第7話 一本の木には異なる芽が生え独立する
これは今もなお鮮やかに思い出せる、愛しい人との記憶の断片。
思えばこの会話を交わしたのは、君がいなくなるほんの数日前の事だった。
『あの、さ。約束……した、よね』
君の身体にもたれるように、後ろから抱きしめていた時に遠慮がちに君は言ったんだ。
『あれ、ね』
『逢いに行く。必ず』
続きを言わせまいと、抱きしめる力をほんの少し強め、ゆっくりと告げた。
『だから』
君にとって。
『待っていてくれ』
望まぬ約束だったのかもしれないのに。
「だとしたら俺は」
草玄は朦朧とする思考の中に身を投じ、何時の間にか眠りに就いてしまった。
「葵…愛している…と…うるさい」
「夢の中でも出没しているようですね」
深夜0時を回った頃。本を読んでいた孔冥だったがぶつぶつと呟き声が聞こえたので本を閉じ、隣の部屋に向かい扉を軽く叩き主の名を呼ぶも返事はなし。失礼しますと声を掛け部屋の中に入ると、真っ暗な闇が辺り一面を包んでおり、どうやら起きてはいない様子。寝台の方へ近づくと冒頭の言葉を呟いていたのだ。
「うるさい」
虫を追い払うように片腕を上げ手を上下に動かしている葵を見て、孔冥はふっと微笑を浮かべた。
「願いは叶えましたが、このままではいられませんよ。そう遠くない何時か。あなたも思い出す刻が必ず来る。そして、あなたの本音を知った彼はきっと願うでしょう」
「その刻、あなたはどうするのでしょうね?」
冷たく暗い微笑を。
幾ら伝えまいと堪えても。
告げずにはいられなくなるだろう。
人の心はまこと。
他人に縋りつかずにはいられないほどに。
弱いものなのだから。
「…孔冥。開けろ」
「嫌です」
「孔冥。未成年の少年少女を二人だけにするなんて危うい事は止めなさい」
「大丈夫ですよ。草玄は風邪を引いて寝込んでいるのですから、あなたが考えているような事は起きません」
「莫迦ですね。こういった状況が一番危ういのです。待っていなさい。今開けますから。孔冥。鍵を渡しなさい。どうしてこの建物は外からしか開かない鍵を付けているのでしょうか。管理人に直すように勧告しなければ」
扉越しだが、葵の耳にはくっきりと言葉は届いていた。
孔冥と警察署長の。
(どうしてこんな事に)
依頼人が待っている十階建てマンションの最上階にある一番右側の部屋へ赴いたところ、葵たちを玄関で出迎えたのが警察署長で。彼が依頼人かと思いきや、孔冥が彼の腕を引っ張って外に連れ出し、葵を中へと押し込め外から鍵を掛けたのだ。
風邪を引いて寝込んでいる草玄のいる部屋へと。
走り回る音が聞こえる中、葵の耳に孔冥の言葉が近くから遠くからと届く。
「相棒なら看病をして当然でしょう?」
「ただの相棒ならな。だが好意を寄せられ応える気がない以上、私はいない方がいいんだ」
「またそんな堅苦しい事を言って」
「孔冥。早く渡しなさい。何かあってからでは遅いのですよ」
「署長。草玄の知り合いなら彼を信用してはどうですか?」
「無論信用していますよ。ですが今は普通の状態ではないのです。そんな所に愛しい人が来てみなさい。何をしでかすか分かったものではありません」
「寝込んでいるほど重症なら何もできませんよ。彼は」
「あなた。速まった事をしでかしてはいけませんよ」
「するか。いいから早く孔冥から鍵を取って出してくれ」
「分かっています。孔冥」
徐々に彼らの声が遠ざかり、とうとう聞こえなくなってしまった。
「…まだかかりそうだな…飛び降りるか」
草玄が寝ている寝室の扉は閉まっており、葵はその部屋を素通りしここから脱出せんとベランダへと向かったが。
「…無理、だな」
さすがは十階建て、で。隣の部屋のベランダに視線を移動させても、乗り移れないほどに距離があり、断念するしかなかった。
「まぁ、このままベランダにいれば、顔を合わさずに済…む」
「…どうしてここに…早く帰れ」
居間への扉が開かれたと思えば、弱弱しい姿の草玄が入って来て、葵を視認するや険しい表情を作りそう告げたのだ。
