第39話『器物損壊罪』と『建造物等損壊罪』の違い
「お母さん。どうだった?」
仕事帰りに夫人のアパートへ寄った夫人の長男が聞く。
「どうもこうもせんわ。警察もなあーんもしてくれんかったわ」
「あの後どうなったの?」
「すぐに来るってあんたが言うから外で待ってても全然来えへえ。三十分ぐらい待ったで。日本の警察はあんなに遅いんな」
「いやあ、お母さん。三十分は言い過ぎでしょ。ちょっと待っただけでしょ」
実際には110番通報から現場に警察官が到着するまで二十四分かかっていた。そして詳しく話を聞き出す夫人の長男。
「いや、本当に三十分は待った」
「それからどうなったの?」
「うーん。どうやったかな?警察官が一人来て」
「え?一人?」
「そうやで。それから相手と話し合えって」
正直、『しまった』と心の中で思う夫人の長男。刑事ドラマや小説が好きな夫人の長男。基本、警察は二人一組である。それが一人で来たことに少し驚きながら続ける。
「それで解体業者の名刺は貰った?」
「うん。これかな」
夫人から一枚の名刺を受け取る。現場監督のものではなく営業部主任の肩書が入った名刺。ご丁寧なことに名刺には『出会いとご縁 めぐりあいの不思議に心より感謝申し上げます』とのキャッチフレーズが。
「へーベイタルって会社なんだ。それにしても『営業主任』ってどんな人だった?」
「若くて腰の低い人だったよ」
「それで警察からは『民事』になるから当事者同時で話し合えって言われて。どんな話をしたの」
夫人の長男が先ほど『しまった』と思った理由。『被害届』をその場で出すべきだったことである。これは『器物損壊罪』ではない。『建造物等損壊罪』である。前者と後者では罪の重さに雲泥の差がある。後者なら懲役五年。人の建物を壊すことはそれほど重い罪であると夫人の長男は知っていた。
「うん。そこはちゃんと言うたで。ビシッと。住人から苦情も来てるし塀も壊されてる。とにかく塀をちゃんと元通りに修繕するまでは工事はストップや。そしたら向こうもそれでええって言うたで。だから警察が来たあとは工事ストップしたもん」
「そうなの?それはしっかりと『書面』で交わしたの?」
「『書面』てなんやの」
「いや、口約束ではなく『紙』でしっかりとさっきお母さんが言った内容を書いてもらうこと。日本は契約社会だからね」
一抹の不安を感じる夫人の長男。
「まあ大丈夫やろ。現に今日の工事は私がビシッと言うてからはストップしたから。いやあ、平日がこんなに揺れもなく静かなのは久しぶりやったわ。ええなあ」
「お母さん。ちょっといいかな。うちのアパートも先に住んでる人たち、先住民の皆さんのご理解があって建てることが出来たんだからね。それだけはしっかりと覚えといてな。それからご近所さんの意見はどんなの?」
「分からん。私は最近あんまり外出もせんからねえ。買い物もお金払ったら家に届けてくれるサービスもあるし」
仕事が定時で終わった現在の時刻は十八時過ぎ。通勤用の原付でアパートに来た夫人の長男は夫人が晩御飯を用意している間に近隣住民へ聞き取りをするため常識の範囲内で挨拶も兼ねて近隣住民の思っていることや意見を聞いて回った。
「そうねえ。音と振動はすごいよ。それに作業用のトラック。あんなのを駐車場じゃなく現場に横付けされたら、ねえ」
「うちは車が土埃ですごいことになったから。それは綺麗にしてもらったよ」
「昼間は仕事でいないんで。よく分かんないです」
「現場は外国の方が働いてるんで。今日、警察が来てたでしょ。あれは『恫喝』。訴えたらええんと違う?」
「まあねえ。こういうのは『お互い様』って昔から暗黙の了解ってところがあるからねえ。それにしても塚山さんは立派だねえ。お母さんのためにこうやって動いて。昔っから真面目だったもんねえ。どう?お仕事の方は大変?」
やはり現場ではかなりの騒音と揺れが起こっているのは事実であるようだと思いつつ、高齢者の方ほど『常識』を持たれているなと感じる夫人の長男。その聞き取りをまとめつつ、呼び鈴を押しても反応のなかったところを除き、実際に考えを聞かせてくれた人たちにはこう言った。
「本当にすいません。夜分遅くに。うちの母も高齢者ですので。今回の件は私が相手業者との窓口になりますので。皆さんのお考えは相手に『近隣住民の意見』としてお伝えしておきます。もちろん個人のお名前は絶対に出しませんので。とにかく音と揺れに関しましては永遠に続くものではありません。一か月と期間が決まっていることですので。そこはちょっと我慢しましょう」
昔からの長い付き合いの方が比較的多かったこともあり、近隣住民は夫人の長男にすべて一任すると認めてくれた。そしてその日も夕食を二食たいらげることになった。
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