第17話 迷宮の彼方に隠した秘密、真っ白な世界だった(8)

『てことで俺と結婚してください』

『………いきなり『てことで』て言われても何がどうなっていきなり結婚を申し込まれたのか分からないんですけど。しかも。この状況で』



―――『和国』の首都『守未』の城の中にて。


 壁と床を新しく変えた城の一室で町の代表者たちと話し合っていた葵の目の前の扉が突然開かれたかと思えば、姿を現したのは白無垢の装束に身を包んだ草玄で。


『とりあえず、こちらに』

『葵様』


 町の代表者の一人、長く白い眉毛がご自慢の老人男性、通称仙人に呼び止められた葵は草玄を違う部屋へ連れて行こうとしていた動作を止め彼を見た。


『そのお方はたしか『珂国』の宰相でしたね』

『ええ』

『葵様は併合はしないと言うお意見でしたね』

『はい』

『私たちも併合はされたくないと申しましたね』

『はい』

『つまりは別居ですか』

『……は?』


 目を点にする葵に、仙人はひょっひょっと笑い出した。他の代表者も何故か笑みを浮かべている。


『草玄殿、でしたね。災難ですの~』


 仙人に話しかけられた草玄は彼の前に歩を進め、膝を曲げ正座で相対した。


『いや~。そうなんですよ』

『いやいや。ちょっと』



(ドッキリ?ドッキリですか、これは)



 今のこの状況下に適さない和気藹々とした雰囲気に戸惑っているのは自分だけなのかと疑わずにはいられない葵であった。



『葵様。良かったですの~。これでわしも肩の荷が一つ降りましたわい』

『いやいやいやいや。ちょっと待ってください。この状況についていけないんですが。どうして皆さんは朗らかにされているのですか?』

『求婚する場面に遭遇したのですから当然では?』

『そうかもしれませんが。つい先程まで緊迫した状況でしたよね。これから国はどうなるか、と険しい表情を浮かべてましたよね』

『それはそれ。これはこれ。葵様。切り替えが肝心です』

『いや~。確かにそうかもしれませんが』



 あまりの変わりように舞台上にいる気がしてならない。もしくは夢。



(そうだ。夢に違いない。うん)



『痛い。夢じゃない』

『求婚されて嬉しさの余り夢だと思われたのですか?奥ゆかしいですな~』

『仙人』

『時代が動いたのです。喜ばしいではないですか』


 恨まし気に見つめていた葵だったが、その言葉と柔らかな微笑に真顔にさせられた。


『平和協定など。こんなにも早くに実現するなど思いもしませんでした。しかし存外、こんなものなのかもしれませんね。噛み締める暇さえないほどに、目まぐるしく事は運ぶ』

『まだ、実現していません』

『しますよ。ええ。感じますから』

『…死ななくていい人たちが死にました』

『誰もがそうです。他人に殺されていい者など、この世にいません』

『私は、草玄殿と結婚するつもりはないです。するのなら、和国のこの中にいる者とします。今日はこれでお開きにしましょう。結論が出たので私は更級王に会いに行きます』


 足早矢にその場を去った葵に、仙人はため息をついた。




『葵様にとって、あなたは余程大切な人らしいですな』

『どう、ですかね。彼女は俺がいなくても大丈夫ですから』



 二人で町を散策している時だった。焼け焦げた家屋が一掃され今は木が丸裸で組み立てられている最中であり、作業する合間を抜けながらそう告げた草玄に、仙人はひょっひょっと笑い出した。



『そんなもんですよ、夫婦など。互いにいなくとも大丈夫。或る年に達せばいなくなれと思い、或る年に到達すれば、まぁ、独りよりはまし程度と感じる。あなたのように何時までも傍にいたいと考えるのは稀ですよ』

