虚無虚無プリン

 仕事をしている同僚達は、僕を「恵まれている人生」と称する。

 まあ、そんなところだろう。若手の部類で海外転勤、そこでそれなりの地位について評価されるなんて、そんな人がいたら僕でさえ、さぞ順風満帆な人生!と憧れるだろう。出会う人ほぼ全てから、鋼のメンタルだとか言われて、生まれつきだとか恵まれてるとか言われるたびに、僕は内心で中指を突き立てる。

 ヘイ、君は俺の何を知っている?

 事実は小説よりも奇なり。

 悪意と失意と不運の中をもがいて生きてきたんだと伝えても、きっと分からないだろうし、お涙頂戴になるのは僕の誇りが許さない。だから、友以外には伝えない。ただし、記憶は薄れてゆくものだから、初心を忘れないために記しておく。


■■■


 学級崩壊を何年間かしていた小学校中学年時代。

 問題児の皆さんを追いかけていなくなる初老の担任を見て、大人は頼れないものだと悟った。その担任は、手がかからない僕のことは気に入っていた様だが、クラスで一人、僕だけもらう茶封筒(生活保護給金の書類)を、クラスのみんなの前で渡した。それがなんだかわかってからのクラスの人達の僕を見る目は、貧乏人という扱いだった。給食を残さず食べていたら、卑しいと言われたこともある。差別というものを強く実感した幼少期だ。

 裕福ではかけらもない家では、ありがちだが絶えない両親の夫婦喧嘩。毎日繰り返される離婚騒動(そして母親が叫び疲れて終わるだけで実行しない)。今思えばノイローゼだった母親と、アルコール中毒だった父親なのだろう。大人になって冷静に見ることができるけれど、母親は気に入らないとすぐに人間関係を切るタイプの人で、友達がいなかった。せっかく仲良くなった人も、ちょっと嫌なことがあると「やっぱりあたしはあの人と合わない」と切る。だから家庭に依存している。父親は、おそらく発達障害のまま老年を迎えた。洞察力がかけらもなく、察して動くことができない、先読みができない。片付けが全くできない。致命的に間が悪く、仕事ができない。ただ、大学中退という学歴には非常に強い誇りがあるらしく、事あるごとに小中学生の僕に学歴マウントをとってきた。

 そんな夫婦だから、怒り狂う母親、よくわかっていない父親となり、当然喧嘩は決着がつかない。父親に対しては怒鳴るだけでなにもできないから、母親の矛先は常に僕に向いた。妹は六歳下だから、ターゲットにはならなかったのだろう。何度殴られたかわからない。大人になってから「あれは虐待だったのかもね」と笑いながら言われたことは、しっかり記憶している。フライパンで殴ってきたのは、虐待というより殺人未遂だといまの僕なら言える。

 ただ、両親ともに貧乏ながら、多少のおもちゃも買ってくれる(お下がりが多いけど)、買うお金がないから本は借りに連れて行ってくれるなど、完全にダメな人々ってわけでもない。この辺の記憶が、僕と親を繋ぎ止めているのは、よく分かっている。生活保護が解除されたあと、一個だけ、公文式をやらせてくれた。週に2回行くだけで、月10000円しない時代だったけれど。ここがあとあと、僕の居場所として機能する。今思うと、あの収入でよくやらせてくれたなとも思うから、これは感謝している。

 小学校高学年では、無駄な正義感を振り回して首を絞められて半殺しにされた記憶が強い。

 いじめで耳を切り落とされそうになった同級生を庇った結果なのだが、力無き正義は無力と理解した。この時初めて、両親が同時に僕を心配してくれていて、親だったのだと実感したのもよく覚えている。

 家に帰るとだいたい荒れていて、学校にいても日々荒れていて、僕はもう限界だった。

 そんな頃だったか。

 風呂から上がると、包丁を持った母親が床に座って人生無意味とか言いながら包丁を見つめていた。思わず妹を連れて幼馴染の家に助けを求めたけど、連れ戻されて、あとあと母親にフルボッコにされた。今思えば、母親の顔に思い切り泥を塗ったということなのだとわかるが、その時の僕は本当に殺されると思って、逃げるしかなかった。大人だけじゃない、本当の意味で頼れるのは己だけと悟った。泣いているとうるさいと叱られるから、感情を押さえつけるようにした。

