桜の口づけは囁きのように

犬養ワタル

第1話

「先輩!」


 何度聞いたか分からない、後輩の声が聞こえる。彼女は小走りで来たようで、少し呼吸が荒れていた。


「焦らなくても待ってるよ」


 大きな桜の木の木陰で卒業証書を片手に彼女を待っている。別に約束をしていた訳では無いが、ここに来れば彼女に会えるだろうという確信めいたものがあった。


 まだ冬の寒さを残した春風は僕と彼女の高潮した頬を、髪を撫でる。首筋を滑る冷たさと、服越しに伝わるぽかぽかした陽気が対照的で心地よい。

 

「最後にお前と話したかった」


 最後、と言うのはこの高校生活に置いてだ。だが、地方であるこの都市を離れて上京する以上、この先中々彼女には会えないだろう。


「先輩、行ってしまうんですね……」


 裏庭の桜の木の花が風に揺れるたびに散る。ふわりと浮いて地面に落ちるその花びらは、どこか切なく、心を締め付けた。


「そう泣きそうな顔をするな」


 桜の幹に体を預けていた僕の横に彼女が来る。皆が最後の思い出となる写真を撮るために集まる校門前とは異なり、この桜の木の周りには僕らを除いて、人は誰一人として居ない。


「そういえば、僕らが出会ったのもここだったな」


 少しの沈黙の後、僕は口を開いた。1年前、彼女と出会った時も丁度こんな春の日差しが恵みのように降り注いでいた気がする。


「先輩、レジャーシートをわざわざ持参して、ここでご飯を食べてたんですよね」


 彼女は苦笑する。1年の時は教室や食堂で友人と昼食を取る事もあったが、一人で居ることが好きな性分、雨の日と冬以外はここでシートを広げて弁当を食べ、残った時間で本を読んでいた。


「ああ、今日も持ってくれば良かったかな。思い返すと、あの時はお前と出会うなんて思っても見なかったよ」


 僕は彼女と出会う前から彼女を知っていた。というのも、とんでもない美人の新入生がいると、とても話題になっていたからだ。彼女が入学した直後、友人に無理やり連れて行かれ一目みたが、そのクールな印象に二度と会うことは無い人種なんだろうな、と勝手に決めつけていた。


「まさか、僕に気づかずに泣き始めたから、あの時は本当に困ったよ」

「その節は失礼しました」


 彼女は学校内で、上の学年ですら話題の上がる程の美貌を持っている。そんな彼女が同性から嫉妬を買うのは時間の問題で、入学一ヶ月しない内から悪質ないじめに遭っていたらしい。


 彼女は人前では決して涙を見せなかった。その事がいじめを助長させたのは知らないが、彼女は人が滅多に来ないこの桜の木の下に来ると、しゃがみ込んで泣き出した。


「あの時、ハンカチを渡したら睨まれてびっくりしたよ」


 そう言うと彼女は少し俯いてもじもじとした。


「あの時は近づいて来る男の人は下心を持っていて当然だと思っていましたし、それに泣き顔が見られたのが恥ずかしかったんです」


 彼女はハンカチを受け取ると逃げるように何処かへと去って行った。それで彼女との関係は終わりかと思ったが、後日彼女は律儀にもハンカチを返しに、また桜の木の下に来た。


 彼女が何故泣いていたのか気になっていたが、敢えてそれを尋ねる真似はしなかった。


「私、不思議だったんです。何も尋ねてこない先輩が。自意識過剰じゃないですが、今まで弱い所を見せるとすぐに男が寄ってきたので。しかもその後に言われた言葉が少し嬉しかったんです」


 彼女にこの学校内で居場所がないだろう事は予測できた。だから過剰に干渉しないようにしようとも思っていた。だがあの時、彼女がまた泣きそうな顔をしていて、何もしないで見ているのはこちらの心が傷んだ。


