第11話 迷宮の彼方に隠した秘密、真っ白な世界だった(2)
『やっちゃって』
街中を一人歩いている時だった。数人の男たちに囲まれたかと思えば、一人の女の号令に沿い、その男たちが襲いかかってきた。が。
地面にうずくまる男たちから視線を女へと向ける。年は十代後半。あどけない顔。赤みがかった黒色の肩より短い髪形に丸い瞳。身長は150前後。体格、顔立ち、身に付けている物から裕福な出だと判断でき、何故自分に声を掛けたのかは容易に予想できた。これでもう数十回目だから。
若くして高官の座に辿り着いた将来有望な男性。しかも美形。彼女らの親は元より、彼女ら自身も無関心ではいられないのだろう。
『…で?』
私に真っ向から凝視された彼女は、突然、狂ったように笑い出したかと思えば、私を指差し金切り声をあげた。
『暴力であの人を支配して愉しい?ねぇ?』
歪む目鼻に輪郭。穴の開いた瞳。高く吊り上げられた口角。恐怖を覚えるには十分すぎるほどだった。
『おかしいと思ったのよ。高貴な血もない。財もない。魅力もない。学歴もない。何もないあなたにどうしてあの人が付いて回るのかって。でも。これで納得。手に入れたいからって』
『あなた。どうかしてるわ』
見下す態度。軽蔑。違う。もっと。暗く淀んだ言葉。
何も言えなかった私の前に、彼女は複数の宝石類と札束を放り投げた。
『これでも満足しないならもっとあげる。それで自分の好みの男性でも買えば?』
そう告げるやまた嗤い出した彼女に、私は何を告げればいいか分からずに、まるで他人事のように、呆然と見つめるしかなかった。
ずっと無言だった私が気に障ったのだろう。ピタリと笑いを止めた彼女はつかつかと距離を縮め私の胸座を強く握りしめ、見上げた。
その時に初めて、くっきりと形取られた彼女の顔が瞳に映った。
普通の女の子。ただそう思った。
恋をする、普通の女の子なのだと。
『何よ?何か言いなさいよ』
下唇を強く噛み締めた彼女は目元を険しくさせた顔を向けた。
『何で…何なのよ。あんた。いきなり現れて。草玄様を変えて。何よ』
『彼の気持ちに応える気がないくせに!!何なのよ!!あんたは!!』
『要らないなら頂戴よ!!私の方が!!ずっと!!ずっと!!好きなのに…全部あげられるのに。何であんたなのよ。何でよりにもよって。あんたみたいな女を』
『離れてよ。彼から…お願いだから』
今まで懸命に堪えていただろうに。この時になってぼろぼろと大粒の涙を流す彼女に。
不謹慎かもしれないが。
とても、綺麗だと思ってしまった。
(私には、無理だ)
瞳から少し溢れ出した涙は頬を伝い、地面に落ちて行った。
たった一筋だけの欠片だった。
『別れようって。まだ二週間も経ってないだろうが』
怪訝な表情を向ける彼に、私は何時もの笑みを向ける。
『確信したから。恋慕にはならないって。これ以上、芝居を続けるのは無駄だって』
『芝居、ね』
寝台の上に座っていた彼は立ち上がり、扉の前に立つ私の目の前に立った。
『全部芝居か?』
『そうだね。全部』
『なら俺は虚構に恋していた、ってことになるな』
『そうだね』
『飯食いに行くぞ』
返事を待つ暇もなく手を握られ、強引に外へと連れ出された。
夕刻。賑やかで温かい雰囲気が町を覆う時間。人々の合間を器用に抜けながら、視線は背を向ける彼と私の手に固定する。
私の手を覆い隠すほどの大きくて、ごつごつとした皮の厚い手。
とても熱く感じられたのは、重なり合っていたからか。
『美味いか?』
微笑を浮かべる彼に、進めていた箸を止めて口を開くも、何を言えばいいか分からずに箸を進め口に料理を運ぶ。甘めの玉子焼き。素材の味を生かした里芋と人参と鶏の煮物。少し焦げ目がついている焼き鮭。若布と豆腐の味噌汁。葱入り納豆。明太子。海苔。ふっくらと膨らんだ温かいご飯の具なしおにぎり。
今の故郷。それに、もう懐かしい、初めて生を受けた世界の味だった。
『美味しい。すごく』
『俺じゃ駄目か?』
空になった器から視線を上に向けると、とても真剣な真顔の彼が映り箸を机に置いた。
『初めてなんだよ。人の食べている姿見ているだけで幸せだって思ったのって。つーか。幸せだって思ったこと自体、初めてなんだよ。俺』