 そのあたりだ。いや、もう少し前かな。

 体の中に、もうひとり、やたら強い人格と、本来的な明るい人格が生まれて三人四脚になったのは。


 そうそう――

 僕は、体は女性なんだ。ただし、これを書いてるのは「僕」。一人では耐えきれないから、三人で支えることにしたこの人生の、末っ子だ。やたら強いのは兄。頭はキレるし口は悪いし態度も大きいが、メンタルがとんでもなく強い。殴られても何も言わずに耐え抜いて、いつか見返してやると虎視眈々と睨みつけるような性格だ。次は、姉。これが本来の人格なのだと思うのだけれど、どうも混ざってしまって、僕たちの中では誰が本人なのかわからない。やや引っ込み思案で控えめだからこそ、母親の餌食になったのだろう。非常に優しい性格だ。あとは、僕。三人の中で一番おそらくコミュニケーション能力に特化していて、ひょうきん者。人懐っこい、なんてよく言われる。三人とも筆跡も違うし、同じ声帯なのに声も違う。とりあえず言えるのは、この三人で相談しながら生きているってこと。解離性同一性障害、ってやつなのかな?と三人で悩んだけれど、意識が飛んだり記憶が飛んでいたりということはないので、それもまた怪しい。ただ、兄貴と僕の影響か、体の性別と心の性別は一致していない。だから、性同一性障害というのは診断ももらっている。実は兄は今好きな女性がいて、もう打ち明けてあるらしい。将来のことを考えて性別適合手術も視野に入れていると言っていた。


 中学校の時はまぁ楽しかったけれど、友達が周囲で勝手にトラブル起こしていてなかなか日々ばたばたしていた。でも、学校にいる時間が長くなったからか、小学校の頃よりはだいぶ人生楽しくなった。それでも、塾に友達が行く日なんかは家に早く帰るわけだが。この頃には僕の方が力が強いので、母親からは殴られなくなっていた。父親は相変わらずだったが、酒代だかバイクを買うだかで養育費を使い込もうとしていたらしい。

 妹には色々と話をした。小学生には酷な話だったが、「僕から、2人に別れてもらうよう伝える」という結論になった。妹は母についていき、僕は父を支えようという算段まで立てて、僕から初めて両親に、離婚してくれと頼み込んだ。毎日怒号が響くのはもう嫌だった。お金がなくて無理という結論に達したが、これは2人ともけっこう堪えたようだった。6歳差なので妹はまだ小学生。高校に入った僕は、アルバイトで稼いで、いつかの日に備えて貯金をしはじめた。これは兄の作戦だったが、高校から多くが自腹になってきていたので、成績を維持して奨励金(都立のくせにそんなのがある)をキープし、ほぼ無料で高校生活を終えた。金を貯めて、妹を、とりあえず高校までは面倒を見ようと思っていた。


■■■


 祖父母を頼れば良いじゃないかとか色々言われそうな人生だが、なかなかこれがうまくいかない。

 片方の祖父母は、小学生が勝手に出かけるには遠いところ。もう片方はすぐ近くに住んでいたけど、実は祖母の方が血が繋がっていない(祖父が再婚した)。こっちの祖父はもう認知症になっていて、僕が誰だか、もうわからなかった。義理の祖母には息子がいて、なぜかそちらも祖父の長男として認定されている。どちらが正式な長男なのかということで揉めることもあり、決して関係は良好ではなかったんだ。また、義理の祖母は、僕と同い年の従兄弟と僕を終始比較していた。僕の父親と叔父とがいて、叔父の方がお気に入りだからだ。僕の父親はその辺が理解できないらしく、僕が従姉妹と比較されて苦しんだことも知らない。説明してわかる人ではないと僕も分かっていたので、「従姉妹とはそりが合わない」で通していたけれど。