『俺は、何時までもそうですよ。断言します』

『お若いですの~。葵様はさぞ大変ですな』

『断られました。もう、無理でしょう』

『バッサリ切りましたね。さすがは葵様。迷いなく口にする。ですが、本音ではありませんよ』

『何故そう思われますか?』

『あの方は口にこそしませんが今回の件をご自分の失態と感じています。彼らに会わなければ。提案しなければ、死ななくて済んだのにと。ええ。口にはしません。過ぎた事を告げたとて、何もなりはしませんからね。ですから、前だけを口にする。王に名乗り出ただけはあるお方です』



 誇らしげで、ほんの少し憂いを含んだ横顔を、草玄は歩きながら見つめていた。



『幸せになる資格などないと、お考えなのでしょう。でも、子を産む必要はある。だから先程の言葉を申された。あそこにいた男の者は誰もが和国の為に尽くせるものばかり。私としましても、結婚するのは構わないのですがね。恐らく、巧く行くでしょうし』

『……俺、邪魔じゃないですかね』

『……言われてみると。冗談ですよ。本気に取らないでください』

『好きと言う感情だけでは、足りないのですね』

『襲ってください』



 あまりに素っ気ない言葉に思わず了承しそうになった草玄はだが、その言葉を頭の中で反芻させ意味を読み取って五秒経過した後、仙人から視線をサッと逸らした。



『いや。俺おじいさんはさすがに許容範囲を超えていると言うか』

『私にも愛する妻がおりますので金をいくら積まれても遠慮します』

『…じゃあ』

『葵様ですよ。子ができれば観念して結婚するでしょう。私が了承します』

『いやいやいやいや。あなたに了承されても。と言うかあなた本当に和国の人ですか?』

『そうですが、何故ですか?』

『いや。和国の者は奥ゆかしい者が多いと聞いていたので、そんなあけっぴらに襲えなど言う人がいるなど思いもしませんでした。冗談、ですよね』

『はぁ』

『……え、何ですか?その溜息は』

『いえ。葵様はきっと戻り次第町の男と結婚し子作りするだろうなと思うと、孫のようでしたので。寂しくなりました。いえ、喜ばしい事なのですけどね』

『脅迫ですか。屈しませんよ』

『いえいえ。ただ単に事実を申したまでですが。はぁ。切ない』



(……このじじい)



 いきなり弱弱しい姿を見せ始める仙人。こほこほと訳の分からない咳まで出し始めた。






(……何でこんなことしてんだ、俺)


 数日後。『珂国』から戻って来た葵だったが、出迎えた自分に気付きこっそりと城に帰った事を孔冥から聞かされた草玄は今、城の中にある女湯の中で岩陰に身を潜めていた。


(気が狂ったとしか思えねぇ)


 仙人と孔冥の言われるままにここまで来てしまい、葵が来るまで待ってしまったが、いざ彼女が来てしまうと、罪悪感に苛まれ、見ないように背を向ける。


(そりゃあ、他の男に抱かれるよりは無理やりでも……あ~、何やってんだよ。俺)


 今すぐにこの場を遁走したい。だが葵に見つからずにそれを成し遂げるのは不可能だ。


(つーか。何で風呂場だよ。普通寝所だろうが)


『身を綺麗にしてから襲ってください』孔冥の言葉である。葵の事を想っているのかそうでないのか、線引きが難しい発言である。


(あいつら絶対俺ができないと思ってやってんだろう。そうだよ。やらねぇよ。誰が本能なんかに負けるか……そうだよ。これは試練だ。試練。葵をどれだけ想っているかを自分で思い知る為で)


 一旦力ませた身体の力を一気に抜かせ、嘆息をつく。


(ほんと。何やってんだか。俺は。莫迦みてぇ。つーか。莫迦だな。ハハ……つーか、葵長くないか)


 すでに葵が来てから小一時間は経過している。湯船に浸かる音がしてからは恐らく四十分ほど。しかし未だに湯船から出る音は聞いていない。


(ま、あ。風呂の長いやつは長いって言うしな……のぼせてねぇよな)


