第15話 迷宮の彼方に隠した秘密、真っ白な世界だった(6)

『和国は襲撃されているらしいな』



 落ち着いた雰囲気。淡々とした物言い。表情はほんの少し物憂げ。急ぎ城へ向かい情報を得ようと更級王のいる部屋へと向かうとその場にいた彼と老師の態度だった。

 冷静に。怒りは思考を狂わせるだけ。草玄はふっと短く息を吐き出し、距離を空けたその場に立ったまま更級王に視線を向けた。



『兄上。あんたが『関わってはいない。と言ったら信じるか?』

『和国に利となるものは存在しない。故に、珂国は加担していない』

『そうだ』

『なら』

『襲ったのは『馬枝』。和国が本土にいる時に滅ぼされかけた国よ。その当時の和国の王は報復を恐れたのか。あの島へと逃げるように去って行き、骨を埋め、第二の故郷とした』

『情報は、得ていたんじゃないのか。知っていて、せめて葵だけと』

『今更それを知ってどうする?』

『……』

『もう、和国は滅びているだろう。彼女を残してな』

『葵も、行ったよ』



 草玄は二人の返事を待たずにその場から駆け走り、渡船場へと向っている時だった。自分の前に突如現れた人間に、足は急停止し、苛立たしげにその人物を睨むと。



『孔冥』

『申し訳、ありませんね。私が運べるのは一人だけですから』


 何を言ってんだとか疑問を投げかける一瞬の間さえ惜しく、差し伸ばされた手に即座に手を重ねる。




『平和の為には、犠牲が必要だったのだよ。草玄。そして、痛みを知る者がな』




 窓の外には煌々と満月が輝く。闇夜を導く光。闇なくしては、光は見えない。











『璉。どうしてここに。『緑茄』に養子に出されたって』


 葵は今、草陰に身を潜め男たちがいなくなったのを確認し、里へと向かいながら璉に読唇術で話しかけた。


 母上からの文で、璉は和国から一番遠くに位置する『緑茄』の年老いた子どもを望む夫婦に託したと教えてもらっていた。だから、この場にいるはずなど。


『やはり、僕は邪魔でしたか?』


 たった五年。格好は変わらないのに、自分を超すほどに身長が伸びて逞しくなっていた。


『邪魔じゃなくて、普通に暮らして欲しかったから』

『…申し訳ありません。今する話ではありませんでした。あいつら。民も王家も関係なく殺しているみたいで』

『まだ無事な人たちもいるのね』

『王直属の武官達が民の命を優先にと、命令されたようで。里に匿われています。あそこなら当分は』

『なら、里の皆も』

『女と子どもは無事ですが、男は敵を食い止めようと自ら出て行ったそうです』

『王、は?』


 小さく首を左右に振る璉に、力が抜けそうになるのを堪える。

 嘆き喚くわけにはいかない。悲嘆する暇などない。立ち止まるわけには、いかないのだ。護るべき対象がいるのだから。






―――『霞乱』の棲家。



『母上。ご無事で』


 ほぼ女性や子ども、老人しかいない中、皆に食事を配っていた紗江は、現れた葵に手を止め目を丸くした。


『葵。どうしてここに。今は珂国にいるはず』

『さとが私の所に来て戻って来たのよ。父上は?』

『立派に闘った。私の誇りだよ』

『…多分、島の周りは囲まれていると考えていいと思う。それに無差別に殺しているなら、投降したって無駄』

『殺されるか、自分で死ぬか。国から出るか。闘うか。の四択かね』

『『珂国』と『緑茄』なら匿ってくれると思う。向かうなら一番近い『珂国』がいい。動くのは深夜。今から大体四時間後くらい。出来れば拡散して』

『私は闘いたいね』

『そう言う科白は私より強くなってから言って』

『強い弱いの話ではないよ。心の問題だ。何もせずに生き延びるなんて』

『血を残すんでしょ』

『私はもう子は産めない。役立たずの人間だ』

『誰がこの人たちを護るのよ。しっかりしてよ、母上。王の姉で、首領の妻でしょ』



 初めて見るかもしれない。こんなにも弱弱しい姿の母親は。砂のように崩れ落ち、消え去ってしまいそうな、透明感に満ちていた。



『母上』



 葵はぐっと掴んだ母親のその腕の細さに、愕然とした。肉のついていない、まるで枯れ木のように、今にも折れてしまいそうな腕。その衰えに、泣きそうになるのを堪える葵に、母は何時もの優しい微笑を浮かべる。百合のように上品で、甘い匂いを漂わせる笑みを。