 ともあれ、僕にとっては、義祖母は敵だった。ああ、義祖母は父親とほぼ同い年だったから、僕はちょうど子供のような年齢だ。成長するにつれて、主に二次性徴で顕著になる体のパーツをやたら触られた。……もちろん、いずれは家を出るためにお年玉は貯めておかないといけないので、嫌なことを顔には出さず尻尾は振る真似をしていたんだ。比較されても、身体のあちこちを触られても、感情は徹底的に殺した。厨二病みたいだけれど、怒りとかを覚えそうになったときは、兄が強く出てきた。実はその間、強制的に僕と姉は意識が奪われていて、ここだけは記憶が飛んでいる。大人になってから、兄が「そういえば」と打ち明けてくれて、初めて知ったこと。記憶は鮮明に残っているというので、見せてもらったから、今は僕自身の記憶として語ることもできる。ただ、今の僕は当時の体よりも成長しているから受け止められるけれど、これをあの年齢で受け止めきった兄は、やはり強い。

 義祖母は、二次性徴が来るのが精神年齢に比例するとかいうのを強く言っていて、僕より従姉妹の方が大人ってことを示すためか、やたら触っては僕に「あの子はもうこんなに成長してる」と伝えてきた。従姉妹は嫌ではなかったのか、いまでも疑問だ。

 従兄弟は習い事や塾で1週間が埋まっている優等生系の人物だ。かたや僕はこんな人生。比較されるのが、何年も何年も悔しくてたまらなかった。

 ただ、「一矢報いようぜ?」という兄の提案に乗って、僕たち三人は大学受験で目にものを見せることを計画した。大学受験そのものも自腹だったので高校生活はアルバイト三昧だったけれど、それはそれで良い。兄は結構なんの科目でもこなせるので、理系科目全般。僕は現代文と世界史。姉は英語・リスニング、と分けて受験に挑んだ。古文は実は全員苦手だから、頑張ったけれど……うん、だめだった。大学受験リベンジマッチは大成功して、初めて僕たちは従姉妹というトラウマを乗り越えた。

 ……ともあれ、こういうわけで祖父母も頼れなかったわけだ。

 小中学生の頃の僕にとって、大人は敵だった。

 大学はとても楽しかった。全額自分で払ってるから何も文句を言えないだろう?と。いずれ来る日のためにバイトをいくつも掛け持ちして、稼ぎまくった。

 大人は頼れない。自分しかいない。妹を護りながらうまく立ち回らないと。

 そんな生き方を三人でしていたら、とんでもなくタフになっていた。どうしてそんなにメンタルがタフなのかと聞かれることはとても多いが、こんな人生だったからだ。特に兄は尋常ではない強さだし、姉はだいたい起こったことをすべて受け止めるだけのキャパがある。僕はそれを整理して、二人と一緒に対処する。


 実は、三人には夢があって。

 海外に出て、性別の壁を超えて戦ってみたい、というのがあったんだ。会社に入って、女性という壁に何度もぶつかった。透明な天井があるのは知っていたから、兄は「入社後10年をリミットに、海外に出る」と決めていた。

 10年目、僕たちは海外にいる。

 びっくりするくらい計画通りだし、海外に来ていきなり偉くなった。いままで三人で(主に兄だけど)積み上げたことが形になって、追い風になってくれている快感を覚えながら、僕たちは足元を無視して戦い続けている。


 足元。

 そう、家の問題は、根本はなにも解決していない。ただ、僕が外に出て見て見ぬふりをしてるだけ。いずれ、きっとまた揉めるんだろう。

 けれどいまはもう、歯を食いしばって声を殺していた子供じゃない。色んなことがあったけど、僕たちは基本的に「忘れないけど許す」タチだ。許さないってのには怒りの感情がいる。怒りの感情が薄い僕らにとって、許さないってのは労力がかかる。だから、そんな過去でも受け止める。流した方が楽ともいうけど、全てを理解して、飲み込んだ上で大人の付き合いをする。器が大きすぎると言われることもあるけど、ちょっと違う。許さないだとか、怒り狂うだとかの選択肢が摩耗しちゃってるだけだ。

 まあ、いまの同僚にはナイショの話。お涙頂戴はしたくないから。


兄より 「お前、話すと能天気なのに文章はまともだな」

姉より 「私の出番が少ないよね。確かに日陰者だけど」

弟より 「兄貴ひとこと多いし、ねーちゃんそう言うなら自分で書けば!?」

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