第16話 迷宮の彼方に隠した秘密、真っ白な世界だった(7)

「葵の秘密を教えてやろうか?」


 孔冥に手渡された携帯電話から問われた言葉。草玄はアジトから出て独り、灰色の工業地区の一番高い建物から、暗闇に覆われた世界を見下ろしていた。















『『珂国』を敵に回したくなければ、これ以上誰一人として『和国』の者を殺すな』


 孔冥の手を取り『和国』に辿り着いた自分は幸運で、『馬枝』の司令塔の男の目の前に辿り着いたのだ。男は突如現れた俺たちに目を丸くするも、落ち着いた態度で応対した。


『それは、更級王の本意ですかな?』

『ああ』

『『和国』の為に『珂国』の民を危険に晒すと?』

『『珂国』を敵に回したらどうなるか、おまえらがよく知ってんだろ?』

『全てが途絶える。ですか………』


 目を伏せた男は次の瞬間、自分に視線を合わせ、微笑を浮かべて。


『自国に罪はありません。どうか寛大な御心でこれからもお助け下さい』


 そして手を上げるや、地面が轟くほどの太鼓が響き渡ったかと思えば、喉を小刀で掻っ切ったのだ。男だけではなく、その場にいた、いや、この地に足を踏み入れた『馬枝』の国の者たちは皆、自害したのだ。



『莫迦なやつら』


 ぽつりと呟かれた言葉は冷酷な色が濃く混ぜられていた。




『孔冥。葵がいそうな場所分かるか?』

『恐らくあの場所かと』


 腰を地面に着かせていた孔冥の指さす方へ、自分は駆け走った。







『葵、葵、あおいあおい』


 葵を見つけた自分は気付けば彼女を強く抱きしめていた。


『草玄、殿。状況をお聞かせ願いたい』


 国の者がいたからだろうと思う。他人行儀な物言いでそう告げた葵から離れた自分は戸惑いながらも、先程起こった事と推測を述べ、安心するように告げた。


『あなたたちの身柄は『珂国』が保障します』


 そう告げると、緊張が解けたのだろう。民は一気に地面に座り込み、涙を流したが、葵は安堵の色を微塵も見せずに淡々と告げた。


『私は別れた人たちにも告げに行きます。申し訳ありませんが皆を連れて城の前で待っていてくれませんか。今後の事はそれからで。璉、私はこっちに行くから、あなたはあっちをお願い。砂武官。草玄殿は信頼できます。彼と共に城へ。ゆっくりで構いません。ですが気は緩めないように慎重に』

『分かりました』


 そう言うや葵は民の方へ足を進め、座り込む民に合わせ膝を屈し、優しく語りかけた。


『皆さん。もう少し、城まで頑張って下さい』

『もう、大丈夫、なのですか?』

『大丈夫です』


 迷いない断固とした言葉。確固な根拠などなかっただろうに。




『璉って呼ばれてたよな。葵、殿は?』


 城の前に人々が集まり始める中、葵を捜していた自分は璉を見つけ話しかけると、憎悪に満ちた視線を向けられた。思えば、璉と面を向い合せたのはこの時が初めてだった。


『葵様は他にも生き残った人がいないか捜しています。俺も行きたいので、失礼します』


(葵)