『葵。私は自分で思っていたより、弱かったみたいだよ。父さんが、妹が殺されたと知って、ぽっきり。心の芯が折れてしまった』

『止めてよ。母上は生きてるじゃない……行かないでよ』

『ごめんね』

『謝らないでよ。生きてよ。お願いだから』

『あなたは自慢の娘。私にはもったいなかったね』

『母上』

『弱い母さんを赦して。もう、疲れた。くたくただ』



 グッと言葉が詰まる。そんなに儚そうな表情を見せられては、もう。


 生きたいなら生きればいい。死にたいなら死ねばいい。その自由を他人が侵す権利など。頭では理解している。このまま無理やりに生かしても、母を苦痛に蝕むだけ。だが。



『生きてれば、何か希望が『そうだね。葵のお嫁姿、見たいね』


 言葉を発する毎に徐々に老け込んで行くように見える母親。生気がぼろぼろと乾いた泥のように抜け落ちて行く。



(お願い。待って。連れて行かないで)



 折れないようにそっと、だが手放さないように力を籠める。



『お願いだから。母上。生きて。生きようとしてよ』

『ごめんね。葵。皆のこと、頼んだよ』


 この強固な意志は変えられない。その事実が、腹立たしいほどに、悲しい。


『母上』

『愉しかったよ。あの城に生まれて。この里に来て。おとうさんに出会って。おまえに出会えて。幸福だった。もう、望む事はない』

『母上』

『おまえは大事な娘。いいね。私たちの娘だ。それだけは、覚えていて』

『違う。私はあなたたちの娘には。私は『娘だよ。それだけは譲らない』


 否定されても、頭を左右に振る。頑是ない子どものように。


『私は肉体を借りているだけ。本当ならあなたたちの子どもの魂が、真っ白な魂が宿るはずなのに。私が』

『ただ、生きたかっただけだろ。当たり前』

『私は』



 生きたい。この想いにこんなに罪悪感を覚えた日はなかった。

 葵は瞬時に気持ちを切り替え情けない顔を消した。



『約束します。ここにいる皆、この島から脱出させます。私が護ります』



(違う。そんなつもりで告げたわけではないのに)



 紗江は顔を歪めた。


 記憶をすでに持つ娘が生まれる。妹にそう知らされ、生まれ出た子。私たちの子ではない子。でも私たちの子。私たちの子になってくれた。それだけで十分なのに。何時も申し訳なさそうにしていた。

 どうしたら、本当の子どもだと伝えられるのか。伝わるのかが分からなくて。今でさえ。


 自分たちの傍にいるのが苦しいのなら棄てて欲しい。自分勝手にそう思った時さえある。

 棄てて、自由に生きて欲しいと。縛り付けたくなど、なかったから。それでも。

 母上と呼ばれるのは心地好かった。時々甘えて来るのも。心配してくれるのも。きっとこの子は演技をしていると思っているのだろう。私たちの子ならどうするか、と。



『おまえは、おまえの人生を生きなさい』


 私たちの顔色など窺う必要はない。自由に。自分の意思で。

 紗江はそっと葵の頬に手を添えた。愛おしくて、愛おしくて堪らない子。これからも生きて行く子。それはいけないこと。でもね。


『手に入れてしまったのだもの。仕方がないよ。思う存分、生きなさい。愉しみなさい。罪悪感なんて、覚える必要など一つもないんだよ。奇跡を手に入れただけ。親はね。子を補助するだけ。元気で生きていれば十分幸せなんだよ。それだけでもう、お腹いっぱい』

