第18話 迷宮の彼方に隠した秘密、真っ白な世界だった(9)
(で。この有り様だし)
便所に籠もっている葵は一旦止まった吐き気に安堵し、手の甲で目元を拭った。
臓腑が口から飛び出るのではないかと思うほどの勢いで吐き出され、結果、身体中の水分は必要最低限の容量だけを残しているのではないかと思う。
(きつ)
ふらつく背を扉に押し付け身体を九の字に曲げ座り込んだ。
(これから、どうしよう)
もう戻れない事だけは確かで。なら死ぬまでこの星でこっそり生きて行く術を捜し出さなければいけない。誰にも見つからないように。
(先生に、迷惑掛けたくせに。今更)
自分の不甲斐なさに本当に嫌気が差す。
(兎に角、出て、謝って。仕事探そう。人に会いそうにない。何だろうな。何でもいいや。それでお金稼いで、先生に迷惑料払って。それで)
未来が見えない。したい事が見つからない。以前は山ほど目の前に立ちはだかっていたのに。まるで暗闇に一人残されたかのよう。抜け出す事のできない出口のない世界に。
ふーっと長く静かに限界まで息を吐き続け、終えたらスッと立ち上がった葵は便器に背を向けドアノブを握り扉を開けた。
「迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした」
「これからどうするの?」
「ええ、まあ。仕事を見つけて仕事に生きようかなと」
先生に下げた頭を上げた葵はハキハキと元気よく告げた。
「もう私に見斬りつけたでしょうし。私も吐くもの吐いたんですっきりしましたし。これで解決したかなと」
「あんた。長年生きて来て小ずるい知恵身に付けたつもりでしょうが、全然ね」
「そうですか?」
「そうよ。あ~あ。やっぱ成長できない人間っているのね。あんたみたいなのを無駄に年取っているって言うのよ」
「無駄で結構です。無駄で何が悪いんですか?」
「漸くうすっ気味悪い作り笑い止めたわね」
先生は真顔で葵を見下げた。眉根を寄せ、目元を険しくさせる彼女を。
「愉しく生きて来た。これからもその予定だったはず。なのにたった一人の男に振り回されて生き甲斐を奪われた。あんな男に出会わなければ良かった」
「………」
「記憶を消して欲しいと願ったほどだから、よっぽど苦しかったのね」
「可哀想に」
「科白、取り消してください」
「何で?男に翻弄されるほど可哀想な女はいないわよ。両想いは特にね。自分も好きだからどうしようもない。お先真っ暗。地中深くに落とされた気分。違う?違わないでしょ」
慣れない感情に戸惑い、唇が戦慄く。
「私は、自分が可哀想だなんて、思ってません」
癇に障って、頬を叩いて黙らせたい。なんて。
「いいえ。あなた以上に可哀想な女なんてこの世にいないわよ」
「っ。何よ。何で、あなたに、可哀想なんて、決められなきゃいけないのよ」
(何で…)
これ以上流したら死んでしまうのではないか。そう思うのに、止まらない。
「何で。何で出てくんのよ。何で……」
「何で!!」
腸が煮え繰り返り、その一言に鬱憤を晴らすように、声を荒げて発し、両の手で顔を覆い、息を殺し、涙を抑える。それでも止まらない。喉に渇きを覚える。気のせいか。皮膚が枯れて行く。
「苦しい?」
「苦しい」
「そんなになるまで人を愛せるあなたを人は幸せだと言うわ。あなたは、そう思う?」
「分からない……分からない」
「こんな。こんな風になるなんて、思いもしなかった」
「大丈夫だった、はず、なのに」
「大丈夫に、する、はずだった、のに」
瞼を固く閉じると、その奥で光が絶え間なく点滅するのが見える。ヒューヒューと空風のような音が聞こえる。隙間風だと思ったのに、自分の吐息だった。
不意に背中に温かみを感じ瞼をそっと開けると、先生が湯呑を差し出してくれた。
「ゆっくり飲みなさい。吐き出していいから」