 璉の背を見送りながら、先程出会えた葵の姿を思い起こすと、胸が痛んだ。

 待っていれば彼女は確実にここに来る。そう分かり切っているのに。




 老婆は自分を背負い、今は顔を俯かせている葵の頭を撫で続けていた。

 恐らく、自分には見せたくない姿で。自分は咄嗟に木陰に隠れてしまった。

 老婆のような存在になりたい。だが彼女は自分に慰められたいと思わないだろう。

 そう実感すると、堪らなく悲しくなり、樹に背を預け、その場に立ち尽くした。

 彼女にそれ以上、近寄ることなど、できはしなかったのだ。




 その日、城に戻った彼女は王位継承を宣言し、和国の王となったのだ。







『葵。少し休んだらどうだ?』

『ん。いや。早く集めて火葬しないと。疫病とかが流行ると困るし。これから大変だから』


 先程とは打って変わったかのように普段通りの態度で、葵は武官に交じって死体を押し軒に乗せて続けていた。


『更級王にさ、言っといて。私は繋ぎで落ち着いたら生き残った王族の子に譲るって』

『葵。あのよ』

『頑張らないと。もう、さ。こんなこと起こって欲しくないし。だから、その為なら出来得る限り協力する。てのもついでに言っといて。まぁ、あるなら。だけど』



 全てを捨てて一緒に。これから先の葵の未来が目に見えて分かり、そう告げそうになるのを必死に堪えた。それは彼女が望まない言葉である事は明白だったから。



『葵』


 名を呼ぶしか出来ない無力な自分。彼女の為に告げられる言葉が何も思い付かない。

 頑張れ?俺も付いてるから?俺を頼ってくれ?全てが空を切る。


『草玄。私さ。もう出し尽くした。だからね。大丈夫だから』



 泣き喚いて自分に縋りつくことなどしないと、釘を刺されたみたいで。

 自分はもう、必要ではないと、突き放されたようで。

 目の前が真っ暗になり、遠くから他人のような自分の声が耳に入る。



『人材と物資は割安で提供する。もし『珂国』に入国し居を構えたい者が出たなら受け入れる。他にも必要な事があれば、出来得る限りは協力する。それで『馬枝』はどうする?』

『私が直接行く』

『なら俺も同行しよう』

『…ありがとう』

『いや……俺も手伝うから、少しは休め。根を詰めると続かないぞ』

『今は、身体休めたくないから』


 それが彼女の弱音だったのだと直ぐに分かってしまったから、もう。



 その後、葵や武官達と死体を乗せ、運び、一箇所に集め、薪を周りに詰め、火を投げた。

 静寂なその場所で、轟々と唸り声を上げる火柱は天上まで届きそうなほどに高く、赤と橙の夕日のようなその色は、とても綺麗だった。




『孔冥。具合はどうだ?』

『情けない所を見せましたが、大体は』


 死体の処理がひと段落し、自分は城の前で飯炊きをしていた孔冥を手伝い、今は他の者と交替し、二人で休んでいた。


『葵は?』

『一人で行きたい所があるからと』

『大丈夫ですか?』

『おまえは甘やかせ過ぎだ。俺を気遣ってどうするよ?』

『仕方がないでしょう。莫迦でも可愛い息子ですから』

『……そりゃどうも。でも今は葵にだけで頼むわ。俺は、何にもさせてやれねぇから』

『私も今回は駄目ですよ。避けられてますから。どーでもいい時は甘えるくせに、こんな時ばかり甘えないですからね。歯痒いと言うか、情けなくなると言うか』

『おまえの愚痴って、初めて聞いたかもな』

『まだ挽回ではありませんね。とんだ失態ですよ』

『おまえは、何時でも変わらねぇな』

『変わらないのも。結構つまらないものですよ』

『そうか?』

『ええ。だから変化に惹かれるのですよね』

『だから葵の傍に、か?』

『お守りを頼まれましたし、懐かれていますから。まぁ、仕方がなしに。程度ですよ』

『おまえって、ほんとにひねくれ者な』

『誰かさんよりはましですが』

『……』

『お願いがあります』

『俺には、無理だ。おまえの方が』

『泣くあの人を見るのは、あまり好きではないですから』

『俺だって。よ』

『踏み込んでください。無茶をさせないでください。このままでは、あの人は独りになってしまう。それでは、駄目だ』

『孔冥』

『嫉妬してますよ。それが出来るのはあなただけですから。親莫迦な私にこれだけ言わせてもまだごちゃごちゃ抜かしますか?』

『…無理やり抱きそうで。怖いんだよ。俺だけ考えろって。嫌なんだよ。そんなんで、抱きたくなんかねぇンだよ』

『大丈夫ですよ。あなたはそんなことはしない』



 何時もの猫のような陽だまりの笑みに、毒気が一気に発散される。



 情けない自分をそれでも見離しはしない。辛抱強く、待ってくれる存在。



(出来過ぎだっての)