「…悪かった。孔冥が悪ふざけで私を閉じ込めたんだ。どこかに隠し扉とかないか?そしたらすぐに出て行ける」
(孔冥。要らんお節介を)
「管理人に電話したら開けてくれる」
「電話したが出なかった。多分、孔冥の仕業だろう……私はベランダにいるから、ゆっくり養生しておけ」
「いい。俺が部屋から出なければ問題ないから」
そう言うや、草玄はスタスタと冷蔵庫の方へ向かって一本のペットボトルを手に取り、素早くその場から去って行った。
葵には少しも近づかずに。
「…だから来たくなかったんだ」
(孔冥め。葵に風邪が移ったらどうすんだ)
水分を補給して後、寝台の上に横になった草玄は額に腕を当て、淡い緑色の天井をじっと見つめていたが。
「あ~くそっ。落ち着かねぇ」
その腕を寝台の上に伸ばして真横に落とした。
気持ちが弱っているからか。何時も以上に。
「顔が見たい」
本音を言えば、看病してもらいたい。優しくしてほしい。この時だけでも。
この時だけでいいから。
目を細め、ほんの少し口の端を上げる。
(情けねぇ)
「葵」
「…………」
葵は行きと同様に、寝室の前から音を立てないようにそっと居間へと戻った。
(……落ち着かない)
用もないのに居間の中をぐるぐると移動してしまう。
「らしくないな」
もう何十周と回っただろうか。葵は俯いてふぅとため息をついた後、顔をすっと上げ足音を立てながら草玄の部屋へと向かった。
草玄の耳にこちらに向かう足音が届いたかと思えば、扉を叩く音が聞こえる。
寝台から上半身をバネのように勢いよく起こし、口を開くも瞬時に閉じた後、ゆっくりと言葉を発する。
「食べ物なら好きに食べていいからな」
「大事な話がある。入っていいか?」
「…俺が、おまえに好意を持っている事を知った上で、そう言ってんのか?」
何を言っているんだと、心の内で呟くも、止まらない。
どれだけかかろうとも待つ自信はあったのに。
焦る気持ちを吐露するはずなどなかったのに。
「期待…して、しまうだろうが」
滲み出すような言葉が耳に届いた葵は一旦口を開くも閉じ、ゆっくりと頭を左右に動かし、まっすぐ前を向いて言葉を発した。
「ちゃんと顔を見て、話がしたい。今」
「今じゃなきゃ駄目か?」
(この状態で、なるべくなら)
「ああ。悪い。風邪を引いているのに。けど、早くに伝えておいた方が互いの為だと思う。風邪なら大丈夫だ。頑丈だからな」
「…じゃあ、扉を開けたら顔が見えるから、それでいいな。部屋の中には入るなよ」
「分かった」
「話って、何だ?」
扉を開けた先にいる互いの顔をしっかりと見る。
「記憶を取り戻そうと思う」
草玄は目を大きく見開いた。
「何で急に。つーか、俺の話信じていたのか?」
「今更だな」
葵は少し大げさにため息をついた。
「本当なら信じたくなかったが、夢の中で一人の男性が出て来て。私の、葵の名を呼ぶ。あんたと全然違うのにな。前世のあんただろうと思う。そして、私…葵の声も。顔は見えないけどな。記憶を取り戻さないでと」
「なら」
「私も最初は取り戻さない方がいいと思った。けど、もうメンドイ」
目が点になった草玄の瞳に映るは、ほんの少しすっきりした顔の葵だった。
「メンドイ?」
「言っただろう?私は呑気に社長に恩を返しながら生きていたいと」
「ああ」
「このままあんたにも、夢の中の…記憶を失う前の私、に振り回されるのはごめんだ。呑気に生きられないからな。だから、さっさと記憶を取り戻して、さっさと解決させたい。悪いがあんたの気持ちに応えるつもりは毛頭ない。今の私は。けど、記憶を取り戻した私は、分からない。これが正直な私の想いだ」
「…えっと。俺のこと、好きにならない?」
朦朧とする頭の中、無数に広がる考えを必死にかき集めて言葉を捜す。
「ああ。友人としては面白いと思うが、絶対にない」
「そ、そうなの」
何故だろうか。あまりショックを受けていないのは。