「だから僕は、『何も聞かないから、辛くなったら此処に来なよ。誰も来ないから』って言ったんだっけ」


 今振り返ると何様なんだと思うし、少し気障ったらしい気がして顔が熱くなるが、彼女が嬉しいと言ってくれたので良しとしよう。


「そう。その言葉に少し救われたんです」


 その後の昼休み、雨の日以外は彼女が来るようになった。一緒のタイミングでご飯を食べ、残った時間で本を読む毎日だ。

 最初は同じシートの上で美少女と一緒にご飯を食べているという状況だけで緊張したが、彼女の精神的負担を増やしたくないので、その感情は押し殺した。


 でもそんな日常に段々と慣れて行き、彼女と過ごす静かな45分間は学校で最も落ち着ける時間となった。人と居るのだけで緊張する僕にとって不思議なのだが、横に人がいるのに穏やかな気持ちになれた。


「一ヶ月くらい経った後、お前が初めて口を開いた時は嬉しかったなぁ」 


 6月になり桜の花びらは完全に散り、葉の緑で周りの景色が染まり始めた頃、彼女は初めて口を開いた。内容は何の本を読んでいるのか、という他愛のない物だったが、それが僕にとってはとても嬉しいものだった。


 それ以降、彼女はポツポツと僕に話しかけるようになった。家族の事、習い事の事、そして本の事。ただ、友達が居ないと相談された時はどう答えれば良いか分からなかったので、一緒にじっくりと考えたりもした。

 能面の様な表情も日に日に変わっていき、笑顔だけでなく、呆れた表情や照れた表情、怒りっぽい表情なども見せるようになった。


「先輩は自分のことを余り口にしないので、色々聞くの大変だったんですよ?」


 彼女のジトっとした視線が真っ直ぐこちらを捉えるので、思わず顔を逸してしまう。


「あの穏やかな時間はよかったなぁ」

「ちょうど体育祭があった頃ですよね」


 体育祭については、非力文学男子である僕には特に関係ない話だ。だが、彼女が出し物で踊っていた時は、周りの景色が溶けたように感じる程、彼女を見ていた。


 彼女がこちらを見て手を振った。そうすると、周囲がざわつき始め、そこでようやく

周りを見る余裕が生まれる。目を奪われるなんて経験、あれが初めてだった。


 体育祭を終えると、あっという間に7月になり、いよいよ終業式の日を迎えた。夏のうだるような熱気から逃げるように木陰に隠れ、そこで夏休み前最後の話をした。


「お前からRINEを交換しよう、と言われた時は驚いたな」

「夏休みも先輩に会いたかったので」


 照れるように笑う彼女の仕草に今更ながらどぎまぎしてしまう。

 自分でも驚いた事だが、このメッセージ交換の時、初めてお互いの名前を知った。彼女もその事に気づいたのか、愕然とした表情を浮かべていたのを思い出す。


 そして二人で顔を合わせて笑う。そして改めて自己紹介をした所で夏休みが始まった。


 その時は気づいていなかった。彼女が学校で抱えている闇を。


「夏休みの図書館で再開した時は驚いたな」

「まさか近くに住んでいるとは思いませんでした」


 夏休み、家では集中できないので図書館で受験勉強をしていると、本を探している彼女と再会した。事前に連絡した訳でもなく、偶然にだ。

 図書館なので余り喋らなかったが、俺が勉強している前で彼女は本を読み始めた。それは学校の昼休みの時間のようで、落ち着いて勉強に取り組めた。


 俺がノートなどを片付けていると、彼女も本を閉じた。嫌な沈黙ではない静けさ。それは僕にとってかなり心地よいものだった。

 