 実態を知る為には後ろを振り向く必要がある。しかしそれでは見てしまう。草玄は首を激しく左右に振った。


(誰がその手に乗るかよ。俺をなめんなよ。ウハハハハ………仕方がねぇ。見つかったら見つかったで俺の人生終わるだけだしな。さよなら桃色の世界。まただね灰色の世界)


 訳の分からない自作の歌を頭の中で口ずさみながら、葵の方を見ないように匍匐前進でその場を去ろうとしている草玄。さらりと『葵殿はのぼせてはいませんかね』と城の女官に忠告せんと必死で手足を動かしていた。




『葵殿はのぼせていませんかね?』


 色々なものに打ち勝った草玄は今、女官を捜し出し想像通りにさらりと告げるも、何故そのような事をと怪訝な視線を向けられていた。

『いえ。話したい事があるから捜していたのですが、風呂に入ったと告げられましたのがもう一時間前の事で。なのに姿が見えないのはまだ風呂に入っている最中なのかと思い。要らぬお節介だとは思いましたが』


 その言葉と朗らかな笑みに漸くその視線を解いた女官は柔らかい口調で告げた。


『ええ。葵様は長くお風呂に入られますので。ですが、そうですね。念の為に見て来ます。忠言、ありがとうございます。客間はお分かりですか?』

『ええ。ありがとうございます』








『話し合おうか。孔冥』

『自分に打ち勝ちましたね、草玄。さすがです』

『おい』

『いや~。滅多にいないよ。あなたすごい。男の中の男だよ。よ。和国一』


 自室で酒を飲んでいた孔冥と仙人に猛速急で詰め寄る草玄。余りの速さに残像が見えた。


『あんたらね。俺がどれだけ葛藤したか。分かる?』


 やってられないと言わんばかりに酒をがぶ飲みした結果、草玄は仙人同様にかなり酔ってしまった。一方、二人と同じ量を飲んだはずの孔冥はそれでも、そんな二人を涼しげな表情で見つめている。


『裸観たい欲求を抑え込みましたよ。そりゃあもう。拳でがんがん叩きこみましたよ』

『えらい。さすが。男はそうでなくちゃいかんよ。あなたはえらい。立派』

『そーでよ。こんだけ頑張ったの、初めてかもしれないですよ』

『うんうん。よくやった、よくやった。さぁ。じいちゃんが抱きしめてやる』

『いや。よぼよぼの爺さんの胸は遠慮します』

『じゃあ葵様と思いなされ。さぁ』

『……すいません。酔いが冷めてきました。何故か婆さんが思い浮かびます』

『葵の忠告が刻まれているようですね』

『これはちょっとしたあれだな』

『やっぱり姿形は重要ですね~』

『莫迦にすんなよ。葵が数億歳の婆さんだろうが。仙人。俺を受け止めろ』

『おっしゃ。来い』


 仙人の胸に飛び込む草玄。きちんと背に手も回して力強く抱きしめた。


『愛を感じますよ、草玄』

『うんうん。これが本当の愛だ。えらい。えらいぞ』


 仙人は草玄の頭を震える手で激しく撫でた。酒の所為で加減が聞かないのだ。




『じいさん。しこたま飲んだみたいだな』


 酔いつぶれ床に横たわる仙人に、孔冥は布団を被せた。


『まぁ、飲まなければやってられないのでしょう。奥様を先の襲撃で失いましたしね』

『…そうか』


 胡乱な瞳の草玄はぐびりと酒を口に含ませ喉に通した。


『意味の分かんねぇ事件だったな』

『そうですか』

『だってよ。数世紀前だぜ。数世紀前。大体、他の国とも戦してんだろ。何で和国だけ』

『色褪せられるのが、怖かったのではないですか?自分たちの祖先を奪った憎き敵なはずなのに、このままではなかよしこよしになり、その感情が消え去ると。それに和国に標準を合わせたのはきっと勝てると思ったから。『緑茄』の次に軍事面では弱かったですからね』