『行って来るわ、親父』

『葵を泣かせたら生き地獄を見せますよ、莫迦息子』


 立ち上がった自分は孔冥に笑みを向け、その場を後にした。






『葵』


 地面が黒焦げになっている真っ新な場所で膝を抱えていた葵に、一歩一歩慎重に歩み寄るも、彼女は逃げなかった。


『草玄』

『ん?』


 隣に座った自分に、葵は膝を抱え顔を俯かせたまま話しかけてきた。


『私、護らなきゃ』

『ああ』

『でも独りじゃ駄目』

『ああ』

『皆で』

『ああ』

『私に、できるかな?』

『できる』

『……怖いよ』

『ああ』

『怖くて、怖くて、堪らない』

『ああ』

『私に、できるわけないのに』

『でも、やらなきゃな』

『うん』

『葵。おまえはおまえのままでいい。臆病なままでいい。傲慢にだけはなるな』

『調子、乗るかも』

『そん時は俺が止めてやるよ』

『情けない王で、皆に申し訳ない』

『全くだな』

『誰かが王になりたいって言ったら、即譲るのに』

『おまえが王になるつったんだからな。他国の宰相を立ち合せたんだからな』

『はい』

『情けねぇ王でも揺らいだら民が不安になる。情けねぇなら情けねぇで真直ぐ立ってろ』

『…はい』

『だから、一人で泣くな。何処ぞの婆さんでも。璉ってやつでも。孔冥でも。俺でも。必ず誰かの傍で泣け。それが嫌なら泣くな』

『……もう、泣いてる』

『なら………大莫迦。分かるか』

『数千年の重みを思い知ったか?小僧』

『はいはい。お婆さんは涙腺緩いからね。泣いても仕方がないんだよね』

『すいませんね。婆さんはその通りですよ』

『なら我慢しないで。何なら俺の胸を貸しますよ』

『借りません。でも、傍にいて下さい』

『触っても?』

『触らないで。訳の分からないこと言いそう、だから』



 それを皮切りに堰を切ったかのように声を殺して泣き出した葵。呻き声だけ発した。

 自分は彼女の願ったようにただ傍にいるだけ。心は凪いでいる。






『気が緩んだみたいだ』

『そのまま連れて行ってくれますか?』


 城に戻って来た草玄の両腕には薄らと青ざめ眠りに就いている葵が抱えられており。孔冥の案内で城の中に運び或る部屋に寝かせ、布団を上に掛けた。


『これから、どうなる、か』

『更級王が平和協定に意欲的なら、葵を使わない事はしないでしょう。あとは』


 共に視線は葵の眠り顔に固定したまま。草玄は胡坐をかき、孔冥は立って葵の傍にいた。


『真矢姫もな。今回の事で胸を痛めてるだろうな』

烙矢らくや王が今回の騒動に絡んでいなければ宜しいのでしょうが。全く。しっちゃかめっちゃかに思惑が混雑していますね』


 草玄はやってられないと言わんばかりに身体を倒し、腕に頭を乗せ葵を見つめた。


『あ~。面倒くせ。来世では葵と自由に旅してぇもんだ。いろんなもんを一緒に見たり聞いたり、触ったり、食べたり、嗅いだり。愉しいだろうな』

『現世で叶えてくださいよ』


 優しい微笑を浮かべていた草玄は寂しげにぽつりと呟いた。


『葵が、望まんよ』

『……草玄。葵に不死の存在だと告白されました?』

『ああ』

『どう思いました?』

『すげえなって』

『本当にそれだけですか?』

『ああ』

『もし、あなたの目の前に不死になれる薬が出現したら、どうします?』

『分からん』

『葵と共に永遠を生きたいと思えませんか?』

『正直、な。永遠を生きるなんて、途方も無い事を俺にできるか。もし、よ。もし死にたくなっても死ねないんだろ。そん時、俺は葵をなじるだろうな。おまえの為に不死になったんだから、責任とって俺を殺せってな。器量の狭い男だよ。俺は』

『想いを確かめたい、ですか?』

『死んだ後、魂は洗われるって言うよな。真っ白に、記憶を消されて、また生まれ変わるって。なら記憶を持ったまま、生まれ変われるはずなんかない。その万が一があるとしたら。その時は、俺は大丈夫な気がすんだよ。葵の所為になんかしない。もし葵が死んで俺が不死になっても、生きて行けるって……なんてな』