視界にバケツらしき物を認識すると同時に湯呑を手に取り先生の忠告を聞けずに勢いよく口に含み喉に通した途端、また吐き気が舞い戻り、バケツをひったくるように手に取り、盛大に吐き出してしまった。
「落ち着いて。ゆっくり吸って。吐いて。キサカ。温めの水持って来て」
「だ、大丈夫なのかよ」
不安げな男性の声音が耳に入り、見知らぬ人に迷惑をかけて申し訳ないと思い、頭は一応正常に動いているんだなと冷静な自分を実感しながらも、現実にいるのはゲーゲー吐き出す情けない自分だった。
「悪いけど、先生。キサカ。俺と葵、二人だけにしてくれ」
玄関の扉が何時の間に開かれたのか。突如現れた草玄は音もなく葵に近づき、膝を曲げて先生に代わり背中をゆっくりと擦った。
「先生。キサカ。ありがと。あとは俺に任せてくれ」
「けど「分かった。草玄」
キサカの発言を遮った先生は真直ぐに草玄の瞳を見つめた。
表情や発する雰囲気こそ、危うい感じはするが。
「お湯はキサカに沸かせているわ。場所分かるわよね」
「ありがとな」
「いいのよ。キサカ。行くわよ」
「あ、ああ」
先生に腕を掴まれ半ば強引に連れて行かれるキサカの瞳に映ったのは、身体も表情も硬直させながらも、未だに嘔吐を続ける葵の姿だった。
「先生。大丈夫、なのかよ?」
『仙水門』から出た先生はそれでもキサカの腕を掴んだまま歩みを止めずに、何処か目的地があるかのように迷いなく進んでいた。
「大丈夫よ」
「けど、あいつ。何時もの陽気な感じが全然なかったしよ。どっちかっつーと、怖かったぜ。あの女も怯えてるみたいだったし。もしかしたら」
「その時は私が殺すわよ」
素っ気ない物言いにも関わらず、キサカは喉元に拳銃を突き立てられたように感じ、知らず、ごくりと唾を呑み込んだ。
「莫迦ね。本気に取らないでよ。私みたいなか弱い人間が人を殺せるわけないでしょ。この蚊細い腕で足を踏ん張らせて頑張って一発顔面を殴るだけ。殺せないわ」
(もしかして、先生)
その淡々とした口調に、或る考えが過ったキサカはそれ以上何も言えずに、黙って先生の後をついて行った。
「ちょっとは落ち着いたみたいだな」
嘔吐が漸く止まった葵にそう告げるや、草玄は液体だけが入っているバケツを便所へ持って行って流した後水で灌ぎ、戻って葵に差し出して葵が受け取ると、背中をまたゆっくりと擦り始め、そして、葵の横顔を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
見えるのは硬い表情。彼女は未だに一度も自分を見ようとはしていない。
「さっきの。めちゃめちゃ腹立った。悲しかった」
たった一瞬間。目が眩みそうなほどに怒りが襲ってきたかと思えば、次に訪れたのは暗闇に覆われたかと思うほどの、孤独感。そして、灰色の線の雨が降り注ぐ世界に放り込まれたような、虚無感。
「……」
「俺だけなら別に良かったんだよ。けどおまえは、限樹を否定したんだぞ」
『孕まされた』。つまり、産む意思がなかったということ。
あれは彼女の本音だと思う。最も、本人も自覚していなかったのだと思うが。
「おまえは知らないだろうがな。限樹はずっとおまえに棄てられたって思ってたんだよ。紙切れ一枚残しただけで。そう思うのも無理なかったんだよ。俺も、嘘でも死んだって言ってやりゃあ良かったのに、そうしなかったから。おまえだけを責められねぇ。けど、やっぱ」
「おまえは自分が死んだとこを見せるべきだったんだ」
葵に何の反応もないように見える。一応、表面上は。
「神様に聞いたんだ。おまえ。自分が死ぬ日時。要因。一週間前に知らされるってな」
それは一つ目の葵の秘密。不死の厄介なおまけ。頭の中に文字が直接送られるらしい。
「知ってて、それで俺たちの前から姿消したんだよな。死んだとこ見せたくなくて。俺に。じゃなくて、限樹に、だろ」
