1章 旅立ち編

第10話 迷宮の彼方に隠した秘密、真っ白な世界だった(1)




『あお、い』



 堪えんとする荒い鼻息。一文字に結ぶ口。潤んだ瞳。眉根を寄せる顔。熱い体温。強く握りしめられた手。時折強く、小刻みに揺れる身体。

 苦しいくらいに強く脈打つ鼓動。微睡み沈み行く思考。幾度も。幾度も名を呼ぶ心。

 怒涛に押し寄せ、身体中を駆け巡り、吐き出されて行く感情。

 快楽。幸福。狂喜。陶酔。そして。



 これだけは彼女の名に籠めて奥底に隠す。隠し通す。言葉にしてはいけない。



『あおい』



 不満から生じる一つの渇望。



『葵』



 ―したい。






 彼女から貰った沢山の『初めて』が。

 俺を狂わせる。















「うごごばすぼげ○▼×■!?」


 昼近く。『仙水門』で眠っていた草玄が瞼を開き、またその近くにある公園一帯に断末魔が響き渡った瞬間でもあった。











『じゃあ、待ってろよ』


 三か月間付き合おうと言う事になって、早一週間。彼が食べ物を買いに行って一人となり、街行く人々を見つめる中、思わずため息が出た時だった。


『巧く丸め込めたようですね』


 何の感情も籠ってはいない何時もの淡々とした口調で、自分と同じくこの国に派遣された仲間が姿を見せずに話しかけてきた。


『…まぁ、ね』


 視線は前、街行く人々に固定したまま。夕暮れ時だからか。町は活気づいていた。


『分かってはいると思いますが』

『油断はしない。だから、安心して』


 考える間もなく断定した物言いで口にしたら、一時無言になった仲間だったが、慎重な物言いで忠告したのだ。余計なお節介かもしれませんがと、丁寧な言葉を添えて。

 あの男だけは止めておけ、と。




『悪い。大分混んでて……どうかしたか?』

『ううん。何でもない。美味しそうだね』


 両の手に蒸し籠を持った彼に、私は何時もの人当たりのいい笑みを返しながら、心の中でそっと仲間に呟き返す。











(来た、か)


「空!!葵来ただろ!!」



―――『オール』の新しい仕事場。


 植物がそこかしこに置かれている部屋の中で、何時ものようにのんびりと新聞を読んでいた空と机で何やら書き物をしているランドの耳に怒涛の駆け足音が入り、目の前の扉が勢いよく開かれたかと思えば、険しい形相の草玄がずかずかと入ってきて、きょろきょろと辺りを見回しながらあちこちを忙しなく動き始めた。


「来ていない」

「葵!!いるんだろ!!」

「落ち着け」


 空の発言などそっちのけで家捜しを続ける草玄の肩に、ランドが後ろから優しく手を置くと、草玄は勢いよく彼の方に顔を向けて口を開こうとしたが。


「そんな顔してちゃ、もしいたとしても出て来れんだろうが」


 落ち着いた口調でそう告げるランドに、目を丸くしたかと思えば視線を少し逸らして、すいませんとぽつりと呟き、子どものように所在無げな表情を浮かべた。


「また、いなくなるんじゃないかって。俺の前から、いなくなったのかと思ったら。気が急いて」


 項垂れる草玄は今にも泣きそうで。ランドは空の方へ視線を送るもゆっくりと首を左右に振るのみ。


(……草玄。すまん)


「俺も一緒に捜すから、な」

「すみません。空にそっくりで。でも、全然違って」


(……まぁ、いいけどな)


 突っ込みたい所だが堪えたランドは草玄を外へと連れ出した。


「葵。もういいぞ」


 彼らがいなくなってから数分後。空がそう告げるや天井の一部に穴が出現し、そこから葵が降りて来て床に音もなく着地し、姿を現した。


「す、すいません」


 居心地の悪そうな表情を浮かべる葵に、空は自分の目の前にある茶色のソファに座るように勧めた。


「私はあんたから生まれたなんて。不思議なもんだな」


 視線は手に持つ新聞に向けたまま。空は率直に感想を述べた。草玄の言ったように、顔も体格も同じパーツ、同じ位置にあるのに、雰囲気の全く違う葵へ。


「なぁ。死んだ後って、どうなるんだ?」

「?記憶は」

「もう薄らとしか残ってない」


 葵と自分が分裂?して後、写真の色が急速に褪せて行くように、自分の中から葵の記憶は消えて行った。当然だ。もう自分は葵から独立した、一人の人間なのだから。それでも、完全にはいなくならないが。


