第35話『契約書』と『契約』の違い

 夫人のアパートの隣で解体工事が行われることになった。なんでもその土地にも古いアパートが建っていたがこの三年間で二人の高齢者が孤独死となって発見された『事故物件』であり、その土地と建物の所有者も高齢者であり。息子にその権利を贈与した。息子はすぐにその土地を他人に売った。そしてその土地と建物を買い取った人間はすぐに上物を壊して新しい建物をと考えた。費用は出来るだけ抑えたい。結果、ずさんな仕事をする業者にその古い建物を解体することを依頼した。こういう場面だと近隣トラブルは本当に多い。それに対し行政は『何の力』も持たない。


 境界線の確認、いわゆる『土地境界確認書』などいろいろと書面での同意書は当然必要となってくる。しかし夫人は八十を超える高齢者。難しい言葉を並べられても意味が分からない。『とにかく意味も分からずハンコを押すのはよくない』とだけは思っていた。夫人は重要な書類をすべて放置した。こういう契約書は二部作成し、お互いが同じものを一部ずつ持つのが普通である。ただ意外と知られていないことで『契約書』はそれ自体に効力はない。『契約書』とはその『契約』の存在を証明するにすぎないものであり、『契約書』が存在しなければ『契約』が成立しないわけではない。『契約』自体の合意内容に問題がなければ問題にはならない。ただ夫人は八十を超える高齢者。『契約』自体交わしていないし、『合意』すらしていない。それでも隣の土地を買った人間はそのまま業者に丸投げし、業者は夫人の『合意』を得ずに淡々とそれぞれの仕事を進めた。


 解体工事が始まった。ものすごい騒音と振動。近隣住民は驚いた。夫人も驚いた。アパートの住人が夫人に言う。


「大家さん。勘弁してください。『あれ』。なんとかなりませんか?」


 夫人は近所に住む長男に連絡した。


「ちょっと私じゃあ分からないんで。あんたの方でなんとかしてくれんかなあ」


「うん。いいよ。じゃあ仕事が終わったら一回行くよ」


 そして長男が夫人の住むアパートへすぐに訪れる。


「そんなにすごいの?」


「うん。ここは四階だけど『揺れ』がひどくて。住人からも『大家さん、なんとかして』って言われててね…」


 この長男。実はかなりの正義感溢れる男であった。長男はまず問題となっている現場を確認した。そこで『あること』に気付いた。


「お母さん。うちのアパートの『塀』にかなりの『ひび』が入ってるよ。見ればすぐ分かるレベルで」


「え!?ちょっと待って。私も見てみるから」


 そして老眼鏡をかけて夫人もその『ひび割れ』を確認する。


「こんな『ひび』、工事の前にはなかったよ!あんな乱暴な解体工事が原因に決まってる!」


「お母さん。これは俺から見てもちょっとひどいね。うん。今回は俺が間に入るから。それでいい?」


「うん。あんたに任すから。あの人と一緒に頑張ってお金を貯めて建てた大事なものなんで。それをこんなんにされたら…」


 長男はすぐに動いた。

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