「………」
「親なんて、年から考えれば子より死ぬのが普通だ。おまえはちょっと早かったけど、親として。ちゃんと死別を教えてやるべきだった。死ぬのは怖いって。別れるのは悲しいって。苦しいって。生きたいって。ちゃんと伝えてやるべきだったんだよ」
今だから伝えられる言葉。過ぎ去っているから、こんなにも他人事のように口にできる。
これが当時だったら。次に生き返ると知っていても、きっと。
「おまえは親として、きちんと限樹に向かい合うべきだった。年なんて関係ねぇ。悲しませるなんて。苦しませるなんて、当たり前だ。限樹がおまえを愛してたって。何よりの証拠だろ。それを。おまえは自分の身勝手さで限樹からも逃げたんだ。一番逃げてはいけない子どもから。おまえは」
「最低の母親だ」
伝えてもどうしようもない事を伝えている。限樹は死んだのだ。もう、謝る事すらできないのだ。塗り替える事など。
「何で…伝えてくれなかったんだよ。何で何時も肝心な時に一人で抱えんだよ。何で」
噴き出しそうになる感情を抑え、今までのように呟くように告げる。
葵の二つ目の秘密を。
「子どもを産めるの、一生に一度だけだって。俺に言わなかった」
擦るのを止め、ただ背中に当てていた手に微かな振動が伝わる。視線は未だに向けてはくれないが。
「あの世界に孕まされたって。頭の片隅にずっと引っかかって離れなかった。産みたいって欲じゃなくて産まなきゃって義務の方が強かったって。だから俺と子を産んでくれたんだろうなって。それでも良かったんだよ。俺が好きなのは間違いないだろうって。けどよ。葵から実際に言われた時。自信なくなった。俺のこと、本当に好きなのか。好きだって思い込もうとしてたんじゃないかって。葵。優しいからな。俺があんなこと言ったから、断れなかったんじゃないかって」
『俺、生きてたいんだ。葵となら、生きれるんだよ。俺』
消し去りたい言葉。こんな呪いを使わずに、一緒になりたかったと。ずっと後悔の念に苛まれてきた。
もっと甘く優しく愉しい言葉だけで共になれたらと。過去を書き替えたかったのだ。
だから。
「葵。二度は聞かない。俺のこと、好きか?」
視線を少しずらせば、隣にいる彼の表情が見える。だが動かせない。
嫌いだと言えば、この苦しみから解放されるのだろうかと考えてしまう。
違う。傍にいようがいまいが、この苦しみからは逃れられないのだ。
草玄だけが原因ではないから。
「好き……大好き」
掠れた声音が戦慄く唇から告げられる。枯れ果てたはずの涙がまた込み上げて来る。いったいどれだけ自分の身体には水分が含まれているのだろうか。
「限樹にさよなら。言いたくなかった。自分で死を認めたくなかった。だって、認めたら本当に死にそうで。怖かったの。誰にも、言えないよ」
流れ落ちる涙が次々とバケツの底に落ち、ぼたぼたと鈍い音が鳴る。
「けど。ちゃんとさよならするべきだったって。思って。思っても、もう会えなくて。謝れなくて。そう思ったら。今までの人達の顔が浮かんで。離れなくて」
愛してくれる人もいた。愛してくれない人もいた。幸福な日々だけじゃなかったのは確かで。それでも。
「私は人に恵まれていたのに。ちゃんと向かい合わなかった。皆にも。璉にも。ちゃんとさよならするべきだったのに」
「俺、は?」
目を見開き、くしゃりと顔を歪ませた。何度も、何度も、考えたけれど。
「できないよ。無理だよ。草玄だけは、どれだけ後悔しても。言いたくない」
「葵」
「自分勝手だって分かってる。それでも、無理なの。言いたくないの。死んだって。思われたくない。忘れて。欲しくなかったの。草玄にだけは。絶対」
あの日の言葉が紙切れのように薄っぺらく信じるに足らないものに変わって行く。
『幸せにしたい』。など。
一度も幸せにしてあげられなかったのに。