彼は照れくさそうに笑い、笑みを深めた。
『幸せも。安らぎも。愉しさも。心地好さも。愛おしいって気持ちも。ずっと一緒にいたいって。知りたいって。触れたいって。触れて欲しいって』
『愛して欲しいって。強く、思った』
ゆっくりと、ゆっくりと、噛み締めるように告げられた。
『葵が俺を活かしてくれたんだよ』
(何でこんなに、言葉が出て来ないんだろう)
頭の中が真っ白になって、何も言葉が出て来ない。全くだ。
それでも何か言わなくちゃいけなくて。
『私は、あなたたちみたいにはなれない』
滑らかに出てきた言葉のあまりの適切さに苦笑した。今の私には彼らは眩し過ぎた。直視できないほどに。眩し過ぎる。
『幸せになってください。兄上なら、絶対に大丈夫』
正座したまま頭を深く下げて、穏やかに笑った。心の底から、笑えたんだ。
『さようなら』
(私情を挟んで任務を反故したから自国に帰れって。まぁ、当たり前か)
自国へ向けゆっくりと川を下る船の甲板の上で、じっと波打つ川を見つめた。
『草玄の義理の妹となり敵国の朝廷に潜り込んで情報を収集する事』
今回の任務は以上。それだけ。
疑問は一つ。何故草玄だったのか。和(自)国出身でもないのに。
(大体老子も。珂(敵)国の重鎮なのに、こっちの王と結託して。何企んでんだか。王位?はは。まさかね)
そんな本の中でしか見られないような大それた出来事に巻き込まれるわけがない。
(ほんと。遠くまで来たな~)
地球の日本の最期の昭和生まれ。両親、姉に囲まれた普通の家庭で生まれたちょっと変な思考を持った普通の女の子だったのに。
(…いや、普通…じゃなかったかな)
『お母さん、お父さん。なんか不死の存在になっちゃった』
『『おめでとう』』
親指を上げて祝福する両親。姉は遠くの大学へ行っていた為に自宅にはいなかった。
(普通、頭が変になったか心配するでしょう。いや。冗談だと思われていたんだろうな)
別段、変な宗教にはまっていたとかそう言うのはなかった両親を何かに例えるなら。
(鳥の巣?)
意味が全く分からないとお思いだろう。自分でもよく分からない。そう、よく分からない人たちだ。うん。
(来るもの拒まず、去るもの追わず。あ○ちゃんか)
『老人くさいですよ』
甲板の上で寝転び、ほのぼの陽に包まれながらうとうとと微睡む中、私の隣に全身灰色に覆われた人物が立った。かろうじて目だけは見える。見るからに窮屈そうな格好だ。
『璉。せめて覆面取ったら?息しにくいでしょう』
『信用に足る人物しか顔を見せるわけにはいきませんから。それは亡き母と、主だけ』
(…でもこの格好って、自分から『怪しい人物ですよ』て言っているものだよね)
連れて来るべきではなかったのは確かで。でも見捨てられもしなかったのも確かだ。
まだ十歳の幼い少年なのだ。生真面目で勤勉で無愛想な、ただの少年だ。此方側に来るべきではなかった。
寝転んだままの視線を固定させる私の隣に、璉は膝を抱えて座った。
『後悔していますか?見捨てなかった事を』
『後悔しているのは自分の力のなさ。窮屈な世界に連れて来てしまったこと』
『何処にいても窮屈ですよ。でも、あなたの傍ではほんの少し広く見える。見たいと思えた。綺麗なんだと、信じたいと思った。あなたに連れて来られたんじゃない。自分で着いて来たんだ』
真直ぐに向けられる純真な瞳。彼もまた、一人の眩し過ぎる存在。
『もうすぐ子どもの日だし。ちまきと柏餅、一緒に作ろうか?母上と父上と、皆と』
『……あなたは何時までいるつもりですか?』
『死ぬまで』
不満げな声音にきっぱりと言い渡した後、上半身を起こして彼の頭を優しく撫でた。
『なぁ。捨ててもいいんだぞ』
王お抱えの密偵集団『
城に寄った後に帰ってきた私と璉は迎えられ、今。大きな石の上に座って、髪の毛が残念な結果になってしまったがまだまだ顔は若い、六十の今の父親、
雲一つない夜空に半月が煌々と光り輝く。
『捨てるだの捨てないだの。あなたたちは骨ですか?いいですよ。骨としましょう。骨は分解されて大地の栄養となるんです。如いては生き物の栄養になるんです。何が言いたいか、分かります?』