『母上』



 今にも泣きそうな顔が瞳に映ると、自然に笑みが零れる。

 ああ、そうだ。この子は本当に。ただ。



『ありがとう。本当に』



 言葉に言い尽くせないほどに感謝をしている。



『愛してくれて』



 最初は演技。今さえもそうかもしれない。でも、もうどうでもいい。



『おまえの傍は心地好かった』



 愛情を感じたのだから。もう。ごちゃごちゃ考えるのは止めだ。大体性に合わない。

 ニッと笑みを浮かべる。気のせいか、ほんの少しだけ、若返ったかのように身体が軽い。



『私も愛しているよ、葵。わたしたちの元に来てくれた子』



 どうかと、願う。この子の未来に、多幸をと。永い刻。一時でも長く。



『さようなら』



 その言葉を皮切りに、蝋燭の火が切れたかのように、早苗は息を引き取った。











『葵様』

『璉。ごめん』

『…はい』

『ごめん』

『はい』


 母親を土の中に埋め不格好な墓石を立て終えた葵の小さな背中を、璉はただ見つめ続けていた。








『あんた。何やってんだよ』

『泳ぎの練習』



 死のうとして底の深い湖の中に身を投げると、頭が勝ち割れたと錯覚するほどの衝撃を受けた。溺れ死ぬ予定だったので余計な痛みを受けた事になる。



(あれからもう、何年経つのか)


 葵同様、皆の前から姿を消した璉は一人、ただ彷徨うように歩を進めていた。






 自分は娼婦の子としてこの世に生を受けた。父親が誰かは分からない。知りたいと思った事もなかった。それは母も同じだったようで、女手一人で自分を育ててくれた。

 赤子を棄てる事が普通の世界。自分一人養う為に身体を売っているのに、誰が子どもを育てたいと思うのだろうか。

 それなのにそんな世界で、痩せこけた母は自身を削ってまで、自分を生かそうとした。



『あなたがいるから私は生きていられる』



 時折、幼い自分を膝に乗せ頭を撫でながら母は言った。

 生きていると実感できると。

 自分にはその言葉の意味が分からなかった。


 死体のように青白く、肉がほとんど付いていない皮と骨だけの身体を引きずって人々がかろうじて生きる世界。朝目覚め、食べて、夜眠りに就く。それ以外は、抱くか、抱かれるか。呆然と地面を、空を見るか。毎日、毎日。毎日。


 こんな世界を生きるのかと思うと、気が狂いそうだった。

 逃げ出したい。だが、他の世界へはどう行けばいい?どの道へ進めばいい?

 自分も、誰も知らない。見つけられない。だからこの世界にいるのだ。


 だが、たった一つだけ。この世界から解放される方法があった。

 とても簡単なこと。

 死ねばいいだけ。


 何故皆は行動に移さないのだろうかと思いながらも、初めて軽いと感じる身体を動かしそして、自分は誰も近づかない奥深い湖の中に身を投じた。藻が抵抗する身体の気力を奪い、水が自然と死へと誘ってくれる。抵抗さえしなければ、ほんの少しの苦痛で楽に死ねるはずだったのだ。なのに。