 そうなんだと葵は呟くと、空の疑問に答え始めた。


「死んだ後、魂が身体から離れるとね。死神に通路に放りこまれて、二十四時間稼働中の洗濯機に回されながら地上から天上に連れて行かれるの。記憶を洗い流す為にね。全部の魂がごっちゃまぜに回されて、天上に着いた時には真っ白な魂になって、次の生を得るまで待機するの。真っ白で意思も何もないから、ぷかぷか浮いてるだけ。眠っている状態だと思う」


「洗濯機ね。気持ち悪そうだな。あんたは免除されるのか?」


「いやいや。死んだら洗濯されるべし、だから。不死でも必ず連れて行かれるのよね。抵抗したら幽霊になるだけだし。おとなしく回されなきゃいけないわけ。もう、気持ち悪いったらないわよ。しかも自然に反した存在だからって、次の転生までにえらい時間かかるし。その間暇だから、閻魔大王とか鬼とかにこき使われるわけよ。例えば洗い残しがないか、とかの点検とか洗濯機の補修とか。自分の記憶は元より、動物も人間も植物もお構いなしに同じ洗濯機にいれられるから、時々、吐き出した記憶が他の生物に移っちゃう事とかもあってね。見つかったら、手洗いでごしごし取られなきゃいけないのよね」


「…草玄はそれでも手放さなかった」


 一瞬、身体をビクリと動かした葵だったが、目を細め、ゆっくりと微笑を浮かべた。


「うん。莫迦だよね。ほんとに」

「…私は草玄なら大丈夫だと思う。思うじゃなくて、絶対に大丈夫だ」

「空」


 視線を漸く葵へと向けると、悲しそうな表情が瞳に映った。それでも、この想いに嘘偽りはなくて、伝えるべきだと思ったんだ。


 一人で生きられない事が弱さだと言うのならば。

 一緒にいてと、他人を強く求めるのが弱さだと言うのならば。

 別段、弱いままでもいいのではないだろうか。

 辛いよりはずっと、面倒ではない。



(大体、強いとか弱いとか。どうしてそう面倒な事ばかり考えるんだ。全く)



 羨ましいとか、自分もそうなりたいとかは微塵も思わない。だけど。



「あんたら、すごいと思うよ。お互いに、あんなにも好き合うって。愛し合うって。すごいとしか言いようがない」


 自然に口元が綻ぶ。心が温かくなる。ほんの少し、こそばゆくもなるが、正直に思ってしまう。確固たる確証もないのに、断言してしまう。他人の事なのに。


「草玄はあんたの願いなら何でも実現するぞ。飛べと言ったら、屁でも耳でもでかくして飛ぶだろうし。不死の力だって。必ず手にする。もう、離れて悲しむ必要もない」


 

 この考えは間違っているのだろう。人は必ず死ぬ。その理に背く行為だ。だが理って誰が決めたんだ?ただ人が死んでいる事実を大層な言葉にして縛り付けているだけ。


 死ななければいけない謂れなどないだろう。


 生きたければ生きればいい。死にたければ死ねばいい。自分の人生だ。他人に無理強いでもしない限り、自由にすればいいだろうに。



 つらつらとそう考え、じっと見つめて葵の言葉を待っていると、ぽつりと呟いたんだ。


 笑っているのに、泣いているように見えて。どうしてか、胸が締め付けられるように痛んだ。葵だったから共感しているのだろうか。


 だけど、もう葵ではないから、彼女がどうして悲しんでいるのかが分からない。



(…私は、どうしたんだ)



 草玄が現れて、葵の記憶が甦り。自分の中で何かが変わり始める。芽生え始める。

 呑気ではいられなくなりそうで、離れたいのに。離れなければいけないのに。離れ難い。世話をかきたくなる。口を出さずにはいられなくて、もどかしい。



 こんなにも幸せになって欲しいと切に願うのは、同一人物だったから?