『…万々歳じゃねぇか』

『そうなっては犯罪が全て赦されてしまう。違いますか?』

『だからと言い捌け口を違う方向へ向ける道もあったはずだ。犯罪を憎むなら犯罪を消す方向に。違うか?』

『…あなたみたいな人がいれば、戦はもう少し早くに終結したでしょうに』

『今からそうなるんだ。悲嘆ばかりは、してられねぇだろ』

『ですが、人はそこまで上手に隠しきれない。葵が長く湯船に浸かっている理由、分かりますか?』

『泣いてんだろ』

『聴きましたか?』

『聴いてねぇ。けど。分かるさ。一人になる時くらいしか、もう泣けないって思ってんだろ。俺の前でも、もう泣いたしな。人の忠告、聞きやしねぇ』

『恐らく、今まで目を背けていた方たちの事も思い出したのでしょう。この世界の方はそれほど葵にとっては。何でしょうね。上手い言葉が見つかりません』

『数千年。ずっとここにいたのか?』

『いいえ。天上にもいましたし。数千年の半分はそこで過ごしていました』

『おまえはずっと一緒にいなかったのか?』

『ええ。私にも野暮用がありますので。四分の一、くらいですかね』

『不老不死と不死。どっちが辛いんだろうか』

『さて。比べられはしないと思いますけど。私なら今の葵の状況を選びますね。多くの方と接せられるし、変化もありますし』

『…俺は、まぁ、若々しいままがいい、かな』

『で?』

『……どーしたもんかね。葵も他の男と巧く行きそうだと分かったしな』

『では、来年あなたの隣には葵ではない女性がいると?』

『……近くにいても、回り逢えない時も、あるよな』

『襲えと言ったのは、半分本気でしたよ。そうでもしなければ、葵はあなたと共に生きようとはしないと確信してましたから』

『できるかっての』

『分かっていますよ。はぁ。奇跡が起きませんかね。もうどうしたらあなたたちが共になれるのか分かりませんよ』

『奇跡って』

『……何かの勝負をして勝った者が葵と結婚できる、と言うのはどうですかね』

『は?』

『そうですよ。これですよ。と言うかこれしかないですね』

『それはいい提案だ』

『仙人。起きてたのかよ』


 立ち上がった孔冥に呼応するかのようにキョンシーのようにすっと立ち上がった仙人。二人は時間がないと言わんばかりにその場を去って行ってしまった。


『……まぁ。それしか、ないだろうな』


 小さく呟いた草玄は一口酒を喉に通し、すっと立ち上がってその場を去った。








『………』

『………』

『葵。もう観念なさい。あなたも了承したのですからね』

『よ、よろしく、お願いします』

『交換で』

『交換不可能です』

『だっておかしいでしょ。参加した人皆がお腹を壊すって』

『何を言いますか。草玄も壊している腹を押して来たのですよ。条件は一緒です。来ていないのはあなたへの愛が足りないのです。愛が』

『愛って』

『ちょ。悪い。俺もう限界』


 腹を押さえた草玄は駆け走る。何処へだって?便所だよ。


『兎に角。もう決定したのですから覚悟を決めなさい』

『………………分かった。直ぐに離婚すればいいわけだし』

『他国同士でそんなことできるわけないでしょ。それに更級王から言伝が。『勝負は勝負ですから覚悟を決めませんと輸入輸出一切お断りします』真矢王と『緑茄』の未玖みく王からも同様の言伝を。あと新たに平和協定に調印した『弥府』の砂臥さが王と『樂津』の司馬王に『栴駕』梅蘭ばいらん王からも。『そんなに早く離婚する人間など信用できない』との文が』