『おまえ。酔ってるな』
『酒豪の父上に似ないで残念無念』
顔を熱くさせ胡乱な瞳を向ける私に、父は徳利の中の酒を仰ぎ月に視線を固定させた。
『俺たちは王の為に死ぬ事を誉れとしている。あの世で声音高々に自慢するぞ。けど、おまえはそうじゃない。だろ?』
『他人の為によく死ねますねって話ですよ。はいはい。ご立派、ご立派。いや~。私には真似できない。うん』
本音炸裂。酒はすごいもので人を饒舌にさせてくれる。
『窮屈な世界だと思うか?』
『人が窮屈。世界は広い。雄大。自由。でも。人もまたそう思わせてくれる。訂正。人も世界も広い。もう、辿り着けないくらいに。だから愉しい』
『愉しい、か?これからも?』
『これからも』
『命じられた任務をこなしたとしても?』
『……やっぱり首領たる父上には告げますか?王も人が悪い』
いい具合に酔いが回って来て、心地好い気分になった時だった。後ろで結ばれた年相応の灰色の髪の毛にたるんだ頬、細みの体形の五十歳の今の母親、
『『男は王の命を護る為に。女は王の血を護る為に』我が一族は王の為に存在した。父さんと同じように、私も王の為なら喜んでこの命を捧げるよ』
『母上』
母の言うように。私たちの一族は王族の為に存在した複数あるうちの一つの保険だった。
王家の血を継ぐ一族は血に恥じないように、男女共に学問を教わりながら、男たちは身体を鍛え密偵の仕事に就き、女たちは王に身を捧げ血を絶やさないようにしてきた。身を潜めて生きているのは全て王家の為。
だから私ももれなく血を継いでいた。そして多分。現王の姉である母を持つ私は一族の誰よりも血が濃かったのだろう。
それ故ではないだろうが。現王は私に女としてではなく男、密偵として育ててきた。
今までは。だが。
『敵国の血を喰らえ』
これが今回私に課せられた任務。その意味は明白だった。
力を誇示し血を滅ぼすのではなく、己に流れる血で血を滅ぼせと。
簡単に言えば、敵国の王家の子を産み落とせ。と言う事だ。
その子どもを敵国の王に仕立て上げ支配する。王はどうやら内から滅ぼしたいらしい。
(老師はそのお膳立てをする。つまりは自国の王の暗殺?子どもが生まれたら、だけど)
断れば殺される。私ではない。一族が、だ。複数ある内の一つの保険。失っても痛くもないのだろう。
『草玄の義理の妹として朝廷に潜り込み情報を集めろ』
前半は戯れでいいと王は告げた。だから失敗しても責は問わぬと。
結果失敗したわけだが。この失敗さえも計算されていたとしたら?
つまりは彼を私に惚れさせる。彼の好みを熟考した末に私を派遣したのだとしたら。
情報源は老子。私にそれを告げなかったのは感づかれる可能性を少しでも減らしたかったから。『妹』は護る対象者として一番感情移入しやすい。知らぬ内に愛も芽生える。親愛であれ恋慕であれ。
つまりは草玄もまた王家の血を受け継ぐ者。恐らく本人さえ知らないのだと思う。
全ては王と老師の机上の空論。恐らく。これさえも戯れだ。成功したら儲けもの。失敗しても次の策を試せばいいと。此方は命を懸けなければならないのに。
莫迦げている。だが一族はそんな王でも見捨てる事はしない。違う。この世界ではこのやり方が普通。私にとっては教科書の中でしか知らなかった世界で、だがまがう方もない現実。
そして記憶を持っていなければ私もまた、彼らのようになっていたはずだった。
演じきれない私が悪いだけの話。染まってしまえば訳などない。どうせ生まれ変わるのだからこんな人生もあるのだろうと諦めればいい。など。
譲れないものは誰にでもある。そして今回の任務はそれに反していた。
一族の命と自分の想い。秤はどちらに傾ければいいのか。
『葵。子どもは愛する人と産み落としなさい』
『見捨てろって?皆はそれでいいのかもしれないけど。私はやっぱり嫌だ。生きていて欲しい。ねぇ。逃げようよ。皆なら、王お抱えの軍隊からも逃げられる』
そう小さく抵抗しようとしても、両親は苦笑じみた顔を向けるだけ。