「ごめん。ちょっと外に出て来るね」

「いなく、ならないよな?」


 自分でも信じられないほどに頼りない声音だった。まるで。


(心細い、のか?どうかしてる)


 芽生えるのは、或る感情。貰えなかったもの。何となく、答えは出てはいるが。


(幼い子どもじゃあるまいし。どうしたと言うんだ)


 戸惑う空に気付いているのか。立ち上がっていた葵はニッと無邪気な笑みを向け、あっけらかんと言い放った。


「いなくならないって。けじめつけてないし」




「彼女に付いてなくていいのか?」

「今仕えるべきは空様ですから。姉君から高給な賃金を頂いているわけですし」


 葵がいなくなって後、何時の間にか音もなく孔冥が空の横に立っていた。


「孔冥。私はどうかなった」


 疑問ではなく断定した物言いに、孔冥は何時もの猫のような笑みを浮かべ口を開いた。


「不快ですか?」


 何がどうなったか、など口にしてもいないのに、何もかもが分かっているような口調に、面白くない感情が滲み出る。


「…不快、じゃないが、何か嫌だ」


 孔冥は思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。


(漸く見られましたね)


「葵には素直になれと言ったのに。御自分も素直ではないようですね」

「……うるさい」

「おや。遅い反抗期ですか?」

「家庭教師はどうした?迎えに行ったんだろう」


 何時の間に手配したのか。役人になりたいからと、勉学を教えてくれる人材の紹介を空に頼まれた草玄は早速両親である国王夫妻に話をつけ、今日、王家お抱えの家庭教師が早速教えに来る手はずになっていたのだ。


 話を意図的に逸らした空に、孔冥はますます笑みを深めた。


「その不気味な笑みを止めろ。不気味だぞ」

「いえいえ。可愛くなったと感慨深くて。はいはい。家庭教師は忘れ物をしたと城に戻ったんですよ。はい」

「孔冥。これは何だ?」


 何処から持ち出したのか。ソファの上にこれでもかと本が山盛り積み重ねられて行く。少しでも振動を起こせば今にもほんの雪崩が起きそうだ。


「教材です」

「何のだ?」

「嫌ですね。役人になる為の、ですよ。家庭教師に抜擢された人物はそれはもう熱心な方で。態度には表していませんでしたが、必ず受かってもらう、と熱い心がひしひしと伝わってきました。良かったですね。空様」


 呑気な自分だから一人では絶対勉強ははかどらない。そう考えて草玄に家庭教師を頼んだのだが孔冥の言葉に素直に頷けない空。そんな思考停止寸前の彼女をよそに、未だに本をソファに積み重ね続ける孔冥はそうそうと口を開いた。


「しっかりと覚えておいてください。これからお世話になるのですからね。家庭教師の方の御名前は」





「……れん。え?いやいや。すみません」


 人違いでしたと、話しかけてきた人物に頭を下げて立ち去ろうとした葵だったが、それは敵わなかった。


 全身灰色の衣を身に付け、目を覆うほどの前髪に、長い髪を三つ編みにして前へ垂らす長身無表情男性。口調は淡々としたもの。そう。かつての仲間に瓜二つの彼に腕を掴まれた為である。


(いやいや。だって、前世?昔のまんまだし。人違いでしょ。うん)