『何で俺を引き上げた?』

『何でって。落ちたのかと思って助けただけで』



 頭頂部に痛みを感じながら、自分を湖から陸へと引き上げた女を睨んだ。

 目が眩みそうなほどに、光に満ちた女。生きていると実感できる女だった。



『死のうと思ったんだよ』


 そう告げると目をほんの少し見開いた女は、次に頬を掻き、呑気に反芻したのだ。


『死にたい』

『ああ、そうだよ』

『何で?』

『この世界で生きていたくないから』

『死ねば違う世界に行けるの?』

『行けない。でも、この世界からは解放される』

『餅食べる?』

『はあ?』


 突然の内容の転換にその意味を理解するのに数秒かかった自分は次の瞬間、怪訝な表情と腹の底から疑問に満ちた声音を発していた。


『だから、餅食べるかって訊いたの』


 そう言うや、女は陸に置いていたのであろう、濡れていない包みから二枚の緑色の板を取り出しては齧り、もう一枚を自分の方に差し出した。


『要らない』

『そう。美味しいのに』


 そのまま咀嚼を続ける女をよそに、自分はもう一度湖の中に飛び込もうとしたが。


『何すんだよ』


 苛立たしいという感情を初めて知った。


『うん、まぁ。止めときなさい』

『何であんたに止められなきゃいけない』


 座ったまま自分の腰紐を掴んでいた女は立ち上がって、今度は両肩を手の平で包んだ。


『私よりこんなに小さいから』

『あんたの世界ではどうだか知らないけどな。俺の世界では俺より小さな赤子が道端のあちこちで死んでるよ』



 そう嘲笑うように告げると、女は一時黙った。

 自分の知らない世界で生きる女。知らないから、屈託もなく告げられるのだ。小さいから生きろ、など。生きられない人間にとってはどれだけ苦痛な言葉か。



『生きろなんて、簡単に口にしてんじゃねぇよ』



 吐き捨てるように告げた。

 どう生きればいいか分からない。だから自分も彼らのようになるのだろうと、漠然と、だが確実にそう思っていた。


 世界が自分たちをはみ出したのか。自分たちが世界に適合していないのか。恐らく後者で、あの世界の住民は生きたくとも生きられない人たちの集まりなのだ。


 何故あの世界に留まりあの世界からいなくなろうとしないのか。など、答えはそれだけ。



 不意に肩から温もりが消えたかと思えば、前に立っていた女は膝を曲げ自分の目線に高さを合わせて告げた。腹を立てているか。眉根をほんの少し寄せていた。


『なら簡単に死のうって口にするな』

『簡単なんかじゃない』

『ここから逃げたい。けどどうすればいいのか分からない。だから死のうってんでしょ。簡単以外何でもないじゃない』


 飄々とした物言いに頭に血が上った自分は気付けば、女の頬を思い切り叩いていた。ジンジンと痛む手を強く握りしめ、女を強く睨みつけた。唇が震える。


『何も知らないくせに。あんたなんかに、何が分かる』

『知りたくもないし、分かりたくもない。私は愉しんでいたいもの。だから嫌な事から逃げている。ずっとね』

『逃げることさえできない人間もいるんだよ』



 言葉を閉ざした女に畳みかけるように口にする。



『あんたに。違う世界で生きてるあんたに。言われたくなんかねぇんだよ』

『なら、違う世界に来ればいい』



 一瞬刻が止まったかのように感じたその時、どんな顔をしていたかは今でも分からない。

 ただ瞳に映る女の顔は真顔だった。



『あなたは死にたいわけじゃない。ただどう生きればいいかが分からないだけ。なら、一緒に探そう。あなたが生きていると実感できる時を。愉しいって思える時を』



 その時の笑みが目に焼き付いて離れない。優しくて、なのにどうしてか。研磨に研磨を重ねた硝子のように綺麗で、風が当たるだけで今にも壊れそうなほどに儚げだった。



『世界は広い。どれだけ生きても先が見えないほどに。だから、愉しくなるよ。きっと』


 その言葉を自分は望んでいたのかは分からない。ただ、涙が溢れて止まらなかった。


『私の名前は葵。あなたは?』

『璉』

『璉。じゃあこれからよろしくってことで』

『……あんた。何歳?』



 落ち着いた頃を見計らって話しかけてきたが、この問い掛けに何故か盛大に肩を鳴らし、目を右往左往させた女。見た目は十代だが。もっと年上に感じたのだ。三十の母よりももっと、もっと上だ。



『十五だけど』

『嘘だ』

『嘘じゃないし。見てよこの若々しい肌』

『これ本物?』

『本物だし』

『皮被ってんじゃないの……あんたさ。何でここにいるの?』



 母から聞いた話が頭を過り、ぞっと背筋が凍った。死ぬのには最適な人が全く寄り付かないこの場所。何故人が寄り付かないのか。それは―――。



『出るのよ~』



 努力してはいるのだろうが全然怖くはない顔をこれでもかと近づけながら、母はおどろおどろしげに話を始めた。


 永遠を生きる為に人の皮を集める、地獄から這い上がって来た鬼の話を。


 女をじっと見ながら、知らずに渇きを覚えた喉を潤す為にごくりと唾を呑み込んだ。



『鬼がね。出るのよ~』


 母の声音が頭の中で反響する。



(違う世界って……地獄)



『地獄って、愉しいのか?』


 ぽつりと零れた質問に、目を点にした女は次に怪訝な表情を浮かべた。


『行った事ないから分からないし、愉しい所だとは想像できないけど。まぁ、愉しいかもしれないよ。でも何で?地獄に行きたいの?』


 女の呑気な口調に、緊張し力んでいた身体から一気に力が抜け行くのを感じた。


(鬼でもいいし、何処でもいいや)