『おまえにこの世界がどう見えているかは分からない。けど、この世界に馴染めていないように見えた。おまえに瞳を向けられると、何時でも無言でおかしいと訴えられているようだった。でもこれが普通だ。私たちにとっては。おまえに与えられた任務も私なら喜んで行くよ。成功すれば王の役にも立て自分の血も残せるのだから。これ以上ない誉れだ』
『……』
『でもおまえはそうは思わない。なら、自分に正直に生きなさい。それが私たちの望み。王を捨てられない。捨てるならおまえを捨てる。でも、おまえの為なら命を捨てられる』
そう告げては誇らしげに微笑を浮かべる両親から顔を背ける。
この世界の人達は私にとって眩し過ぎた。
自分の想いを他人に預け、また受け止める勇気も。
揺るぐ事のない強靭な意志も。
命を燃やして生きる姿勢も。
(訂正。王もまた本気)
私にとっては戯れと思うこの任務も、王は、伯母上にとっては本気なのだ。
記憶を持っていなければ、疑念さえ抱く事はなかっただろう。
真っ白なまま、この人たちの子どもとしてこの世に生を受けたのなら。
『父上。母上。ごめん』
きっと本当の子どもになれただろう。
『ごめん』
今頃になって罪悪感に苛まれる。ずっと欺いて生きてきた事に。
(私はあなたたちの本当の子どもになれなかった)
その事実がすごく悲しかった。
形成された人格。変化があったとしても微細なもの。根幹的な思考はもう、変えられない。だからこの世界に馴染めない。平和な中で形成された私が。
戦に明け暮れる世界に、馴染めるはずがなかったのだ。
だからと言って、英雄となって戦を辞めさせるほどの才覚も実力もない。
逃げを善しとする私は一番大事なその気持ちすらないのだ。
(情けない)
嫌になる自分。それでも嫌いにはなれない。結局自分に甘いのだ。
愉しく、など。嫌な事から逃げているに過ぎない。
そして今回もまた。
『母上。父上。璉をお願い。普通の子にしてあげて』
了承してくれた父母を、一族を、主と見てくれる璉を残して私は立ち去った。
『葵をおまえの元にやったのは、子を宿してもらう為じゃ。和国と珂国の王家の子をな』
葵が俺の元を去った後、老師に葵を俺に近づかせた本当の理由を訊きに行けばあっさりとこう答えたのだ。
『おまえは誰彼構わず求められたら抱くくせに、子を創る事は拒絶するからの。惚れさせるのが一番の方法だと思った』
『自分の血が残るなんて、吐き気がする』
『それでも抱いたな。子ができたらどうするつもりだった?』
『殺すつもりだった』
『……葵が子を望んでもか?』
『何で俺なんだ?国王も健在。王子もいるだろ』
老師の問い掛けも、国王の隠し子だったという事実も、もうどうでも良かった。もう何もかも。以前と同じ。何もかもどうでもいい。世界に流されるままに生きて行く。つまらない人生。それでも死は望まない。何故かは、分からない。
『つーか。あんたは何を望んでいる?あっちの王と結託して王位を目指してんのか?』
気だるげにそう尋ねたら、老師は微笑を浮かべた。
『新しい時代を見たい。それだけかの』
老人のくせに、爛漫に瞳を輝かせていた。
『戦にはまった世界。最早血で血を洗うしか方法はない。だが本当にそうなのか?違うやり方もあるはず。だが、分からない。ならば、他の者に答えを求めるしかない。新たな命に、の』
『他人任せかよ。自分で頑張れっての』
『自分の限界を悟ってしまった。もう抗えない。ならばせめて、その手助けをしたい』
『葵と俺の子がそれを叶えるって?莫迦じゃないのか』
『おぬしらは世界を変える意思がない。だが新しい情報、思考を持ち合わせておる。望ましい事に敵国同士で王家の血を受け継いでおる。のう、草玄。子は情報よ。何故子を産み続けるか。血を第一に考えるか、など。簡単じゃ。情報を子に託してより良い未来を作って欲しいから。それは何故男女が交わらなければ子が産まれぬかの答えでもある』
『あほらしくて聞いてるのも莫迦莫迦しいが、叶わなくて残念だったな』
『そう思うか?』
その問いかけに、苦々しげに舌打ちをして睨み付ける。胸糞悪くて反吐が出る。
『人質。か。くだらねぇ。あんたらの荒唐無稽な願いの為に『別段、不都合はなかろう。惚れた女を抱く唯一の機会かも知れんのだぞ』