 例え彼に葵様と告げられても、人違いなのだ。絶対。


「えーと。ああ。葵って。どちらの葵でしょうか?この町にはもう一人葵と名乗っていた女性がおりまして」


 思わず敬語になり、彼と気まずい雰囲気になった時のような態度を取ってしまう。

 つまりは挙動不審だ。

 全くの無表情の彼に、にへらと笑みを向ける葵だったが。


「和国出身の無葵。武の腕を買われ敵国の珂国に間諜として送り込まれた葵。つまりあなたですよ。お久しぶりですね。葵様」


 淡々とした口調でも怒りが籠もっているのが分かり、瞬時に顔が凍りつく。何故分かったかって?ずっと一緒にいたからだ。あの時代では。草玄よりも。


「お、お久しぶりです。璉」


 目の前の男性がかつての仲間だと観念した葵は意味もなくアハハと笑い出した。人間。何かを誤魔化す時には笑うのが一番なのだ。




「初めまして。空さんの家庭教師をする事になりました。璉と申します」

「れ、璉!?おまえまさか!?え?だって、俺の時はマカリモって名乗ってたじゃ!?」

「はいはい。草玄。うるさいですよ。葵、どうぞ」

「ええ。初めまして。空さんそっくりですが、全くの別人。世の中には三人同じ顔がいる事を証明しましたね。ハハ。はい。葵と申します」

「「「は、初めまして」」」


 紹介されたランド、オラルド、オリーブは瞬時に彼らに背を背け、こそこそと話し始めた。


「葵さ、空さんにそっくりですね」

「けど、全然違うな。雰囲気が」

「瞳に光があるかないかでえらい違いだな」


 そーっと振り返り、空と葵を見比べてまた背を背ける。


「でもいくら似ているからって、愛する人を間違えるなんて。草玄さん。見損ないました」

「まぁまぁ、落ち着け。オリーブ。急にいなくなって気が動転してたんだろうよ」



 ランドは空から葵に関する事も、彼女の出自も全ての事を打ち明けられてはいるが、オラルドとオリーブは空が偽名を名乗っていたのは親子喧嘩をして親に付けられた名を棄てようとした結果で和解して元に戻し、草玄は捜していた恋人、つまり空が記憶喪失になって自分が分からなくなったと勘違いして猛アタックをしていた、と説明させられたのだ。



『世の中、不思議な事だらけだ』



 空から話を聞き終えたランドはそう告げて、全てを信じたのだ。全くの夢物語を。


「けど」


 まだ納得のいかないオリーブは頬をほんの少し膨らませた。


「空さんにも、葵さんにも、失礼ですよ。やっぱり」

「まぁ、さ。二人には謝ったって言ってたし。赦してやれよ。な?」


 愛しのオラルドに頭に手を置かれ、そう優しく諭されては渋々でも頷くしかないオリーブに、オラルドは彼女から手を離し、ランドへと視線を向けた。にやにやと面白いと言わんばかりの笑みを浮かべて。


「社長も親莫迦ですね。空に勉強するならアジトでやれ、なんて」

「男と二人だけで勉学など、集中できないでしょうが」

「社長。照れてるんですか?」

「誰がですか」


 オリーブからもからかうようにそう告げられ、ランドはそっぽを向いてしまった。




「おまえ。璉、か?あの璉か?こんな顔してたのか?」

「莫迦ですか、あんたは。生まれ変わったのですから以前と同じ顔なわけないでしょうが」

「いやいや。同じだし」

「同じではありません」

「は、はい。そうですね。すみません」

「二人でイチャツクな!!」

「孔冥。彼も前世仲間か」

「ええ。私もびっくり仰天ですよ。彼は何時も覆面をしていて素顔を見せなかったですから。唯一無二の主以外は」

「…つまりは、葵が彼の主、だったわけか」

「はい。で、補足事項として。璉殿は草玄の事が大嫌いですね」

「それは、主を奪ったからか?つまり彼も葵の事が好きだった」


 空と孔冥の視線は葵と草玄と璉に固定させたまま。何やら言い争っている草玄と璉に、彼らを宥める葵を見ながら数秒して、空に問われた孔冥は顎に手をかけ、少し違いますねと告げた。


「好き、と言えばそうでしょうが。恋慕とか親愛とかではなく。本当に命を懸けて護るべき存在。忠義心。地球の日本の武士と殿の関係ですかね。美しく儚い、ね」

「そう、なのか」


(なんかまたすごいやつが現れたな……彼も洗濯機と手洗いに耐えたのだろうか?)


「イチャツクなど。そんな軽薄な言葉で我々の関係を貶めないで頂きたい」

「く~。気に食わないやつだったが、やっぱり気に食わないやつだ」

「それは私もですよ。葵様。どうしてこんな男を選んだのですか?無理やり手籠めにされ子を孕まされて仕方なしに、でしょう?」

「璉」


 璉の発言の内容に、葵のその一言で一気に場の空気が冷え下がり、物音一つしなくなくなる中、自分に真顔を向ける葵に、璉はぐっと拳を作り相対した。


 ずっと、ずっと思っていた事がある。


「不快な思いにさせたことは、謝ります。ですが、あなたに非はない。全てこの男が悪いのです。あなたは新しく生まれ変わった。もうこの男の言いなりになる必要は…本当なら、前だってこんな男に。恐怖で縛られる必要はなかったのに。やはり殺しておくべきだった」



 嘘を言っている風には聴こえはない。本気でそう信じ込んでいるのだ。だがどうして。


(こいつは何を言っているんだ)


 何かを勘違いしているとしか空には思えなかった。


「あなたには、そう見えていたのね」


 真顔な表情からは感情は読み取れなかったが、寂しそうな、痛みを堪えるような声音だった。


「はい」

「そう……そっか」

「葵」

「草玄……璉、が言ったこと。嘘じゃないでしょ」


 草玄の身体に戦慄が走り、顔が瞬時に固まる。


「あお「さよなら」


 葵は蠱惑的な笑みと、そして冷たい瞳を草玄に向けた。


「ああ、昨夜の事は忘れて。ほんの戯れだから」


 そう告げては、葵はゆっくりとした足取りでその場から立ち去って行った。

 草玄が呆然と立ち尽くす中、空は唇を強く結んだ。


(これが、あんたのけじめのつけ方か。莫迦じゃないのか)