『うん』

『…そ、う。地獄、ね』


 その日はこれで別れたのだが、次の日から女は地獄に関する本を持って自分に読み聞かせし続けた。






『璉。この頃愉しそうね』

『愉、しい?』



 その非現実的な単語に戸惑う自分に、母は優しく笑いかけた。あの女に出会ってから一か月が経った今でも、自分は、自分たちはこの世界から抜け出せず、母は日に日に痩せこけて行った。

 女をこの世界に連れて来ればここも変わるのではないか。と女と出会ったその日の夜に自問自答してみた。変わると思った。ただし、希望溢れるものなどではなく。

 この世界が崩壊し、人々が死ぬのだ。



『葵さんのおかげかしらね』


 あの女の名を口にする時、母の表情は何時も陰る。母にはあの女の事を話しているが、会って欲しいとも会いたいとも、お互いに願わなかった。


『愉しいとか、思ったことないけど』


 その時の母の表情を見ると、何時も言い知れぬ罪悪感に見舞われた。

 母は言葉を返さずに一時、自分から目を逸らし小さな窓から空を仰いでいたが。



『私も、会ってみよう、かな』



 自分に視線を戻しぽつりと呟いた言葉に、不安を覚えた。


 母が言うように自分が愉しんでいるのなら、母もまたあの女と会えば愉しめるのではないか。この世界から抜け出せるのではと、希望を持つ事などできなかったからだ。


 反対すべきだと、率直に思ったのに。母が生きる為にこの世界に居続けなければならないとも思うと、何故だか、とても可哀想に思えて仕方がなかった。そう考えること自体、自分が変わった何よりの証拠だった。可哀想、など。



(まるで見下しているようだ)



 冷たくなった心を振り払うように子どもらしい無邪気な声音を発する。



『あの人に聞いてからの方がいいんじゃないかな』


 するとそうねと返した母はくすりと笑った。少女のように可憐な笑みだった。


『璉はどうして葵さんを名前で呼ばないの?』


 言われて気付く。『あの人』や『あの女』としか呼んでいない事に。


『…分からない』


 何故だか名で呼ぶ事に抵抗を覚える。






『…しかめ面して、どうしたの?』

『別に……ただよくやるなと思って』



 自分が湖に来る時、大抵この女はその中で泳いでいた。だから今日も何時ものように泳いでいた女は自分に気付くと湖から陸に上がり、顔だけを拭いて服は濡らしたまま近づいて来た。女曰く。『勝手に乾くのを待っている間涼しいから着替えない』だそうだ。



『それに身体も鍛えられるし身体も勝手に綺麗になるし。一石二鳥じゃん』


 毎日綺麗に身なりを整える母を見ているから、とても女から出た科白だとは思えなかった。そう、女は母やあの世界の他の女たちのような『女らしさ』がなかった。いや、なかったというよりもわざと出さないようにしているようだった。


『あんたさ。どうしてここに来たの?』

『湖が呼んでたから』


 そして意味不明な事をよく言う女でもあった。


『すいません。嘘です。偶々通りかかって見るとあまりにも綺麗な湖だったので泳ぎたい衝動に駆られて飛び込みました。ですがその瞬間、あまりの深さに驚き危うく水の底に沈む所でした』


 さらに自分が返事をせずにじっと見つめると態度を恐縮させ敬語になる。自分よりも遥かに年上なくせに、こっちの方が年上になった気分になる。


『あんた。その猪突猛進な性格、もう少し抑えたら。いい大人のくせに子どもみたいにはしゃいでみっともないよ』

『璉はもう少しはしゃいだ方がいいんじゃないかな。ちょっとさ。イヤッホーって言ってみ。イヤッホーって』

『誰が』

『ほらほら。恥ずかしがらずに』

『なに笑ってんだよ』

『愉しいから』


 ニマニマ笑みをこれでもかと表す女の言葉に、呆気に取られる。


『…愉、しい?』

『そ。愉しい。璉といれて愉しいし、嬉しい』

『何で?』

『応えてくれるじゃん。今みたいに。だから』

『別に、あんたの為じゃない。言っただろ。違う世界を一緒に探すって。だから仕方なしにあんたといるんだよ。好き好んでいるわけじゃないからな。嫌々なんだからな』

『世の中嫌なこともあるさ』

『……嫌なことがあるくせに、どうしてあんたはそんなんなんだ?』

『そんなんって?』

『嫌なことなんか一つもない。自分は幸せ。生きるの愉しいって。どうしてそんな風に笑っていられる。どうしてそんな風に生きていられる?』

『希望を貰ってるから』

『希望?』



 コロコロと器用に子どもと大人を切り替える女。今がそう。年下のように頼りなかったくせにどっしりとして何でも抱え込める年上のようだ。口調が変わったわけでもなく、声音がほんの少し変わっただけのくせに。



