みに悶絶するのであった。


(そう言えば、射精してねぇ)


 悶絶すること十数分後。漸く痛みから解放された草玄は腕に葵の頭を乗せて、身体を横にして繋がったまま足を伸ばして葵を抱きしめていた。

 馬乗りになろうかとも考えたのだが、何故か葵に駄目出しされて、今の状態に収まっていたのだ。


(第二ラウンドを始めると思われたんだろうな)


 それも悪くはない。むしろ、推奨したいのだが。


(あったけぇな)


 葵の肉体に埋まる自身だけでなく、肉体全てが。触れられていない背面さえも、葵の肉体で包まれているような心地の良い感覚であった。


「あ~。このままねむりてぇ」

「寝たじゃん」

「まだ四時間くらいだろ……葵が俺を眠らせてくれないから」


 どんな反応をするのだろうか。意地の悪い事を言ったと自覚しつつも、自分の胸に額を当てる葵の反応を待つ事十数分後。未だに無言のままの葵に、怒らせたかなと思い、謝ろうとしたのだが。


「寝てるし」


 すーすーと規則正しい寝息を立てる葵に拍子抜けしつつ、後頭部を優しく撫でながら静かに目を閉じた。


「千年後じゃなくて、一億年後でもいい」


 もしくは。

 その後に続く約束はまた心変わりするかもしれないので口には出さないで置いた。


「俺。すげえ、幸せ」


 くすぐったくて、甘くて、涙が滲み出る。

 そんな幸せな時間がきっとこれからも続く。続けられる。


「俺、幸せだ。葵も、そう、なら」


 小さく呟き、意識が続く限り、葵の後頭部を撫で続けた。






「………」

「孔冥。無言で、しかもそんな何の感情も映してない瞳で見下ろさないで」

「セクハラですか」

「いや、この通り、とりあえず下着は穿いてるし。上はシーツを羽織ってるんで」

「人をラブホテルに呼び出して、情事の後だと分かる姿を見せつけるのは、セクハラと言うのですよ」

「「すみません」」


 寝台の上で礼儀正しく横に並んで座り項垂れる二人に、孔冥は全くと嘆息をついた。


「ずっと繋いだままだから、手が離れなくなった。結構じゃないですか。もうずっとそのままでいたらどうですか?」

「着替えができません」

「どうにでもなります」


 有無を言わさぬ極上の笑みに、葵は一度は上げた顔を先程よりも俯かせた。


「大変だと喚くので来てみれば。全くくだらないですね」

「そんなに、怒らなくても」

「怒っていません。呆れているんです」

「呆れてもいいから、外してください」


 そう言うや、葵は繋がれた手を前に差し出した。孔冥はそっぽを向いていたが、ちらと横目だけで葵を見て、嘆息をついて後、つかつかと二人に近づいて、一本一本丁寧に外し始めた。


「こんなの二人でどうにでもなるでしょ。次の星に向かうのも明日で、時間はたっぷりあるでしょうが」


 ぶつぶつと文句を言う孔冥の瞳に映るのは、何時もの葵の嬉しそうな顔。


(甘やかしすぎたのかもしれませんね)



『先生は何で葵とずっと一緒にいるのですか?』

『恋人でもないのに』


 子どもならではの、疑問か、それとも。


『葵には草玄がいます。だから、異空間の時に手を貸すだけでいいでしょう?』



「はい。終わりました」

「ありがとう。孔冥」

「悪かった」


 その信頼を寄せた笑みに、孔冥は何故か苛立ちを覚えた。二人の手を離すと、立ち上がり、再度二人を見下ろす形で口を開いた。


 温かく、柔らかい感触がまだ手に残る。


「葵。私は天界に戻ります。神様に元の役職に戻れと言われたので」

「分かった」

「異空間へ行きたい時は咲を送りますので」

「分かった」

「もう地上には降りませんから」

「…何で?」


 真顔の葵を、同じく真顔で見返す。


「転送先が厄介な所ばかりなのは欲深いからですよ。少しは自重した方がいい」

「…孔冥?」

「何かを得たら何かを喪うのは道理でしょう?」

「孔冥」


 掴んだ両の手を片方の手で包み込んで。


「お別れの時です」


 微笑んで。


「さようなら」


 姿を消した。












(泥を塗ってしまったか)


 申し訳ない事をしたと思いつつ、純白の綿の上を先で待つ神様に向かって歩みを続ける。


 今までに見た事がなかった。

 表現しようのない葵の表情。

 驚き。悲しみ。戸惑い。違う。何も呑み込めていない故の。


「欲が深ければ、幸福は遠のき禍根が来集する」

「いいのか?」

「はい」

「本当に?」

「はい」

「気に入っていたくせに」

「暇潰しですよ。しつこいですね」


 神はククッと喉を鳴らして笑った。


「苛立ちか。青春だね~」

「…葵と空様は」


 その反応に面白くないと思いつつも、おまえもしつこいなと口を尖らせた。


「俺がじきじきに身体を作ったんだ。久方ぶりにな。けどめっちゃ疲れた。もうしない」

「どちらに?」

「葵に決まってんだろ」

「…そうですか。また、大変ですね」

「承知の上でだし。おまえがいなくなったくらいで減らないから、傍にいてやれば?」

「別にそれが理由ではなく、甘ったれた根性に嫌気が差しただけです。全く、私に頼めば何でも叶うと思っている」

「事実だろ」


 違うと口を開くも、思い当たる事が多々あり、敢え無くその言葉は霧消した。


「……孫に甘い祖父の気持ちが分かりました」

「祖父、ねぇ」


 含み笑いに、どうせ有り得ない事でも考えているのだろうと、あえて突っ込まずに、神の袖を掴んで引っ張って行く形になって前へと歩き出した。










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