 これ以上ないくらいに腹を立てる。目の前にいる莫迦二人にもだ。


「草玄さん。何をやってるんですか?」


 空が言葉を発そうと口を開くよりも早くに、事の次第をただ傍観していたオリーブが低い声音を発した。


「何を立ち尽くしているんですか?どうしてすぐに止めないんですか?」

「行かせませんよ」


 扉の前に立ちはだかり進行を遮る璉に、オリーブは険しい表情を向けた。


「あなた。どうしてあんなひどいことを言うの?」

「事実を述べただけですが」


 淡々とし、自分は間違ってはいないと疑うことのない口調に、態度に、苛立ちが増す。


「あなたの言葉は二人を傷つけただけよ」


 無表情は変わらず。だが口調は荒くなる。


「傷つけたのは、あの男だ。何時も、何時も。あんたの色眼鏡では葵様がどう映っていたかは知らないがな。俺には何時も苦しそうに見えた。何時も。何時もだぞ」

「それもあんたの色眼鏡だろうが」

「隠れて泣いていたとしてもか?それでも?」


 璉は空に射殺すような瞳を髪の毛の合間から向ける。


「あの男は最低だ。死んだような身体なのに流されるままに女を抱いて。吐き気がする。さっさと死ねば良かったのに。どうして生きてんだ?どうしてまた葵様の前に現れた?」

「そこまでにしておけよ。兄ちゃん」


 ざっと前に現れたランドは璉に睨まれながら、頭をぼりぼりと掻いた後、睨み返した。


「頭に血上って見失ってんじゃねぇよ。おまえの言葉はな、大切な女一人泣かせだけだ。おまえにとっての事実でも。傷つけていい事にはなんねぇよ。草玄。行くな」

「社長。俺、ちが、だって」


 混乱しているのだろう。窓から飛び出そうとしていた草玄は声を震わせて挙動不審になっていた。


「社長」

「空。分かってやれ。あんな事を言うくらいだぞ」


 大きく開けた口をゆっくりと閉じた空に、ランドは優しく頭に手を置いた後、草玄と璉を見つめ、出て行った葵の態度を思い返した。


 出会って間もないのに。驚くくらいに先程の彼女の態度は演技だと分かる。なのに草玄は動揺している。少なくとも、演技だと判断する余裕がない。それは。


 彼女の言葉に動揺するだけの心当たりがある、と言う事だ。

 ここで草玄を彼女の元に行かせても、何も解決しないのは目に見えて分かる。

 ランドはガシガシと乱暴に頭を掻いた後、眉根を寄せた。



(全く。やるせない事にだけはなって欲しくはないんだがな)








「全く。何時から自分を傷つけるようになったのですか?」

「何のこと?」

「私も遠ざけますか?」


 葵を見つめていた孔冥はふうと小さくため息をついた。


「今のあなたは気に入りませんね。全く。不快です……幻滅です」

「ああ、そう」

「その演技、全く似合いませんよ」

「今までが演技だったのよ」

「…葵。偽りは愉しむ為にあるのです。苦しめる為ではない。どうして本音を隠すのですか?どうしてあなたは何時も一人になろうとする?」

「たかだか道具の分際で人に問うの?」


 ピンと空気が張り詰める中、一時無言で視線をぶつけていた二人だったが。


「今は何を言っても逆効果のようですね」


 そう告げた時の孔冥の表情は怒っているようにも、気落ちしているようにも、悲しんでいるようにも見えた。





 孔冥に背を向け、ゆったりとした足取りで歩いていた葵の足が公園の人気のない場所でピタリと止まり、目の前にあるでこぼこの表面を持つ大木にゆっくりと片手を置いたかと思えば、額を思い切り叩きつけた。