どこか戸惑っている草玄の心情を察し、葵は言葉を紡ぎ続ける。
「あんたが捜している葵と私は、やはり別人だよ。記憶を失った直後にあんたと出会ったのなら兎も角。もう私は私の人生を歩んでいる。吸収したものが違うから、やはり別人だ。だから、同一人物でも別人だよ」
「…どうしてさ。わざわざ俺に記憶を取り戻すって言ったんだ?別人なんだし、気持ちに応える気が毛頭ない以上、そう伝えればいいだけで。俺に気を使う必要はないだろ?」
「どの口がそう言える。幾ら拒んでもしつこく迫っているのは誰だ?」
うっと言葉を詰まらせ、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
「まぁ、そうだけど」
「私はどちらにせよすっきりすると思うが。記憶を取り戻しても、あんたにとっては幸福な結末が待っているとは限らない。言っただろう?夢の中の彼女は」
「『記憶を取り戻さないで』と願っていたと」
「ああ」
「それがどういう意味か、私は分からないが。けど、逃げていると思う」
「逃げている?」
眉根を寄せる草玄に、葵はああと伝えた。
「逃げることは必要だと思う。けど、何時か必ず向かい合わなければいけない日が必ず来る。直接的にせよ、間接的にせよ」
言葉に出しながら考えをまとめて行くうちに、思い至る。
自分は。
(そうか)
彼女の為に生み出されたのでは、と。
奇妙な気分だった。
自分がまがい物の存在かもしれないのにそれほど衝撃を受けない事も。
記憶を取り戻せばどうなるか分からないのに、心がこんなにも落ち着いている事も。
(悩むのは好きじゃないからな)
「草玄」
「葵、今」
初めて。そう、草玄は今初めて葵に名を呼ばれたのだ。
どうして、など。疑問をぶつける必要はなかった。
(もう、心が揺らぐ事がないから、だろうな)
だがそれは自分も同様だった。
今目の前の彼女と、捜し求めている彼女は違うと、確固たる自信を持ってはっきりと言われ、心が決まった気がした。
草玄は布団から出て、葵の制止を振り切って床に座り土下座をした。
「今まで、ごめん。俺はあんたのことを、愛してはいないと思う」
「何よりだ」
惜しむ気持など微塵も無い。その素っ気ない物言いに、本気の本音だと分かると、妙に笑いが込み上げて来るが、飲み込む。
草玄は勢いよく上半身を起こし、ニッと満面の笑みを向けた。
「けど。友達として、あんたのことは好きだ。大好きだ」
「…あんたは本当に恥ずかしいやつだな……けど。私も、友人としては、あんたのことは好きだ。と思う。多分。そうだと」
「…曖昧だな」
「仕方ないだろう?あんなに気持ちを連呼するやつを友人……彼女はよくあんたを夫にしたな」
「今とは、違ったんだよ。夢に出てきたなら顔見ただろう?」
「そうか。見た目で誤魔化されたのか。詐欺だな」
「違うからな。俺の全部を好きになってくれた…んだよな?」
「分かるか。記憶を取り戻して直接聞け」
草玄は不意に真顔になった。
「葵は、おまえはそれでいいのか?記憶を取り戻したら、おまえは」
「別に消えるわけじゃない。吸収されるだけだ。葵の一部として、な」
「けど」
「このままじゃ、彼女はずっと苦しいままだ。救ってやってくれ」
草玄は微笑を浮かべた。
「おまえ。変なやつだな」
「私はすっきりしたいだけだ……で、草玄はどう思う?彼女に会いたいか?会いたくないか?それだけを考えろ」
「そんなの」
すぐさまに言葉を発するも、次の言葉はそう続かない。
目の前の葵に申し訳ない気持ちがないわけではない。記憶を取り戻したら、この人の人格がなくなる可能性は高いのだ。
この人がこの人のまま生きられる可能性は低いのだ。
けれど。
「会いたい。会いたい。会いたい……会いたい」
「そうか。なら、記憶を取り戻そう」
初めて見るかもしれない、見間違いかと思うほどの微笑に、項垂れそうになる頭を固定させ、視線を逸らさない。
「ごめん」
「謝るな。どうなっても私は後悔しない。断言できるな。ただ」