(何で、私はこんなに)
けれど涙に沈んでいるだけなど嫌だ。自分だけが辛いと弱音を吐くだけなど。それに。
こんな卑怯な手で留めさせる事だけは。
(絶対に嫌だ)
けどもう、自分の心に背きたくもない。嫌いなんて、口にしたくない。
出口が見えない。暗闇に彷徨うだけ。違う。その場で辺りを見渡すだけ。一歩も動いてさえいないのだ。何処へ進めばいいのか分からずに、佇んでいるだけ。
きっと彼はずっと一緒にいてくれるだろう。以前に告げてくれたように不死の力を手に入れて共に、生きようとしてくれるだろう。
全部くれる人。なのに自分は全てをあげられない。
もっと幸せになれる人なのに、自分が彼の幸せを遮っている。
「「ごめん」」
重なり合った想いに、葵は咄嗟に草玄の顔を見た。
つい数時間前に見たのに、もう久しく会っていないように懐かしい。
「何で、草玄が謝るの?私が悪いのに」
「葵のこと、信じられなかったから。限樹のことは、事実だと思うけどよ。あいつは、結局はおまえを。母さんを信じるって。遊び人だからってあちこち旅すんのは仕方ないって、笑って納得してたから。だから、もうそのことで自分を責めるな」
「…優しい子に、育ったんだね」
「ま。生意気だったし、早くに自立したしな。俺必要なかったな。みたいな」
「そう」
「……葵」
草玄は向かい合った葵の頬にそっと触れた。
「葵。俺、いいんだよな?おまえの傍にいても。必ず、不死の力手に入れるから。苦しい時、悲しい時。おまえの心、楽にさせる。絶対だ」
「ごめん」
「謝んな」
「……」
「俺を信じてくれ。頼むから。な」
優しく、ただ本当に優しく包むような声音。自分には勿体無いほどに心地よい。
(もう、十分。もう、大丈夫だ。だから今度は)
葵は自分の頬に触れる草玄の手の上に自分の手を重ねた。
「草玄。好きだよ。大好き」
「なら」
「けど。ね。草玄より」
「好きな人ができたの」
「何処のどいつだ?」
反応は素早く、疑いの眼差しが一直線にぶつかる。葵は逃げずに受け止めた。
「
「会いに行く」
(…こう、なるよね)
予測はしていたもののあまりの即決にたじろぐ。
「でもあちこち旅してて。何処にいるのか分からない人で。その。私も草玄以外に好きな人ができて。だから草玄も―――」
目元を険しくさせている表情を向けられ、思わず口を噤んでしまった。
「あの」
「どうしたら、俺を信じてくれんだよ?」
「信じてるよ」
「俺に好きなやつを作らせようとしてんのにか?」
「だって。私に好きな人ができたから。これ以上、草玄の気持ちには応えられなくて。だから草玄も、好きな人を。草玄を、もっと幸せにしてくれる人、必ずいるから」
「おまえの傍にいられるだけで、幸せなんだよ。信じられないか?」
「だから、私にはもう草玄を幸せにしたいって。思えないの。槇を。彼を幸せにしたいって。そう思ってて」
「俺は、認めないからな。少なくとも、その槇ってやつに会うまでは絶対だ」
「分かってる。でも。草玄。この星の唯一の王子で。そんな長旅できないだろうし。それに、やらなきゃいけないこと、たくさんあるでしょ?」
「後継者を生み出す、とかか?」
「そう、だね。それもあるね」
「子ども産めないから幸せにしてやれないって、そう思ってんのか?」
「それは、関係ない。ただ他に好きな人ができただけ。それだけ」
「……分かった。なら俺は王子を降りる」
「冗談止めて」
「後継者はちゃんと見つける。親も納得させる。元々、王子なんて性に合わねぇし丁度良かったんだよ」
「そんなことされても、困るだけ。迷惑」
「俺が勝手にやってんだ。葵は関係ない」
「嘘」
「自意識過剰。自惚れ」
「……泣いてたじゃない」
「?」
「限樹生まれた時、すごく嬉しそうにして。泣いてたじゃない。抱き上げた時も、すごく嬉しそうで」