 それからRINEで毎日連絡を取るようになった。内容は『来ますか?』『行く』と言った簡素なものだったが、それでも僕はご機嫌になった。


 と言う訳で夏休みはほぼ毎日会う事になる。話すのは帰りの時だけだったが、それでも彼女は出会った時に比べれば色々話してくれるようになった。


 夏休みが明けた。しばらくはいつもの日常が続いたが、それはある日、崩れ去った。


「夏休み明けの時、あれは心配したな」


 いつも昼休みになれば来る彼女が3日も来なかったのである。最初は用事でもあるのかとも思ったが、流石に心配になり彼女に電話した。

 電話に出た彼女の声は震えていて、涙ぐんでいるのが携帯越しに伝わった。只事ではないと察した僕はすぐに彼女の家の住所を聞き、自転車に乗って彼女の家に向かった。


 彼女の家のインターフォンを押すと、彼女の母親が出てきた。制服を見てか、怪訝そうな顔で僕の事を追い返そうとするが、部屋から出てきた彼女が入っていいと言ってくれた。

 僕はすぐに事情を聞いた。電気の付いていない彼女の部屋で聞いた彼女の話に僕は絶句した。


 彼女が靴を隠されている事。彼女の制服に油性マジックで落書きがされていた事。彼女の体操服が隠されたり、破られたりした事。

 ただそれまでは耐えれたと言う。そう、事件は夏休みが明けてから3日後に起きた。

 昼休みに用事があった彼女はいつもより早く弁当を食べていた。だが、いじめの主犯格の女はあろう事か、その弁当を地面に投げつけた。


「ごめぇん、手ぇすべった」


 へらへらと笑う女とその取り巻き。彼女の堪忍袋はそこで切れたと言う。

 パシン、平手打ちの音が教室に響く。そして彼女は泣きながらに怒った。

 さすがにその女もびっくりしたのか、しばらく静かな空間が広がったそうだ。だが、ここであろう事か、その教室で一部始終を見ていたはずの女教師が彼女が叩いた事を一方的に責め立てたと言う。挙げ句の果てに『これだから母子家庭は……』と言った所で、彼女の心は完全に折れた。泣きながらそう言う声は常に震えていた。


 聞いた瞬間、僕は激しい怒りに苛まれた。いじめた女や教師はもちろんだが何よりも自分自身に腹が立った。と同時に後悔もした。何より掠れた消えそうな声で『助けて』と言った事が罪悪感を殴るように耳に残った。


 彼女がいじめられている事は知っていた。いつかこうなる事も予測できたはずだ。なのに僕は自ら踏み出す事をせず、彼女がくれる快い時間を一人楽しんでいた。

 彼女がSOSを発せられる人間は限られていたはずだ。彼女の人間関係を詳しく知っている訳ではないが、今までの会話からそれは分かっていた。


 だからこそ自分が動くべきだった。彼女は学校生活の事を話そうとしなかったが、踏み込んで聞くべきだった。

 様々な後悔が頭をよぎるが、今すべき事は……。


「待っててくれ。必ずお前が学校に戻れるようにしておくから。それまで少し休んでいてくれ」


 彼女が愕然とした顔でこちらを見ているのを思い出す。あのときは俺が何をするのか不安だったんだろうな。


 急いで家を出て、何か出来る事が無いかを考えた。だが何も思いつかず、何かSNSこういうケースがないかを漁っていた。

 それは偶然だった。何気なしに学校名を検索に掛けた所、なんと彼女の写真が出てきた。彼女は写真が嫌いだと言っていたので、恐らくは盗撮なのだろう。

 その写真は目元は黒く加工されていた。その事から別に悪意がある訳では無いと判断した。まあ、盗撮の地点で悪だが。そこで僕は一つの可能性を思いついた。

 