卑しい笑みに、気が付けば老師の胸座を両の手で強く握りしめていた。
『何を今更躊躇う?女など、幾らでも抱いて来ただろうに。それとも愛しい女子は特別か。本当は誰よりも『黙れ。殺すぞ』
射殺すような視線も向けられているのに何を血迷ったのか。老子は喉を鳴らし、嬉しげな笑みを浮かべた。
『本気で惚れたか』
首を絞められているに近い状況。なのに、それを微塵も感じさせず胸座から乱暴に手を離した俺に、それでも老師の笑みは消えない。
『男はいざとなると臆病になる、か。のう、草玄。愉しかろう。退屈な毎日でも生きていれば新しい自分を見つけられる』
『何が、愉しいものか。くだらねぇことに巻き込もうとしているくせに』
葵にとっての人質が彼女の一族なら。
俺にとっての人質は葵だ。
(くそ)
穢れている自分。綺麗な彼女。触れるには分不相応過ぎた。
抱きたいなど。共に生きていたい、など。
あまりの夢物語に、自嘲する。
そんな綺麗な生活を送れるはずなどないのだ。
『じじい。俺があんたの願いを叶えてやる』
今までは色褪せた世界の中。
唯一生きていると実感できたのは、抱いていた時。抱かれていた時。
だがこれからは。
『見せてやるよ。血で血を洗うのではない。金で血を洗う時代を』
欲に塗れた世界の中。
唯一生きていると実感できるのは、一人の女を想う時。
『伯母上。玉座を御譲り頂きたい』
薄暗い玉座の間。部屋の奥。二人だけ。王だけが座る事を許されるその畳の上に鎮座する和国の王、伯母上は不敵に笑った。
『子を産むのはそれほど苦痛か』
『ええ』
高貴な顔立ちに扇形に固められた漆黒の髪形。漂わせるのは冷静な威圧感。姿形も態度も、仕草、表情、全てが王たるべく生まれた人。名を
普段なら床に這いつくばるように座り、顔を下げたままの対面。だが今日は膝を曲げて背筋を天井に伸ばして座り、真直ぐに顔を捉える。
『子を産むからこそ生きる価値がある。女子も男子も変わらん。そして、女子の方が得よ。産む喜びを感じられるからな』
『…そうですか?』
不満げな態度を見せる私に、伯母上はわざとらしく同情じみた声音を発した。
『余程難のある男にでも回り逢ったか』
『別に。そういうわけでは、ありませんが』
『そうよの。何千年も生きて来たくせに、男を知らん』
巫女の伯母上。占いで私が不死の存在である事は知っていた。その軌跡も。占いなどと莫迦にしていたがあまりにも当たるので、驚きを通り越して薄気味悪く感じたものだ
『いいですよ。別に。これからも。一生知らなくても』
『玉座を譲り渡せ、と言うたな。その意味、分かっておるのか』
『ええ』
『おまえが忌み嫌う事をする必要がある』
『ええ』
曇り一つない光に満ちた瞳。一時無言で見つめ合うが、次の瞬間、王はふっと口元を綻ばせた。
『冗談も大概にせよ。おまえのような道楽者に国を任せたら小一時間で沈むわ』
『いえ。今は柔軟な若者の思想が『私より実年齢は高いくせによう言うわ『年寄りでも新しい感性を持っている人など山ほどいます』
食い下がる私に、王は凛とした声音で突き返す。
『渡さぬよ。おまえに王は向かん。流浪の旅人が似合いじゃ』
『……行きませんよ。まだ』
『戦が鎮まるまでは。それとも、父母を見送ってから、か』
『死ぬまでは』
『何故そこまでこの世界に執着するかの。馴染めぬ世界であるのに』
『さぁ。ただ逃げるように立ち去りたくはなかったのですよ。この世界からは。それだけの話。そんなに意外ですか?』
驚きを隠さない表情に、ばつの悪そうな顔を向けた。
『私だって、逃げたくない時くらい、ありますよ』
『それほど魅力的であったか』
ぽつりと呟いた王は一瞬見せた儚げな表情を一変させ、小憎たらしい笑みを向けた。
『大莫迦な姪よ。なら、役立ってもらうかの』
そして命じられたのが、五つの大国への平和協定の打診の任。今までとは違い、王族の一員として。
一番初めに向かうは和国より西に位置する辺境の地、『
それから五年の月日が経った或る日。
『漸く、最後』
私は最後の国『珂国』へと足を踏み入れたのだ。
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