「だから葵の他に好きなやつ見つけて子ども産ませて感激しろってか。冗談じゃねぇ。限樹はおまけだったんだよ。おまけ。本命は葵。葵抱けるだけで幸福の絶頂期で。その後に葵と俺の子が奇跡的に生まれて、思いもかけない幸福。みたいな感じで。子どもじゃねぇ。葵と俺の子だから。葵だからだよ。あんなに、感激したの。思いもしなかったんだよ。気持ち悪いってずっと思ってたのによ。葵が泣いてたから。貰い嬉しだよ。貰い嬉し」
(この、分からず屋)
「いいじゃない。前世で私と感激共有できたんだから。現世では違う人と共有すれば」
「だから抱きたいのはおまえだけっつってんだろ」
「色気なし演技なしの私抱いたって全然気持ちよくなかったでしょ」
「気持ち良かったよ。すげー夢心地だったよ」
「嘘ばっかり。物足りないって寝言で言ってた」
「当たり前だろ。たった一回で子どもできるなんて思うか。もっと。抱けると思ってたんだよ。あ~。どうせ俺はエロいよ。けどな、男なんて所詮欲望の塊なんだよ。その槇ってやつも同じ穴のムジナなんだよ」
「槇は淡々としてます。そう言うのに全然興味なしです」
「何だ。空想のやつか。だよな。そんなやつこの世にいて堪るかっての」
「誰もが自分と同じだと思わないでください。その証拠に璉とか孔冥も草玄と全然違うし」
「莫迦だな。おまえの見てないとこでエロいことしてるに決まってんだろ」
「してません」
「認めたくないのも分かるけどな。現実なんてそんなんだよ」
「ああ。そう。じゃあ草玄は私とずっとエロいことしたいって思ってたんだ。四六時中。ご飯も食べないで寝ないで」
「誰もそんなこと言ってないだろ。エロいこともだけどよ。なんつーか。普通のも。いろんなこといっぱい、経験したかったんだよ。二人…孔冥も。とよ。他にもいろんなやつとも。でも隣には必ずおまえがいるんだよ。二人きりの時も。大勢の時も。全部。全部おまえと一緒に経験したかったんだよ」
(どんどん圧迫されてるな)
押し黙った葵は未だに自分の手に手を重ねており、無意識に力を籠めているのか。草玄はどんどん押し付けられているのを感じる。
(まぁ、痛くはないし別にいいんだが。葵は頬を自分のと俺の手で押し付けられて喋りにくくないんだろうか)
恐らく、頭の中が目の前の事だけに集中しており全く圧迫感を感じていないのだろう。
(……やべぇ。やっぱ、可愛い)
そんなことを思っている状況ではないのは百も承知なのだが、一度そう認識してしまってもう取り消す事などできなく、思考に連れて筋肉が勝手に動いてしまった。
「何で、笑ってるの?」
「いや。その。葵はやっぱ、可愛いなって」
「…どうせ私は威厳も何もないですよ」
「また変な解釈して。どうしておまえは素直に言葉を受け止められないんだ?」
「どーせ私は素直じゃないですよ。ひねくれていますよ」
「でもそーゆーとこが可愛いんだよな」
「誤魔化さないで」
「本音を口にしただけだ」
どれだけ目元を険しくさせても、頬を押さえつけているのにさえ気付いていない葵に愛おしさが溢れ出し、訳も分からず噴き出してしまった。
「何よ」
「おまえ、自分の片頬。すげぇ押し付けているのに気付いてないのか?」
「な……」
すぐさま反論しようとした葵だったが、その前に視線を前の草玄からほんの少し右にずらし、自分の手を認識するや否や、バッと手を離し、圧迫から解放された草玄もまた名残惜しそうにゆっくりと手を離した。
「わざとだし」
「頬、赤くなってるぞ」
「いいの」
葵が顔を背ける前に、草玄はそっと赤くなっている頬に手の甲を当てた。
「俺のこと、考えてくれてたんだよな」
正直、全く嬉しくない申し出だが、葵は葵なりに自分の幸福を願っているのだと実感させられて。嬉しいやら悲しいやら。が本音だ。それでも心は温かい。
「葵。愛してる」
溢れ出して止まらない。それでも急かすことなく、噛み締めるように告げる。
