第15話 ティラミス・インポッシブル

ティラミス・インポッシブル①

 十月三十一日、午後十時。ロウアーマンハッタン、川に沿って伸びる散歩道の公園、イーストリバー・ウォーターフロント・エスプラネード。あと二時間ほどで閉園する。夜景を見ながらの散歩を、あるいはハロウィーンのバカ騒ぎを楽しむ人々がまだいてもおかしくない頃だが、たまたまそこは無人だった。街灯が静かに光を投げかけていた川面が突如激しく波打ち、ふたりの人間が大きな呼吸とともに頭を突き出した。男と女がひとりずつ。ふたりはしばらく空気をむさぼり、頭を水面から出しているだけであったが、先に呼吸を整えた方から怒涛の勢いでしゃべりだした。女の方である。

 彼女――チョコレートミントは叫んだ。「信じられない! なんでこうなるの? 最悪! 川に飛び込まなくてもよかったんじゃないの?」

「見てなかったのか?」殺し屋ハニーマスタード――のハニーの方――は怒鳴った。せっかく整えた息も全部使い切る用意だ。「船で! 爆発が! 起きてただろ!」

「沈没船でもあるまいし!」ミントは沖を指さした。その先には煙を上げるクルーザー船があった。「ねえ! あそこにいれば、救助の人に優しく毛布を掛けてもらって、あったかいコーヒーでも飲みながら、自宅まで直行する車で帰れたんじゃないの?」

「担架か死体袋でな!」ハニーは腕を伸ばして柵をつかんだ。「そっちをご所望だったなら申し訳ねえな!」

「タイタニック号だって座礁してからしばらくかかって沈んだじゃん!」ミントは額に張りつくドロドロしたなにかを払いのけた。

「あれは殺し屋が乗ってない船の話だろ!」ハニーは喉にからんだざらつくなにかを吐き出した。「あの詐欺師から早く離れるべきだったのはわかってるよな? そこから説明が必要か?」

 先に上がったハニーの手を借りて、チョコレートミントは体を引き上げた。水面からナースのコスチュームが現れた。ぬれて足にぴったりまとわりつくスカートは、薄いピンク色であったのだが、今は川の色だった。

「デイヴィットは殺し屋じゃないってば!」

「まだ言ってんのかよ」ハニーは頭を振った。重い上着を脱いで絞ると、にごった水がびしゃびしゃと散歩道に落ちた。「だいたい、あいつは最初からあやしいところあっただろ! ハロウィーンにクルーザー貸し切ってパーティー、あからさまに罠だろ!」

「普通なんですけど!?」ミントはポシェットを傾けて、中の水を全部出した。「ハニーだって反対しなかったじゃん! 彼がカヌマ技研のエンジニアだって知ってどんどん行けとか言ってたくせに!」

「経歴詐称だっただろ!」ハニーは苦々しく言い捨てた。

「そうだったかもしれないけど! ほんとにカヌマの人だったらどうしてた?」

「さあな」ハニーは疲労を感じた。早く帰って義足のメンテをしたい。防水ではあるが、イースト川の水はお世辞にもきれいとは言い難い。「帰ろう。ずぶぬれだ。タクシーが乗せてくれるといいんだが」

 AIアシスタントのIQが口をはさんだ。「近くにいないよー」

 とりあえず歩くしかなかった。ハニーとミントの住むアパートメントへ帰るには、マンハッタン島を三分の二ほど横断しなければならない。普段なら歩ける距離だが、濡れねずみのままではつらい行程だ。

「研究所に寄ろう」ハニーは提案した。「着替えがある。シャワーも」

「ボスと鉢合わせたくないなあ」

「もう寝てるだろ」

「だといいけど」ミントは憮然として言った。

「IQ、無人タクシーが三ブロック以内に入ったらすぐ止めてくれ」

 IQだけが元気だった。「はーい」

「すぐQフォンも洗ってやるからな」

「ありがとー」

 道路を渡り、三十七丁目を歩き始める。ミントは半袖から伸びた両腕をさすった。「寒い」

 そんな恰好だからだろ、と言うところをあやうく思いとどまる。「十月だからな」と無難な相槌を打ったつもりだったが、チョコレートミントは言外の含みを敏感に感じ取ってキッと振り向いた。