『後半絶対嘘でしょ』

『別に信用したくないのならそれで構いませんよ。民を苦しい目に遭わせたいのでしたらね』

『脅迫じゃない』

『あなたは王なのですよ。こんな事もあります』

『…理不尽』

『世の中そんなものでしょう』

『…………………分かった。更級王に会いに行って来る』

『その前に、夫の体調を気遣ってあげなさい』

『……夫』

『夫です』

『乙戸』

『それは地名です』

『オットセイ』

『葵』

『…分かってる……行って来る』




『これから、よろしくお願いします』


 慇懃不遜と言った感じで頭を下げる葵に、よろけそうになる身体を必死に地に対して真直ぐにさせる草玄。痛むのは腹だけではなかった。


『葵』

『子ども、産みたくないって言ってたよね?』

『あ、あ』

『今も?』


 真直ぐに向けられる瞳から背けられるわけもなく。


『ああ』

『…分かった……お腹痛いのに無理してくれて、ありがと。ごめん。手、貸す?』


 落胆したわけでもなく淡々と言葉を受け取った葵は草玄に手を差し出し、草玄はそっとその手を取り、共にゆっくりと歩調を合わせて歩き出した。互いに、視線は城の方へ。


『葵』

『ん?』

『ありがと』

『……………私。幸せに、できないよ』

『葵』

『それでも、本当に、いいの?』

『俺は………』


(葵を苦しめる、だけなのか?)


 幸せを望まないと、仙人は言った。多分、それはその通りだと思う。自分で自分に課した枷。葵自信が解かない限りは、ずっとそのまま。莫迦だな、など思えやしない。


『俺は、葵の傍にいたい』

『別居だし』

『ずっとじゃなくて助かったな』

『うん』

『葵』

『ん?』

『もう、一人で泣かせないからな』

『泣いて、ないし』

『年だから意味もなく泣き出したくなる時もあるんだよ』



 様々な感情が駆け巡り、頭がおかしくなりそうだった。

 優しくされたくなど、ないのに。

 この人を夫に迎える事が、これ以上ないほどに、苦痛だったのに。


(帳尻、合ってるんだ)


 自分は。けれど隣にいる人にとっては、いい迷惑。

 幸せになって欲しいのに。どうしてこんな。


 なら幸せにすればいい、など。できるわけないのに。


(何で、私なんか好きになったのよ)



『草玄。苦しい。あなたの傍にいると、苦しくて堪らない』


 言葉になどしたくなかったのに。


『ああ』


 だって言葉にしたら、身の内から感情が零れ落ちて行く。


『それでも?』


 そしたら、私は自分で自分を赦してしまう。


『ああ』


 それだけは、絶対に駄目なのに。


『どうしても?』


 それ以外に、叶える方法を知らない。


『ああ』


 優しい彼を幸せにする方法を。


『葵。真矢王が言ってた。自分を幸せにできないのに、民を幸せになんかできないって』



 ああ。



『分かってる。でも、無理なの。自分を赦して、幸せに暮らして。何時か事件を忘れて。みんな平和で。それがいいのは分かってる。忘れてしまえばいいって。でも、忘れては駄目。痛みを忘れては。民はそれでいい。でも王だけは抱えなくちゃ。無意味でいい。それでいい。それがいい。抱え続ける』



 ボロボロと零れ落ちて行く。



『葵』



 痛みを失くして行く。



『怖いの。痛みをなくす方が。どうしてか分からないけど。手放してはいけないって。ねぇ。私おかしい?おかしいからこうなの?』



 口を糸で縫い合わせ閉ざしたい。



『葵』



 これ以上、救われない為に。



『ごめ。私、やっぱり―――』



 口を塞がれたかと思えば舌を強引に入れられた。喉を押さえられたみたいで息が巧く出来ずに、草玄の胸の衣を強く握りしめた。頭が朦朧とする中、解放させられたかと思えば、また同じ事が繰り返された。訳も分からずに、次々と涙が零れ落ち、嗚咽を発そうにも口を塞がれ叶わない。



『これからもこうやって無理やりする。おまえが莫迦なこと言わないように。別れてなんか、させてやらねぇ。痛みをなくしたくないっつーなら、俺が痛みを味あわせる』

『嫌だ』

『何だよ。おまえが望んでんだろ。俺は、おまえの夫で。義務があんだよ』


 葵は口を塞ごうとする草玄の口を両の手で押さえた。


『ごめん、なさい。ごめんなさい』



 彼は気付いていないのだろうか。

 涙を流しているのは、自分だけではない事に。

 苦しい表情を浮かべているのは、彼である事に。



(私は、どうすればいいのよ)