「愛してる」
一時の感情に流されては未来を棒に振る事がある。今がその状況。
葵は草玄の手をそっと握って頬から離すと、素早く離れた。
「それは、この世界で好きになった人に言ってあげて」
「おまえもこの世界の人間だ。どうして自分は死んだようなこと言うんだよ」
「あなたにとって私はそうであるべきなの」
「でもおまえは生きてんだろ!」
肩を上げ声を荒げた草玄は葵の表情から目を逸らさずに、肩をストンと落とし、心を落ち着かせた。
「おまえ。生きてんだろ。なのに、どうして。おまえがいいんだよ。おまえが。俺を幸福にすんのはおまえなの。分かってくれよ。全部なんて。要らねぇよ。持ちきれねぇよ。今の分で十二分なんだよ」
(どうして、優しいことばっか言うのよ)
決意が鈍くなりそうになる自分に眼を飛ばす。
「私はもう、あなたを幸せにできない。無理なの」
「子どもだけが人生なのかよ。子ども産むだけが夫婦なのかよ」
「違う」
「なら何で」
(絶対に後悔するからよ)
だがそう告げた所で余計彼を奮い立たせることは明白だったから。
「私のこと好きなら、私の願い聞いてよ」
「嫌だ」
想いを振り絞って告げた言葉を呆気なく否定した草玄に、葵はだんだん腹が立って来た。
「この。分からず屋!」
そして、それは草玄も同様で。互いに足を床に踏ん張らせ、丸めた拳に力を入れた。
「それはこっちの科白だ!」
「何よ!幸せになって欲しいって言ってるだけでしょ!」
「他に好きなやつ見つけろ。なんて簡単に口にしてんじゃねえ!」
「草玄を好きになってくれる人なんて、山ほどいるわよ!」
「何を根拠に「私が好きになったんだもの!私が…私だって惚れたんだから、いるに決まってるでしょ!莫迦!」
(……この)
「俺の気持ちはどうなんだよ!好きになられたって。俺が好きになんなきゃ意味ねぇだろうが!」
「私みたいな変人を好きになったんだから、他の人を好きになるに決まってんでしょ!」
肩の力を抜き、声を荒げての攻防戦を止めた二人は、次に静かなる戦いに突入した。
「…どんな理屈だよ」
「いるわよ。絶対。本当に。すごく幸せにしてくれる人」
「……莫迦野郎」
彼女を繋ぎ止める言葉が欲しい。
「莫迦だもん」
「諦めねぇよ。絶対。絶対だ」
こんな拙い言葉ではなく、もっと。もっと心を揺さぶるような言葉を。
(何でお互い好きなのに離れなくちゃいけないんだよ)
全部なんて要らないのに。たった一欠けらでも。その周りを自分の想いで包んで膨らんで、一杯になるのに。それだけで、十分なのに。温かいのに。嬉しいのに。幸せなのに。
強がりでもない。これが正直な気持ち。
(そりゃあ、少しは甘えて欲しいとか、思うけど、よ)
ふと思ってしまった。もっと。もっとと欲を出さないから。想いが足りないのでは。と。
つまり。甘えて欲しいなら、自分がまず甘えるべきだと。
(いや、けどもう十分に甘えてる、よな。これ以上んなことしたら、情けなさ過ぎじゃね?)
冷静な自分が痛い所を突いてくるが、無視する。
「葵が欲しい」
「何よ。結局…性欲じゃない」
「もう、何でもいい。抱きたい。全部。余すことなく、葵を抱きたい」
「嫌」
「俺も嫌だ」
「近づかないで」
「嫌だ」
「嫌いになるから」
「……じゃあ、キスだけで」
「嫌」
「後ろから抱きしめる」
「嫌」
「手を繋ぐ」
「嫌」
「ご飯奢る」
「……嫌」
「おまえは食欲じゃねぇか」
「誰にも迷惑掛けてないでしょ」
「料理人に迷惑掛けてんだろ」
「……自分で、作れば、別に」
「食材は?」
「…種から自分で栽培する」
「種はどうやって手にするんだよ?」
「お店で買う」
「食欲も迷惑掛けてんよな」
「………」
「どうだ。ざまぁみろ」
「睡眠欲なら誰にも迷惑掛けてないし」
(…何でいきなり睡眠欲なんだ?)