 寝転んだままニッと無邪気な笑みを孔冥に向けた後、頭を葵に向ける。


『でもなぁ。やっぱ、葵と一緒がいいか。何千年、何億年。今の俺は、無理でも。未来の俺なら。愉しめる。早く、そうなりてぇな。でも、葵はどうかな?俺と永遠に一緒って、嫌っつうかな。そーだろうな』


 ぶつぶつと呟く草玄は瞼を何回か開閉させ、微睡む思考に身を任せて眠りに就いた。


『…本当に、初恋にしては厄介な人に出会いましたね』


 孔冥は押入れから布団を出し、草玄の上にかけてその場を後にした。











『烙矢王。玉座を御譲り下さい』



―――『馬枝』国。首都『柚芽ゆめ』の城にて。


 真矢は自身の母であり現『馬枝』国の王であり、まるで武人としての勲章かのように傷を覆った逞しい身体に、相手を射殺すような鋭い蒼い瞳に短い髪の四十の女性。烙矢王に真っ向から立ち向かっていた。


『ほぉ。武人になる覚悟ができたか?』


 面白いと言わんばかりの口の端を上げる烙矢王に、それでも険しい表情は緩めない。


『今回の件。王はご存知でしたか?』

『和国に攻め入った件なら危険な思想を持った集団が勝手にやった事だ。と言っても、我が国の民には違わん。故に、最大限の助力は問わん』

『ではご存知なかったと?』

『そう言ったつもりだが。信じられぬか。王の、母の言葉が』


 笑みを崩さない烙矢王に、前に重ねていた手をほんの少し強めに握り、地面を踏み占める足に力を籠めた。


『危険な思想を持つ彼らを一掃する為。ではなかったのですか?』


 目を細めた真矢の言葉を、烙矢王はふっと鼻で嗤った。


『直言か』

『誤魔化しは必要ないでしょう。私たちには』

『そうだな。期せずしてやつらを消す最もな口実は得たわけだが。やつらの糸を切ったのは私ではない。和国から各国へ平和協定の話を持ち込んだ葵殿だ。違うか?』

『彼女を彼らに引き合わせたのはあなたでしょう』


 真矢は微細に荒くなった語句を抑えんと小さく息を吐いた。


『彼女は秘密裏に動いていたはず。それこそ王にだけその話を告げたはずなのです。彼らに会うはずがない。そして平和協定を憎き敵から提案された彼らがどんな行動に出るか。あなたは容易に想像できたはず。違いますか?』

『さても。おまえの想像が真実としても、やつらが和国を襲う、など。思いもせなんだ。そうであろう?和国がこの国を壊滅状態に遭わせたのはもう数世紀前の話。口では憎い悪い、と言ってはいても、実際に行動できまい』