「ただ?」
葵は顎に手をかけ、草玄からほんの少し視線を逸らした。
「記憶を取り戻して、彼女が万が一にも、あんたとまたよりを戻したとしたら。その。恋人…まかり間違って、妻になるん、だよな。私も」
「ま、あ。おまえは葵とは違っても、やっぱり葵だから。そうなるな……そんなに嫌か?」
「私が、あんたと。デート…したり、手を繋いだり、微笑み合ったり、抱き合ったり……あまつさえ、接吻……子作り。想像したくない。嫌だ」
「そこまで」
ぶつぶつと呟く葵に、呆れが生じる自分を奇妙に思うも、納得も行く。
(全く)
草玄は重たい身体を支えんと、寝台に背中を預けた。
調子がいいものだ。彼女と違うと分かった途端、今までなら傷つくであろう言葉もあまり重く受け取らなくてよくなる。
本当に一友人としての言葉として、受け止められる。
(俺って、現金、だったんだな。単純とも言うか)
だが仕方がない。なんたって別人なのだ。別人。
『はい。例えば……接吻、とか』
はたと、孔冥の言葉が頭を過る。
記憶を取り戻す方法として提示されたショック療法。
童話などでは、目を覚まさない姫に王子が接吻をして目覚めさせる話があるが。
(…浮気、じゃない、よな。葵だし。けど別人だし。そもそも、了承する、のか?)
「嫌だからな」
「何も言ってないだろう」
「気付いてないのか?ぶつぶつと呟いていた」
「まじか」
「ああ」
病気になると隙だらけになるものなのだ。
草玄は頬を掻きながら気まずそうに告げた。
「まぁ、俺もできれば。葵とだけしかしたくないしな」
「一途だな。まぁ、だから」
(記憶を取り戻そうとも思ったんだがな)
すっきりしたのは勿論だが、ここまで一途な態度を見せられては。
(葵。悪いな。私は記憶を取り戻す。あんたが何に怖がっているのかは知らないが。このままじゃ、何も解決しないのは確かだ。だから)
もう一人の自分よ。
自分と、そして目の前の男を拒まないでほしい。
「最終手段としてだな」
「いいのか?」
「仕方がないだろう。私にとってそれほど衝撃的な事はないわけだし。けど、最終だからな。最終。他の手段を全て試してそれでも駄目な時だけだ」
「そこまで言うか?接吻つっても、唇と唇が当たるだけ…じゃない。うう。神聖なものなんだ」
「…人の事は言えないな。さて、話も終わったし。もう休め。お粥くらいなら作っといてやる」
「ありがとな」
草玄はもそもそと身体を動かし、寝台に横になった。
それを見守って後、葵が扉を閉めようとした時だった。再度草玄が礼を述べたのだ。
ほんの少し、心の中が温かくなるのは気のせいか。
(友人としては、な)
「ゆっくり休め」
「ああ」
「孔冥。聞いていたな。私は記憶を取り戻す。だからその前に、決着をつけてくる」
居間に戻った葵が誰もいない部屋でそう告げるや、目の前に孔冥が現れた。
「おまえは彼女と共に旅をしてきたんだよな」
見上げる葵に、ゆっくりと浮かべた微笑を向けた。
「はい」
疑問ではなく、断定した物言いだった。互いに。
「おまえは彼女に休んでほしかったんだな」
優しい微笑を。
「どうですかね。ただ、見てはいられなかった。だけです」
「そうか……十七年。世話を掛けたな。ありが「別れの言葉はまだ早いのでは?あなた自身も決着を着ける。でしょう?」
「ああ。そうだな」
葵は視線をベランダの向こう、遥か彼方の空へと向けた。
何時の間にか、穏やかな夕暮れが姿を現し、世界を蜜柑色に染め始めている。
その名の通り、甘くも酸っぱくも、苦味もある時刻を創り出す。
「行こうか。SPOの本部がある『世界』へ」
「はい」
「母さん。草玄も風邪を引いたようだ」
「親子揃ってざますね」
葵と会おうとしていた謎の人物…草玄の両親も風邪を引いて寝込んでいた。
恐らく、今暫くは会えない事だろう。
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