「ハロウィーンにゾンビナースの衣装を着てなにが悪いの? ハニーだって冬にはマフラーを出すしプールで水着を着るでしょ? 軍では軍服を着てたんじゃないの? お葬式には喪服、登山ならマウンテンウェアでしょ? 違うの?」

「いったいなにがそこまでおまえをゾンビナースに駆り立てるんだよ」

「イースト川でスイミングの予定があるってわかってたらちゃんと水着を着てきたよ!」チョコレートミントは絶叫した。「デイヴィットのバカ! あたしのバカ! うわあああん」

「今度はもっとまともな彼氏を見つけろ」ハニーは投げやりに言った。

 マンハッタンの夜空を見上げながら、「ああ、〈ドルチェット〉のコート」とミントは嘆いた。「高かったのに。燃えちゃったのかなあ」

「悪かったな、生きるか死ぬかって時にクロークに寄れなくて」ハニーは道沿いの店の並びに目を走らせた。「なにか乾いたものを買うか」

「いい」

「風邪ひくぞ」

「あたし風邪ひかないもん。なんか、もう寒くなくなってきたし」

「おい」

 ミントは頑固だった。「いらない。ハニーは買えば」

「あのな、なんとかは風邪ひかない理論だったらやめろ、真面目な話……」

 どうやら逆鱗に触れてしまったらしい。

「あのねじゃあ言わせてもらうけど……」チョコレートミントがすばらしい活舌で今日の怒りと日々の不満をまくしたてはじめる。「あたしの気持ちを一度だって考えたことある? さっき! あたし! 失恋したんだけど!」四歳児のわがままと十七歳の癇癪を合わせたような、彼女の性格の真骨頂が現れようとしていた。「聞いてる!? いっつもそう! 人の心ってものがわかってない……」二ブロックほど歩くと、「無神経」や「わからず屋」「唐変木」などの単なる罵詈雑言の割合が多くなり、うち一度は「背骨フェチ」と詰られた。

 今の会話のどこに、往来で性癖を挙げられるほどの罪があったというのか。辟易したハニーはミントの息継ぎのタイミングで反撃した。「ルークって誰?」

 効果はてきめんだった。

「な……」と言葉につまるミントはめずらしい。「なんでハニーが知ってるの?」

「前におまえが酔っ払ったときにそいつと間違えられた。誰?」

「えっ、えっ? あたしが?」先ほどの剣幕はどこへやら、ミントは無意味な言葉を連発した。「ハニーと? 間違えて? あたし、なにかした?」

「なにかって?」

 チョコレートミントの顔がみるみる赤くなる。

 ここまでうろたえるとは。どうやら、“ルーク”を持ち出すのはやりすぎだったらしい。

「……悪かった。名前を間違われただけだ。それ以上のことはない」

「あたしもごめん……」

「二度と言わない」

「うん」

 ――マジでルークってだれだ……?

 気まずい空気の中、Qフォンの着信が鳴り響いた。メルバ研究所からの緊急コールだった。

 チョコレートミントにも聞こえるようにスピーカーで出る。「もしもし?」

「で、で、出た!」かけてきたくせに、相手はそう抜かした。「は、羽生だな? チョコレートミントとい、一緒だな?」

 ボスじゃない。ミントと目を合わせてから通話に戻る。「誰だ?」

「研究所の近くにいるよな? ふたりとも、今すぐ来てくれ! き、緊急!」

 相手の地団太を踏むような声音に眉根を寄せる。「誰だって聞いてんだよ」

「は、早く来いって! メルバの研究がパーになってもいいのか?」

 ぶつりと通話が切れた。

「『来てくれ』か」道の先で輝くエンパイアステートビルを見上げる。「こいつは今研究所にいるってことだよな?」

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