 瞳を固く閉じると思い浮かぶのは、樹に吊るされた死んだ人々。死んだ母。自害した『馬枝』の武官たち。息が荒くなる。身体が回る。動悸が早くなる。涙が止まらない。忘れてはいけない。忘れては。




『おばあちゃん。どうして止めないの?』


 戦争を体験した祖母は平和な世をと願い、全国各地で公演を行っていた。何度も、何度も、気が狂いそうなほどの数を。


『これでもう戦をしない世の手助けになるのなら、ね。もう、数も少ないし』

『苦しい目に遭って、どうして平和になっても苦しい目に遭わなくちゃいけないの。おばあちゃんが苦しまないと平和にならないの?おかしいよ』

『優しいね。おばあちゃんを心配してくれるのかい?』


 膝に乗っかっていた私の頭を祖母は優しく撫でた。


『この前、平和資料館に行ったの。私、怖くて、その場所から逃げたの。作り物でもそうなのに。これが現実だったら、私はどうなったんだろうって。でもおばあちゃんは現実に遭った。忘れたいのに、皆に聴かせる為に覚えなくちゃいけなくて。ノートだって。燃やせばいいのに、大事に持って。平和になったのに、おかしいよ。どうして戦争のことを覚えてなくちゃいけないの?』


『うん。そうだね。平和になったのに、どうしてだろうね。おばあちゃんも時々ね。嫌気が差して逃げ出したい時があるんだけどね。逃げられないんだよ。目に焼き付いて離れない。自分でもね、びっくりするくらい、くっきり覚えているんだよ。他のことは忘れるのにね』

『おばあちゃん。可哀想』

『でもこうして葵に会えたしね。嫌なことばかりじゃないんだよ。そう。嬉しい時は、忘れられたかな』

『なら、私がおばあちゃんを愉しませる。おばあちゃん、何かしたいことある?何が好き?ご本読んであげようか?今日ね。国語の時間で落語習ったんだよ。それで今度ね、皆の前で発表するの。おばあちゃん。どうして泣いてるの?』

『嬉しくて。年寄りは涙もろくなっちゃうの』

『おばあちゃん。忘れて。嬉しい一杯にして。戦争覚えてなくちゃ、平和になれないなんて、おかしいよ。悲しいより、愉しい方がいいよ。私、おばあちゃんが笑っている方が嬉しい』

『うん。そうだね』




 それでも祖母は戦争を話すことを止める日はなく、本当に最期の最期まで話し続けた。

 祖母の死に目には間に合わなかったが、最期に言ったそうだ。

 生きていて良かったと。






 おかしいと、幼い自分は告げたのだ。戦争を覚えていないと平和になれないのはおかしいと。

 なのに、今の私はおかしい事になっている。

 痛みを手放さない。祖母と違い手放せる手段を知っているのに。

 悲しいより愉しい方がいいなんて、当たり前の事なのに。


 どうして今の私は、おかしい事になっている?

 平和な世の中に戦争は要らないのに、どうして皆、後生大事に抱えている?


 生があれば死が。平和があれば戦争が。女がいれば男が。表裏一体で存在しなければ、この世は成り立たないのか。


 ならばどうして私は生きている?