『璉。私はさ、本当に違う世界から来たわけよ。ここに来る前の世界で、私は希望を貰った。違うか。今も希望を貰ってる。だから愉しいわけ。生きてるわけ。私がどうってわけじゃないの。周りが私をこうさせてるの。はしゃがせてんの』

『希望なんて、俺には』

『だからそれを探そうよ』

『……一緒に?』



 こんな時、否が応にも子どもであると認識させられた。悔しいが。頼りない声音が自然と出て、負けた気分になって、ほんの少し自分に腹が立つ。こんな風に自分を変える女にも腹を立てる。なのに。離れたいとは思わない。



(それはあの世界から抜け出す為で。別に)



 誰にともなく女の傍にいる事の正当性を言い訳する。



『一緒に』



(まただ)



 この言葉を口にする時、女の表情に陰りが生まれる。全く、ちっとも似合わない。



『で。今日は何を持って来たの?』


 そう言うと、女は表情を明るくさせ、包みから或る物を取り出した。


『今日は地獄絵図を持って来たから二人で想像しよう。ちなみに、この絵が描かれたのは百十年前。後場舞ごばまいって珂国の人の作品。その当時は』



 絵巻をざっと広げ、その画に関する書物を目で追いながらペラペラと話し始める女を、自分はじっと見つめる。大体何時もこんな感じだ。女が本を持って、絵や自然や食べ物やらを説明するのをじっと見ながら耳を傾ける。見て、触って、嗅いで、食べて、聞いて。五感を全て使う。


 女と過ごす刻は愉しい、と言うよりは、安らかな刻だった。とても。心地いい。






『璉。観て、観て』


 或る時、二人で町を歩いていると、牛に牽かれる軒に乗った花嫁と花婿、彼らの後ろには何百人もの人がゆっくりと、厳かに歩く行列を見た。余程金持ちなのだろう。


『金持ちってもったいないことするんだね』

『う~ん。ま、否定はしないけどさ。結婚って人生の大事な転換期じゃない?あそこまで豪勢に行かなくても、まぁ、さ。特別に祝って欲しいと思うよ』

『ふ~ん』


 興味がなくて気のない返事をすると、女はニマニマ顔で自分に話しかけた。


『璉もさ。何時か好きな人ができて、結婚して、子ども産んで、新しい家族がどんどん生まれてさ。いや~、愉しみだな』

『…あのさ。人の人生勝手に決めないでよ』

『単なる希望ですよ。希望』

『自分で叶えればいいじゃん』


 そう言うや、女は頭に手を置き、照れくさそうに笑った。


『いや~。私は無理だよ。好きな人さえできた事ないしさ。想像できない。全然。他人のはさ、想像できるんだけどね』

『でも結婚はしたいんだ』


 そう感想を述べると、今度は腕を組み難しそうな表情を浮かべた。


『う~ん。どーだろ。結婚願望あるのかな?まぁ、人生に一度くらいは。経験してはみたい、かな。でもその前に好きな人ができなきゃ……無理。うん。無理無理』


 ケラケラ笑い出す女に、自分はまた気のない返事をした。







『初めまして。璉が何時もお世話になっています。白亜はくあと申します』

『あ、葵と申します。璉、君には何時もお世話になってまして』


 結局嫌な予感を抱えたまま、母と女を会わせる日が来てしまったのだが、女は何故か傍目から分かるほどに挙動不審で早口で会話を進め、瞳を右往左往させて母の目を見ないようにしていた。