 涼しげな表情に、足を一歩踏み出す。



『ですが実際に和国の民を死なせ、彼らも自ら死を選んだ。そして。これから一掃なさるおつもりでしょう』

『実際に事を犯した以上、見過ごすわけにはゆかん』

『国が荒れます』

『少数だ。直ぐに終わる』

『彼らも自国の民です』

『だから、だ。私たちの手で終わらせるのが筋だろう。違うか?』

『殺すしか方法を見出せないのですか!?』

『ほざくな!!』



 激昂がぶつかり合った後、一時静寂が訪れるもそれを破ったのは烙矢王だった。



『危険因子を遺して置けば後の憂いになる。確実にだ。ならば根絶やしにするのみ』

『でも何の名目もなしに危険な思想を持っているだけで殺すわけにもいかない。だから』

『そう思いたくば好きなだけ思っていろ。どちらにしろ。やつらを野放しにしておくわけにはゆかん』

『話し合えば』

『自分の言い分だけを言い散らかし此方の話など一向に聴かんやつらに話し合いだと?』

『だからと言い』

『反論するなら私を納得させるだけの代替案も持って来てからにしろ』



 真矢は肩の力を抜き、眉根を寄せた。今にも崩れ落ちそうだ。



『あなたに。あなたたちにもう、人を殺して欲しくはないのです。お母様』

『この時代にそのような戯言を抜かすまでに果て堕ちたか』

『どう言われようが、軽蔑されようが、落胆されようが』



 身体に力を入れ直し、真直ぐに瞳を捉え、強い意思を含む瞳を向ける。



『人が人を殺す時代を終わらせたいのです。お母様。それをできないと申すのなら、玉座を御譲り下さい。私が叶えます』

『小生意気な。誰もが一度は抱き、手放した夢をおまえ如きが叶えるだと?』

『現代と未来の為に。わたくしは叶えます。確実に』



 数秒、瞳と瞳をぶつかせていた二人だったが、烙矢王は玉座から立ち上がり、一歩一歩ゆっくりと真矢に歩み寄って距離を縮めた。



『後悔するぞ』

『天上でゆるりと後悔しましょう』

『血は血でしか拭えん』

『血は利で拭えます』

『優しさとほざくかと思ったが』

『それが通じるのであれば世の中はもっと幸福に満ち足りていることでしょう』



 カツンと真矢の前に立った烙矢王。真矢は傅くことも引くこともなく仰いだ。



『本気か?』

『本気です』

『ならばやつらをどうする?』

『わたくしが彼らの元へ赴きます』

『くだらん』

『これしか思いつけません』

『堂々と敗北宣言する者がいるか?』

『屈しませんよ。それだけは、譲るつもりは毛頭ありませんから』

『…良かろう。好きにせよ』

『ありがとうございます』



 この時になって膝を屈し、両手を組み前にかざした真矢に、烙矢王は腰に差していた一本の小刀を差し出した。純白の鞘に納められた鈍い銀色を放つ小刀は王の証。武力の象徴。そしてもう一つ。