 そんなの。

 ただ生きていたいだけだ。



(母上。父上。伯母上。皆。ごめん)



 弱い私は逃げる事で生きている。

 痛みから逃げて、逃げて、生きてきた。

 今回のことも、自分の為に目を背ける。いや。少しだけ違う。



(この人を、幸せにしたい)



 初めてかもしれない。自分を抜きに考えられたのは。ただ一心に、自分の為に泣いていてくれるであろう目の前の人の為に。生きていたいと。


 忘れない。忘れて堪るものか。

 忘れたい。忘れなくてはいけない。

 相反する心をどう両立させるか、など簡単だ。切り替えればいいだけだ。


 自分も誤魔化せるほどに巧く。

 朝と昼と夜のように。春と夏と秋と冬のように。何時の間にか廻り行く自然のように。

 それが例えば間違った方法でも今の私にはそれが限界。でも未来の私は、分からない。



(ああ、早く。強くなりたいな)



 痛みを抱えられる人間に。

 逃げなくても生きていける人間に。

 早く。




『葵、葵、あおい!』

『草玄。私』


 ほっと安堵する草玄は今にも崩れ落ちそうだった。


『急に気を失って。激しい接吻しすぎた所為だ。ごめん』

『ほんとだよ。苦しかったし』


 涙は止まっていない。共に。だが笑みも同時に零れている。かなり異様な光景だが。


『草玄』

『ん?』

『大好き』


 気持ちが溢れて止まらずに言葉に出さずにはいられなかった。これも初体験だ。数千年生きて。人生、ほんとに何があるか分からない。だから面白いのだが。

 ニコニコ笑う葵の言葉に、目を見開いた草玄は信じられないものを見るかのように凝視した。唇が戦慄く。素っ頓狂な声音が出る。


『今、なんつった?』

『もう品切れです。閉店ガラガラ』

『葵』


 一度は背を向け先に歩き出した葵は草玄を振り返り笑みを向けた。もう、涙は止まった。


『草玄。私、頑張るよ。大丈夫。やる気満々だし』

『もう一回、な?』

『枯渇しました。空っぽです』

『え。じゃあ、もう聞けないのか。最後?あれで最後か』

『あ~。そうかも。なんか、出尽くした感が。ほら、真っ白に燃え尽きた、てやつ。蒸発しました。申し訳ない』

『愛してる。はい』

『はいって』

『繰り返す。はい。愛してる』

『いや。そんな九官鳥じゃないし』

『おまえの知能は九官鳥より下か?』

『あ~、はいはい。そうかもですね』

『俺は夫だぞ』

『だから?』

『夫って、何だ?』

『……情報提供者』

『数秒考えた末がそれかよ』

『……………オットット』

『葵』

『…時々一緒にいたい人』

『時々の頻度は?』

『五日に一日』

『新婚なのにもう停滞期かよ』

『理想の姿です』

『……さすが数千歳。若さが足りねぇ』

『…若いし』

『そ~ですか?』

『そーですよ。人間。若いと念じ続ければ年食っても若いんです』

『なら俺の願いも念じ続ければ叶うってわけか?』

『思わないよりは、可能性は高くなるんじゃない』

『そうか。なら』

『…何で睨むの?』

『念じてんだよ』

『何で私を睨みながら念じるの?』

『葵がもっと成長しますようにって』

『それは、どうも』

『……怒らねぇの?』

『何で?』

『何でって……お子様はこれだから困る』

『お子様って。さっきと真逆のこと言ってるんですけど』

『苦労するな、俺』

『今更?』

『葵』

『何?』

『子作り、するんだろ?』

『鸛。鸛。鸛。鸛。こうのとり…そうだ。そうだよ。人類はアダムとイブから生まれたんだから、皆に同じ血が通ってる。つまり人類は皆兄弟姉妹』

『だから?』

『だから血に拘る必要ないんだよ。だって皆同じ血が流れてるんだから』

『つまり?』

『子ども産む必要ないよね』

『子ども、欲しい?』

『過程をすっ飛ばせるなら喜んで……体外受精。もしくはクローン』

『俺との子ども欲しい?』

『う……ん』

『俺は…欲しくない。と思ってたけど。葵が、望むなら。葵、なら、俺は父親になれる、かもしれない』

『子ども、嫌い?』

