特別編 コーティング剤秘話

「倉庫2」と呼ばれている場所がある。おそらく正式に第二物品倉庫だの、装備品庫だのといった正式名称があるのだろうが、火星第七基地のみんなはそう呼んでいた。戦闘支援アンドロイドMS-T4400ですらその名称を使っていた。

 火星の荒野での勤務を終え、第二部の兵士たちは基地に帰還していた。哨戒任務を終えてまず、狙撃手の羽生マサムネとその相棒のMS-T4400は倉庫2に行く。倉庫2にはこの観測手役ドロイドの整備用品が置いてあるからだ。「今日のうちにコーティング剤を塗り直したいですね」とマスタード――MS-T4400の愛称――は申告した。

 今日の仕事で変わったことはなかったが、風が強かった。予報では明日も横殴りの強い風と出ている。火星の風はやっかいだ。荒々しく、狂暴きわまりない。ざらざらした砂を大量に巻き上げ、それをなんであれ立っているものすべてにぶつけるのだ。

 倉庫2の出入りは少なかった。人が必要とするものはたいてい「倉庫1」にそろっているからだ。それをいいことに、マスタードは倉庫2をかなり好き勝手に使っているようだ。倉庫2には故障して動かないアンドロイドも納められているのだが、それを気にするようすもなく、建物の一角に自分の使う道具や充電機を集めてピットのようにしていた。

 ひっそりとした倉庫でもくもくと自分のメンテナンスをするマスタードを見るのが羽生マサムネの習慣になりつつある。エンジニアでもない羽生ができることはなく、むしろ邪魔なのかもしれないが、マスタードは特になにも言わなかった。邪魔なときははっきりそう言うだろう。

 奥の棚から、マスタードはコーティング剤のスプレー缶を出してきた。羽生は棚にずらりと並ぶ真っ赤な缶を見て、なにげなく口にした。「これだけやけに在庫があるな」

「ええ」腕にスプレーを吹きつけながら、マスタードは答えた。コーティング剤は砂や接触でできる小さな傷を防ぎ、ボディを守る役割をもつ。メーカーサポートのないマスタード関連の物品は、いつでも不足気味だった。コーティング剤だけが向こう十年は持ちそうな量だ。「しかも、最高級品です」

「それはすごい」スプレーをかけた右腕はつやつやに輝いている。

「なぜか、聞きますか?」と言うので、羽生はうなずいた。

「三年前」とマスタードは語り始めた。「わたしは、自分の修理用品を探していてこの倉庫2に入り込みました」

「そのころからだいぶ自由なんだな」人の出入りは多くないとはいえ、本来ならドロイドがひとりで来られるような場所ではない。

「無人の倉庫のはずですが、物音と声が聞こえます。わたしが奥に進むと、床の上に動く影が見えました」

 この話はホラーなのだろうかと羽生は考えたが、「影は折り重なったふたりの人間でした」という付け足しを聞いてそれを打ち消した。

「彼らの名前を仮にA、Bとします。敬称は略します」

「うん」

「AとBはともに心拍数が高く、呼吸が荒く、体の一部に異常が認められたため」

「………」

「助けが必要かと判断し、上官を呼びに戻ろうとしたところ、止められました。Aが『今の記録を削除しなさい』と言いました。わたしはできないと伝えました。わたしは任務活動中なので、特別なことがない限り、つまり指揮官の指示がない限りは、活動中の記録を消せないことになっています。指揮官にご相談してくださいと言って戻ろうとすると、また止められました。『MS』とBがわたしに話しかけました。『きみは話せる相手だと思う……なにか困っていることはないか? 足りない物とか、欲しい物品はあるかな。手配できると思う。今の記録を消してくれればね』」

 そういうわけです、と赤い缶を指さし、マスタードは話をしめくくった。「わたしはちょうどそのころ、風に悩まされていたので」

「口止め料なのかよ、これ」

「ふたりとももう火星を去っていますし、時効でしょう。彼らが残したものもこうして有効活用していますし」

 ふうん、とあらためて棚のコーティング剤の列を眺め、羽生はおもむろに口を開いた。

「で、なんでそのことまだ覚えてるの?」

「さあ、なぜでしょうね」マスタードは淡々と言った。「バグかもしれません」

「すぐバグのせいにするなよ」

「困りました。スプレーが届かない箇所があります。手伝っていただけるとありがたいのですが」

「話をそらすなよ」と言いながらも、羽生は喜んでコーティング剤の缶を受け取った。



(おわり)

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