『この刀を抜いた王は誰もおらん。誰一人として自害していないことになる。つまりは、次代に小刀を譲り渡すまで国を護っていた。と言うことだ』



 広げた両の手の平に乗せられた小刀を、真矢はしかと受け取った。思っていたよりも、重い。と感じた。



『抜きませんし、抜かせはしませんよ。誰一人として』

『想いが現実となるか。見張らせてもらう。そして不甲斐ない態度を取れば、殺す』



 刃物のような声音に、それでも慄きはしない真矢は微笑を浮かべた。優美で、凛と咲く白百合のように気高い笑みを。



『肝に銘じますわ。烙矢王』






『烙矢王は玉座を降り、彼らは流刑としました。これで赦される、など思ってはいません。けれど』


 客間で同じ高さの椅子に座っていた真矢は立ち上がって対面する葵の傍に歩み寄り、葵もまた立ち上がった。同じ視線。共に傅く事はない。


『お赦しください』

『…共に、平和な世を築いてくれますか?』


 赦す、の言葉がどうしても出て来なかった葵に、真矢はそれを言及する事はなく、力強く頷いた。


『共に、先代の王たちに恥じぬように、平和な世を築きましょう』

『はい』


 涙が堪えず溢れ、頬に一筋流れ落ちる。







『王位を継ぐ事になりましたので、草玄様の妻になる事はできなくなりました』


 二人だけになった部屋で真矢が残念そうな表情を浮かべてはいるものの、作っていると直ぐに分かった草玄は微笑を浮かべた。他人行儀な一歩距離を空けた口調は変わらないが。


『それは残念です』

『思ってもいないことをよくまぁ申せますね。葵様しか見えていないくせに』

『女性には優しく、が男の最低限の条件ですから』

『これからは控えた方が宜しいですよ』

『それはどうですかね』


 一時見つめあった後、お互いにふっと噴き出す。


『あなたと過ごした日々は、まぁ、普通でしたわ。つまらなく、日々淡々と暮らせました』


 ほんの少し不満げでそれでも優しげな微笑に、苦笑いする。


『申し訳ない』

『いいえ。停滞期の夫婦を経験したようで、貴重な日々でした。これから結婚する殿方とはあなたと過ごしたようにして堪るか、と心底思いましたから』

『ま、まぁ。役に立てたのであれば、嬉しい限りです』

『これから、大変ですが。お互いに頑張りましょう』


 そっと差し伸ばし真矢の手に、草玄は手を重ね、ほんの少し強く握った。


『子どものようにはしゃぐあなたはとても可愛かったですよ。できれば、その御心は忘れないでください』

『あなたはもう少し頼りがいのある態度を身に付けた方が宜しいですよ』

『…手厳しいな』


 有難い説教に、漸く友のように接する事ができた。しようと思えた。


『葵様をお願いしますわ』

『ああ』

『返事だけは立派ですね』

『…真矢王』


 肩を落とした草玄に、真矢は雪柳のような清楚な笑みを向けた。






『『馬枝』国は平和協定に調印したか。これで『栴駕』『樂津』『弥府』の三つの国が調印すれば、平和な世に一歩近づいた事になる』

『はい』



―――『珂国』首都『達甲』の城の中にて。


 真矢と会ったその足で更級王を訪れた葵は彼に手渡した一枚の書状、真矢の名前が書かれた平和協定の調印書を受け取った。


『その後、国はどうなった?』

『徐々に。と言った具合ですね。国の者が皆頑張っておりますので、心強いです』

『それは何より。他に必要な物があれば』

『いえ。もう十分すぎるほどの物資と人材を送ってもらえましたので。このご恩は忘れません』


 葵は柔らかい微笑を浮かべ頭を下げると、なら、と目を細めた更級王に、否応なく顔が引き締まった。


『一つの提案として聴いて欲しいが』

『はい』


 何も飾り立てずに告げられた言葉に、葵は動揺することなく返事を待って欲しいと告げた。




『どうなさるおつもりですか?』

『まずは国に戻ってみんなの意見を聞かない事には、ね。私の独断で決められないし』

『あなたは、どう思いますか?』


 軒に乗って渡船場へと向かう葵は目の前に座る璉の言葉に、ため息をついた。


『私は『和国』を残したい。けど、『珂国』に併合された方が生活は向上すると思う』

『大国に隠れていた方が身の安全も保障されますしね』

『…璉。本当にこのままで言い訳?もしかして『緑茄』の預け先で嫌な目に遭ったの?』



 あの日以降、ゆっくり話す暇がなかった葵は今、二人になった所で漸くその本題を切り出す事ができた。



『あなたももう十五で身の回りの事も全部自分でできるようになった。賢いしね。どの世界でも生きて行ける。わざわざ苦労する世界に飛び込まなくても』

『まるで母親のような言い草ですね』

『当たり前でしょう。白亜さんに頼まれたし。誘ったのは私なんだし』

『前にも言いましたが、ついて来たのは私です。あなたについて行きたいからそうしているまで。一緒に探してくれるのでしょう?』

『探す時間、ないかもよ。こき使うかもよ。て言うか、もうこき使ってるし。ごめん』

『民の前ではそんな情けない姿を見せないでくださいよ。皆が不安がりますよ』

『あ~。ま。大丈夫だって。どうせつなぎだし。つなぎ。皆も期待してないって』

『怒りますよ』



 声音が張り詰めたものに変わり、瞬時に背筋が真直ぐになり身体が硬直した。



『分かってますよ。皆を護るって決めたんですからふざけた態度取りませんよ。少ししか』