 そこで周りの様子から撮られた机の位置を予測。手書きで作った教室の俯瞰図に席の位置を書き込んで行く。

 これでどう転ぶか分からないが、やれる事はやろう。その時の俺は密かに決意していた。


「これ撮ったの君だよね」


 翌日、予想した位置にいた人物に話しかける。てっきり男かと思ったのだが、女だったので本当に合っているのか不安になる。


「……。話す場所を変えませんか?」


 女子生徒はそう言って廊下に出た。確かに3年が急に1年の教室に来た事で少し周りが騒いでいる。


「で、何が目的ですか?」


 廊下に出ると、女子生徒は開口一番に尋ねて来た。てっきり否定されると思ったから素直に認めたのには関心した。だが、なぜこんなに堂々としているのだろう。


「単刀直入に言う。彼女が弁当を投げられ、女教師に叱られた日、その映像を君は持っているだろう?」


 真っ直ぐに目を見ると、女子生徒の瞳が、目線が揺れた。


「はい、そうですが。何か?」


 ビンゴだ。後はその映像を貰うだけだ。


「その映像を僕に送ってくれないか? 証拠として叩き付けてくる」


 頭を下げる。が、女子生徒はそれは無理だと言った。


「これはSNSで晒そうと思います。そしてあの教師といじめていた生徒全員の名前も同時にアップします」


 僕は驚いた。まさかそこまでするつもりだったとは。しかしその案は……。


「それだと君が捕まるんじゃないか?」


 そう、その案だと、この女子生徒が危ない。確かにいじめた連中や女教師は社会的に死ぬだろうが、それは色々な人から恨みを買う事であるし、何より盗撮や肖像権の侵害などで捕まりかねない。  


「いいんです。あの人の役に立てれば」


 あの人とは彼女の事だろう。この女子生徒との間に何があったのかは知らないが、相当彼女を想っているのが分かる。

 こんなに彼女を想ってくれている人がいるのか。だとしたら、彼女の為にもこの女子生徒に無理をさせる訳にもいかない。


「だったら、尚更駄目だ。彼女は俺が卒業したらきっと一人になる。その時に君には彼女の友達になってもらいたい」


 ちょっと上から目線になってしまったが、それは俺の本心だ。今の彼女の居場所は無くなってしまう。だから新しい場所を作らないと。


 女子生徒はと言うとキョトンとした顔をしていた。


「私が。友達ですか?」

「ああ。そっちの方がいいだろう。お前にとっても、何より彼女にとっても」


 女子生徒はしばらく考えると、


「分かりました。これで彼女を助けてください」


 と写真を送ってくれた。 


 それからは怒涛の一週間だった。校長に直接映像を見せると、顔色を変えて直ぐに該当の教師と生徒を呼び出した。

 教師は懲戒免職を受けたそうだ。最後に『ウチの教師に色目を使った』等と叫び散らかしている所が生徒に目撃された。

 生徒の方も保護者を交えた面談が開かれ、こっぴどく怒られたそうだ。服や靴の方はしっかり弁償され、停学も食らったらしい。以外にも加害所の親がごねると言う事もなく、この事件は収束した。


「あの時はありがとうございます。先輩が行動してくれなかったら、今頃学校に行けてませんでした」


 お礼を言う彼女。今はあの女子生徒を始めとした友人も出来たそうだ。


 その後は文化祭が終わって冬になった。受験勉強や自由登校などもあり、彼女と会うことはほぼ無くなってしまった。それでも時々通話やメッセージのやり取りはしていたけど。


 桜が舞う木の下で改めて彼女の顔を見る。受験が終わった後に会った時は、初めて合った時よりも髪が伸びていて少し大人びた印象を受けた。


「なあ、言いたい事があるんだ」

「奇遇ですね。私もです」


 卒業の前に言葉にしたい感情。それはいつ湧いたのか?

 初めて一緒にご飯を食べた時か? 初めて話かけてくれた時か? 初めて笑顔を見せてくれた時か? お互いに笑いながら自己紹介した時か? 泣きながら僕を頼ってくれた時か?


 ――いやそれら全ての瞬間に感じていたのだろう。



「好きだ。遠距離になるが、僕と付き合ってくれ」 


 彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。濁りないその瞳に涙が溜まり……。


「はい、ありがとうございます」


 彼女のすすり泣く声は春風と吹かれて揺れる木の枝に掻き消された。


 桜の花びらが唇に触れる。春が何か囁いているようだった。

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桜の口づけは囁きのように 犬養ワタル @Kou_lliven

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