 幾度も。幾度も。

 絶えずぶつけられるその振動で、数枚の青々とした木の葉がはらはらと地面に落ち、表面には赤い液体が滲み付けられて行く。

 数十分後。不意に動きを止めた葵は木に背を向け、或る方向へと一直線に歩き出した。




「……どっかのお化け屋敷にでも行くつもり?今のあんたなら本物に見えるから、大繁盛を通り越してお客が寄り付かなくなるわよ」



―――茶道教室『仙水門』にて。


 インターホンのチャイムが鳴り引き戸を開けた先には、額から一筋の血を流す暗い表情の葵が瞳に映り、先生は辛辣な物言いでそう告げた後、じっと葵を見下ろした。


「お茶を飲ませてください」


 その視線を受けて数十秒後、葵は頭を深く下げそう願い出た。




「孔冥って人から大体の事は聞いたわ。世の中って、まぁ、摩訶不思議だし。不死の人間がいたって、別段だから何?って話よね」



 葵に適切な処置を施して後、先生はお茶を立てながら言葉を紡ぎ続けた。

 優しい声音と、お茶を立てる規則正しい音が心地好く耳に入る。



「何で私にそんな話したのよって訊いたのよ。そしたら、何て言ったと思う?『多分、あなたに相談しに来ると思います』って。私が頼りがいのある人間って見抜いてたのね」



 先生はお茶を葵の前にそっと置いた。無骨な手に似合わないほどに、丁寧で綺麗な作動だった。葵は片手でお茶を手に取ってもう片方を添えて口に運び、こくりと一口喉に通して後、ほんの少し口角を上げて、片手でそっと床に下ろした。



「美味しいです」

「あんた。茶道経験ないでしょ?」

「はい。見よう見真似で。初めてなんですよね。ずっと苦いと思ってました。でも甘くて。本当に美味しかったです」


 力ない笑みはゆっくりと消えて行ったが。


「すみません。見ず知らずの方に、話すべき事ではないのは分かっています。でも」

「まぁ、全くの見ず知らずじゃないし。もう巻き込まれたわけだし。半ば強制的に?」


 軽快な物言いに目を細め、口を結び口角を上げた。


「すみません」

「私って自然と人を寄せ付けるのよね。魅力があり過ぎるのも考えものよね。でもそれが宿命?みたいな。だから。もう、吐き出しちゃいなさい。どんどこ」


 優しい表情に葵はさっと顔を俯かせ、正座となった太股の上に拳を強く押し付けた後、ゆっくりと拳を開いて、全身の力を抜かせた。


「私、ずっと逃げてたんです。ずっと。呆れるくらいに。ずっと」


 視線は床に置かれていたお茶。抹茶色の液体に固定させたまま、ゆっくりと言葉を発し始めた。







 ふわふわと身体が地に付かない。

 ぐるぐると頭の中で虫が無数に飛び交う。



「私。おかしいんです。不死になって、何千年も生き永らえ。いい加減死にたくなっただろうって訊かれても、ずっと死にたくないって言い続けてきました。それは今も変わりません。死にたくない。全く。微塵も。これっぽっちも。死にたいって思った事はありません。肉体が死を迎えた時も、次に逝き返るって保障があるのに。怖くて。怖くて堪らない。他人の死も。あまり見ないようにしていた。背けてきたんです。ずっと。これが自然で。私が変で。って。開き直ってたんですよ。死ぬのが普通。私は変。だから生きていられる。知らない事を知るのが愉しいから生きている。知識欲を満たせばそれでいいって。そうやって、逃げ続けてきたんです。死から。人から。逃げて。逃げて。ああ。私はずっと逃げて行くんだろうなって、確信してました。だけど」


「彼。草玄に出逢って変わった」



 不意に口を閉ざした葵に、じっと耳を傾けていた先生は初めて言葉を添えた。


「人を深く見るようになったのね?」

「…莫迦ですよね。本当に。何千年も経って漸く人と向き合うなんて。大莫迦ですよ」



(別に、莫迦でも変でもなく。本能的に避けてただけ)



 生きる為に本能的に危険を察知し回避していただけの話。何もおかしい事などない。


 何千年も人と直に向き合い、受け止める。など。



「大丈夫?」


 先生は立ち上がって、口を手で押さえる葵の背を優しくゆっくりと擦った。

 信じられないくらいに顔が真っ青に変色しているのだ。


(どんどこ吐き出しなさい。とは言ったけど)


 葵を手洗いに案内して後、稽古場へと一人戻って来た先生は窓わきに活けてある花を目を細めて見つめた。


(名前、何だったかしら?)


 十数枚の細長い黄色の花弁に、ロゼット状の根生葉。風に運ばれ芽吹く命。




「片想いと両想い。どちらが辛いのかしらね」










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