『緊張を解したい気持ちは分かりますが……いいですよ、もう。お腹減ったでしょう』



 隣に置いておいた包みから竹の皮で包まれたおにぎりを取り出し差し出した璉に、葵は恐縮そうに手に取り口に含んだ。



『美味しい』

『ご飯食べて頑張ってくださいよ。和国王』

『はい』


 もぐもぐと咀嚼し続ける葵に、璉はそれ以上何も言わずに黙ってお茶を差し出した。





『兄上。和国を統合したいと葵に告げたって本当か?』

『一つの提案だ。断ったからと言って別段、何をするもない』


 椅子に座りお茶を口に含んでいた更級王に、草玄はツカツカと詰め寄った。


『あそこを手に入れてもどうもならんだろう』

『草玄。利のない所など、ありはしないよ』


 呆れたようにため息をつく更級王は湯呑を机に置き、草玄に顔を向けた。


『今は確かに手に入れても何の利もないかもしれない。だが未来では無用の用になるかもしれないだろう?』

『強欲は身を滅ぼすだけだぞ』

『だから強要はしなかった。だがその方がおまえにとっては都合が良いだろうに。このままでは彼女と結婚はできないぞ』

『…余計なお世話だ』

『分かってはいるらしいな』


 何処か面白いものを見ているかのような表情に、目元を険しくさせる。


『余計な事をまた考えているのなら降りてもらう』

『失敬だな。可愛い義弟の為に何かできないかと考えているだけだと言うのに』

『それが余計だって言ってんだよ』

『夫婦になりたいのだろう。双方共に。このご時世だ。めでたい事でもなければやってはいけない』


 すまし顔に、怒りよりも呆れが先立ち力が抜ける。


『あんたなぁ』

『まぁ、前例のない結婚もいいだろうな。他国の王と宰相が結婚し、だが国を統一させずにそれぞれがそれぞれの国で国の為に働く。か。うん。面白いな。草玄。子どもは二人産めよ。いや。その時に統一すればいいか。まぁ。子どもに任せよう』



 切れ者なのかと思えばこのように素っ頓狂な考えを物怖じせずに口に出す。さすがは強硬鉄壁な親父を説得し隠居生活に追い込んだだけはある。と思う草玄。切れ者だけであったのなら『珂国』は今頃内紛に明け暮れる日々に突入していただろう、とも。



『俺が産めるわけないだろう』

『そうだよな。男は何で産めないのだろうか。ずるいだろう』

『…あんたは本当に変わった男だな』

『そうか?』

『そうだよ。ったく。調子が狂う』

『で。どうする?』

『何が?』


 好奇心満々の表情で問い掛ける更級王の背後には派手な花が咲き乱れていた。


『何がって。結婚だよ。もう直ぐ年も明ける。言ったろう?発表するって』

『真矢王がいなくなっておじゃんになったんじゃなかったのかよ』

『何を言っている。おまえと結婚したいご婦人など山ほどいるのだぞ。決定事項だからその中から選んで貰っていたに決まっている』

『あんたなぁ』

『だから葵殿と結婚したいのなら早急に説得しろ。日時は変えん。来年の一月十日。午前十時から。十五日後だな。頑張れよ、義弟よ』

『んなことしている場合じゃ『こんな時だからこそ、だ』


 表情を引き締めた更級王に、自然と同じ様な表情になる。


『俺もそれまでに平和協定の調印をもぎ取ってくる。葵殿も自国の件で大変だろうが、あの人も一人の人間だ。幸せになる権利はある。自分の事を考える権利もある。真矢姫を見習え。王になったと思ったらもう結婚したんだぞ』

『本人が望んだとでも?』

『知らないのか?『私を幸せにすると断言できる者だけ出て来い』と啖呵を切って名乗り出た奇特な一人の男性と結婚したそうだ』

 

 目を点にした草玄はその時の光景を思い描き苦笑した。


『ほんとかよ』

『こんな時に、か。こんな時だから、か。自分を幸せにしないで誰が民を幸せにできるか、だそうだ。彼女もすごいな』

『さすがは王になっただけはあるか』

『惜しい事をしたな。彼女がいたら『珂国』はもっと面白くなっただろうに』


 子どものようにはしゃぐ顔を初めて見たかもしれないと思うと、今まで無理をさせていたのでは、と申し訳なさが募る。初めての感情だった。


『……兄上』

『何だ?』

『今までありがとよ』


 似合わないほどの義弟の沈痛な態度に、更級王は怪訝な表情を浮かべた。


『もしや。俺から玉座を奪おうとしているのか?』

『は?』

『今までありがとう。と言う事は。これからはないと言う事だろう。おまえも大胆不敵だな。さすがは俺の義弟。恐れ入る。だが渡さん』

『ちげーし』

『そうか。まあ、おまえに王は向かんよ。補佐役が似合いだ』

『そりゃどーも』

『で?』

『でって』

『行くんだろう?『珂国』の名物を持って挨拶に行くんだろう?』


 前のめりに問いかける義兄の姿にふと思ったのは、彼も普通に飢えていたのだと言う事だった。



(こんな時に、か。こんな時だから、か。けど葵は)



『…王よ。本当に平和な世にしたいと思っているか?』

『当たり前だ。だから玉座を譲ってもらったのだからな』


 濁りのない澄み切った声音に、一抹の或る感情を残しながらも、笑みを向ける。


『行って来る』

『おお』


 去り行く草玄の背を、更級王は目を細めて見つめていた。











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