『…あんた、なに緊張してんの?』

『美人だから』

『は?』


 呆れ顔の自分に、女は母に聞かれないように耳打ちをした。


『璉のお母さん、白亜、さん。美人じゃん。目合わせられないし』


 確かに母は美人だと思う。特にキリッとした涼しげな目元がそう思わせるのだろう。が。


『何で美人ならそんなんなるの?』

『知らないけど、自然とこうなっちゃうの。緊張しちゃうの。璉。どーにかして』

『どーにかしてって言われても』


 懇願され小さくため息をついた自分は母に向かい合い、素っ気なく告げた。


『母さんが美人だから緊張してんだって』

『あ、ら。それは、嬉しいわ。ありがとう』


 目を見開き戸惑っていた母はだが次に柔らかい微笑を浮かべた。


『美人なんて、言われたの初めてかも』

『美人って思ってても本人に真っ向から言える人なんてそういませんから。いるとしたら心臓に毛が生えた強人だけです』


 早口にそう告げた女の顔は何故か真っ赤になっていた。照れているのだろう。


(なんか、か『可愛いわね、葵さんて。ね?』


『母さん。幻覚が見えてんじゃないの?』

『あら』

『何?』

『ううん。何でもない』



 面白いものを見るかのような微笑に、ばつが悪くなった自分は立ち上がって二人に背を向けて歩き出し、湖の縁まで辿り着くと結構長い間その場に座り込んでいた。

 自分が二人から離れている間、二人だけでどんな会話をしていたのかは分からない。だが、戻って来た時には、女は先程のようには緊張してはいなかった。






 それから数日して、病に罹った母は呆気なくこの世から去って行った。

 最期の表情は悔しそうで、ほんの少し、安堵したようだった。

 母が自分に遺した言葉はたった一つだけ。

 でも多分。本当は違う言葉を遺したかったのだと思う。

 自分には眩し過ぎて、形に捉えられなかった希望を。






『璉、何を?』


 目の前で傅く自分に戸惑っているのだろう。それと黒装束の格好にも。


『母が逝きました』

『璉』

『傍に置いてください』



 お願いだから。



『……お母さん。白亜さんにあなたの事を頼まれててね。信頼の置ける人を探して、見つけられたの。当分は一緒にいるし、その後だって今までみたいにここで会えるし』

『母は私に言いました。『何があっても、あの人の傍から離れないで』と。あなたにも直接伝えたはずです』


 冷静な口調とは裏腹に、心の中では喚き続けている。


『璉』

『置いて行っても必ず追いつきます』

『必ず逢いに行く。約束する。それじゃあ、駄目?』


 突き放されたように感じ、地面を蹴り、女の脚に抱きつく。

 暗闇の宙に放りこめられたかのように浮き立つ身体。地に繋ぎ止めていたのは母だけ。自分は望んではいなかった。はずなのに。



『死にたくない、死にたくない、死にたくない』



 口早矢に言葉に発し、腕と衣を握る手に力を籠め、上を向く。涙が溢れ出す目には滲んで見える。最期の、今までの母の表情が。



『生きていたい』



 頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回され、喉が枯れるまで大声で喚き泣き続けた。




 あなたの傍でなくては、いけないのだ。












『葵、様』


 彼女と出会って十数年が経った或る日。母と同様、あなたもまたこの世から去って行った。人気のない森の奥、誰が埋めたのか。他と違う土の色と見た目に気付き掘り起こすと、眠ったかのように息絶える彼女が横たわっていた。


 恐る恐る頬に手を添えると、ぞっとするほどに冷たく感じ、これは現実なんだと思い知らされ、気付けば死体を抱きしめ、声を出して泣いていた。


 もう、この世界にいる意味を見出せなかった。

 あの男は生きるだろう。だが自分は。

 生きたいと願い、あなたの傍で生き続けた。生き続けられた。だからもう。



『どうして、一人で逝かれたのですか』



 驚くほどに落ち着いた、優しい声音が口から出て来た自分はじっと彼女の顔を凝視した。



 最期の最期まで自分の思うようには生きてくれなかった人よ。

 主と崇め奉る事でしか、名を呼ぶ事などできなかった人よ。

 あなたがいなくとも、前よりは普通に生きてはいける。確証はある。だけど。



『主と共に死ぬのが忠臣の役目ですから』



 あなたが聞いていたらきっと笑みを浮かべてぶん殴られただろうなと思うと、この状況下にも拘らずに笑みが零れた。






『おまえさ。逢いたい?』


 渦の中に巻き込まれたかと思えば、辿り着いた真っ白な世界で翼の生えた男にそう問われた自分。ほんの少し悩んで、その問いに答えたのだ。
















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