『まぁ、生意気だしな。けど最大の理由は俺の子だから。想像すると、気持ち悪くなる。俺の血が流れている子どもがこの世に生まれて来るって』

『草玄は、自分が嫌いなんだね』

『ああ』

『私は好きだよ』

『…どっちが?』

『自分』

『ああ、そうですか。そうでしょうとも』

『草玄も好きだよ』

『そんなついでみたいに言われても素直に喜べねぇ』

『草玄が好きです』

『……言わせたみたいだ』

『注文多いな。どーしたらいいのよ』

『………鼻血出そう』

『何で?』

『いや。イロイロ想像したら。その……俺に甘える葵、とか。子作りで』

『………空想の産物だね』

『そうだな。夢だな、夢。現実には有り得ねぇ』

『そうそう。無理。て言うか、絶対嫌だ』

『黙って肩寄せるとかは?』

『組手稽古なら』

『それを裸でやると思えば』

『……気持ち悪い』

『……おまえ、さ。先入観に囚われてねぇか?』

『人は真実よりも先入観を信じる傾向にあります』

『…子どもできねぇじゃん』

『だから鸛。もしくは科学技術……は見込みない……何で裸で訳の分からないことしなくちゃいけないのよ。世論調査で女性は皆演技だって答えたそうだし。ほんとは皆嫌々やってんだよ。自分に暗示かけてんだよ。そうだよ。実際さ。男の人もそうじゃないの?嫌々じゃないの?違う?』

『葵。怖いぞ』

『本音を言って。ほんとは嫌でしょ?』

『……いや。嫌な時も、あるには、あるが』

『やっぱり嫌なんだ』

『あのよ。深刻に考えるな。気楽に。な?』

『気楽……裸でアハハウフフと笑い合う男女……気分が沈む』

『……でもおまえ、そういう本は読むよな?読んでたよな?見つけたぞ』

『想像と現実は違うんです!』

『………ああ、そう、だね。うん』

『……想像すればするほど気持ち悪くなってくる。無理。絶対無理』

『……まぁ、なら、気持ち悪くなくなった時でいいから。な。もう考えるの止めろ』

『人間止めて動く植物になりたい。あ、でもご飯が太陽の光と水、あと土の栄養分だけか』

『そうだね。寂しいね』

『……ごめん』

『いや。おまえの気持ちはよく分かったから。今みたいに意味不明でもいいから吐き出せ。無理はすんな』

『…草玄も無理はしないで欲しい』

『ああ。大丈夫。不安になる必要がなくなったし』

『不安?』

『葵。俺の妻だし』

『…浮気、するかもしれないよ』

『俺に嫌気が差して?それとも俺以上に好きなやつができたから?』

『…すいません。言ってみただけです』

『もし、よ。もしおまえに、俺より好きなやつができたら』

『できたら?』

『勝負して勝って俺の方に振り向かせる。だからどっちでも努力する』

『……やっぱり、すごいね』

『葵も同じだろ?』

『私は違うよ。周りがすごいから、生きていられるだけ』

『すごいって思えるやつってのは、その本人もすごいんだよ。すごくなきゃ、すごいことに気付けないだろ?』

『………なら草玄も私のことをすごいって言ったから、すごい人間ってことになるね』

『そりゃそうだろ』

『胸張ってよく言えるね』

『だってな。初恋の人と夫婦になれたんだぞ。これを『自分すごい』と褒めずに何時褒めるんだ?……ああ、そうだな。俺、すごいんだな』


 葵はその笑顔を見て不意に口を噤んで、視線を右往左往させた。


『葵のおかげで俺は少し、自分のことが好きになれそうだ』


 嬉しさを噛み締める、誇り高く無邪気な笑み。とても輝いて見える。


(心臓が、痛いくらいに)


 葵は咄嗟に草玄に背を向け彼の呼び掛けを無視して、そそくさと足早矢に城へと歩き出した。


(柄じゃないから。柄じゃないから。柄じゃないから)


 赤面した顔面。激しい動悸。本当に意味が分からずに滲み出る涙。心臓の真上の衣を握りしめる手。


(本当に、好きなんだ)






 嬉しさよりも苦しみの方が感情を占める。

 予感があったのだろう。この恋に翻弄される未来を。










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