そもそも何を言い争っているのか。論点からかなり離れているだろうと疑問に思うが。言葉のやり取りを中断させたくないので、指摘しない。
「寝るには建物。布団が必要だよな」
「野原で寝れば。枯れ木の上とかなら誰にも」
「冬なら凍死すんじゃねぇか」
「かまくら作ってその中で寝れば」
「大体服だって他人が作ったもん来てるだろ。他人に迷惑掛けないで生きるなんて無理なんだよ」
「その人たちは好きで作ってるから迷惑じゃない。負担を掛けてるだけ……じゃなくて。何で話ずらすのよ」
「葵が先に始めたんだろ」
「それは、すみませんでしたね。じゃあ、戻しますよ」
告げると同時に両の手を右から左に弧を描いて小さく動かした葵。一息ついてから言葉を発した。
「私は好きな人ができた。だから草玄も好きな人作って。以上。じゃあ」
くるりと背を向けその場を去ろうとした葵の腕を草玄は後ろから咄嗟に掴んだ。
「このまま孔冥に頼んでいなくなる気だな」
「…昔の女は姿を消すべし。が基本」
「槇ってやつに会わせろ。話はそれからだ」
「だから草玄はこの星から出られない「来い」「ちょ」
手を握られ強引に或る方向へと連れて行かれた葵は草玄の後ろ姿を見ながら、それ以上は抵抗の意志を見せることなく黙って歩み続けた。
「親父。おふくろ。俺は王子を止める」
―――鴻蘆星の城。真っ白な外壁に囲まれた城の中は淡い茶色の木の内壁で成り立っており、温かみのある空間を創り出していた。
自室でくつろいでいた両親、剛毛な烏色の髪の毛と髭に強面の顔の大男の五十の父、サルガと、巻貝のようなクリーム色の髪型に目尻の上がった目を隠すような丸い眼鏡を身に付ける長身の母、ミヤクは突然の息子の申し出に椅子に座ったまま一拍、互いに顔を向い合せた後、彼の隣に佇む少女に視線を送った。
「草玄。その娘は」
「俺の「元彼女「元で現でもある彼女。前世で俺の妻だった「前世です。昔です。今は全然関係ないです「今も関係を持ちたいと思ってる女性だ」
「交互に話さないでくれないか。頭がこんがらがる。え~。あなたの名前は「名「葵だ」
言葉を遮られ草玄を睨むも、本人は素知らぬ顔で両親に顔を向けている。
「親父。おふくろ。悪いが俺の人生は俺のもんだ。俺の好きに生きる。王子を止める」
「止めて、どうする気だ?」
途端、目元を険しくさせたサルガの態度に、一気に空気が重苦しくなった。
「葵と共に或る男を捜す。その後は分からない」
「何故王子を止める」
「性に合わねぇから」
「それだけざますか?」
サルガとは対照的に感情を全く浮かべていない真顔を向けるミヤクに、草玄はちらと葵を見て、顔を向けて言葉を発そうとしたのだが。
「彼は子を産めない私の為に王子を辞めようとしています」
「葵。な「でも私には好きな人がいて。そんな事をされても困るだけなのです。気持ちは変わらないから。突然来て何を言い出すのかと気分を害して申し訳ありません。ですが、私の力不足で一人では彼を説得できなく、お母様とお父様に彼の目を覚ましてもらおうと思い、ここまで付いて来てしまいました」
自分たちを一心に見つめる葵に、ミヤクは数秒その視線を受け止めて後、草玄へと視線を戻した。
「草玄。彼女はこう言っているざますが」
「葵の気持ちは、そうらしいけど。俺は葵といたいんだよ。諦められねぇ。お互い好きなんだよ」
「好きです。でも、彼以上に好きな人ができたんです」
「それが或る男、か。草玄。その男を見つけてどうする気だ?」
「分からねぇ。けど、そいつを見ないと、答えを見つけられないんだよ」
「諦めなさい。草玄」
「嫌だ」
「……分かったざます」
ミヤクが目の前の机の上に置いてあるボタンを押すや、数秒も待たずに一斉に十数人程の城の近衛兵たちが自室に押しかけて来た。
「草玄を地下の牢に閉じ込めてください」
「おふくろ!」
「頭を冷やしなさい」
「草玄」
「おや……じ」
椅子から立ち上がり草玄の前に立ったサルガは、自分の身長の半分ほどの草玄の首根っこと掴み片手で軽々と持ち上げた。
「離せよ!」
「母さんを悲しませるのか。おまえは」
「おふくろ以上に大切な女なんだよ!」
その発言を受けて、ぐっと、口を強く結ぶ。
「あなた。お願い」
「離せってば!」
「ふん。痛くも痒くもないわ」
顔面に息子のへなちょこパンチやキックを喰らおうが全然堪えないサルガはそのまま草玄を掴んだままその部屋から去って行った。
「もう彼の前に姿を見せません」
「待って。もう一度だけ。あなたの本音を聞かせて」
「……私は―――」
背を向けたまま口にする葵の言葉を、ミヤクは黙って受け止めた。
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