火星のどこかで待ち合わせ(前編)⑧
気絶していたのだろう。羽生が気づいたときには、あたりがやけに暗くなっていた。体を動かそうとしてみる。うまくできなかったが、それはどうやら、自分がバギーの下敷きになっているからだ。ぱた、ぱた、と小さな音がするが、バギーに雨粒が当たっている音のようだ。左手首が特に痛む。
悪天候の中、野外で、身動きが取れない。瞬時に頭の中でチャートが組みあがる。火星の夜、および嵐、しからば遭難、そして死ぬ。
左の手をどうにか動かし、袖に付いた端末を見る。すこぶる反応が悪いが、活動服に軽度のエラー表示が出ている。ヘルメットにヒビが入ったようだ。死んだ火星人に悪態をつきながら、画面の光で通信機を探そうとしたが、目の届く範囲には見つからなかった。帰還前に連絡を入れたから、基地はどこかの時点でおれが帰って来ないのに気づくはずだ。捜索隊が来るまで持ちこたえられるか? ここから基地まで優に二百キロはある。
少し離れたところから、ざくりと地面を踏む足音がした。すわ火星人かと羽生は身をこわばらせたが、二本足の足音だとすぐに気づいた。MS-T4400に違いない。
MS、と呼んでみるとすぐに返事があり、足音が近づいてくる。「はい、軍曹」
「無事か?」
やや間があった。「損傷ありません」
「よし。おまえ、バギーを持ち上げられるか? ゆっくりだぞ」
ちょうど目の前で、アンドロイドの指が車の端にかけられた。きしみながら持ち上がるバギーの下から、羽生はなんとか這い出した。「助かった、MS……」と顔を上げる。
雨と埃と火星人の血にまみれたMS-T4400が立っていた。
思わず凍りついた羽生の頭上で、すっと右足を上げた。
よせ、と言うか言わないかのうちに、羽生の顔から数歩も行かない地面へ踵が叩きつけられる。
「いわゆる“火星ムカデ”です」アンドロイドが足を戻して言った。「毒があります。致死性ではありませんが、噛まれると数日は痛みを伴う腫れが引きません」
ムカデの死骸を見とめ、羽生は詰めていた息を吐きだした。一瞬なにを考えてしまったのか。“カルミア事件”よりは、ファッジが妙な声色で言った“排除シマス”の方が近い。「ああ……ありがとう」
「もう少し身の回りに注意してください」
「なんなんだよおまえは……」
「わたしはケートエレクトロニクス社製歩兵型アンドロイドMS-T4400、シリアルナンバーは……」
「もういい! わかった」羽生はあちこち痛む体を起こし、やっとのことで近くの岩に寄り掛かった。「現状報告! 十分前から!」
「わたしたちの乗ったバギーは、火星人をはねて、岩に乗り上げ、谷に落ちました」
確かに、見上げれば岩壁がある。さっきまでいたところから十メートルは下にいるようだ。谷底まで転げ落ちる際に、左手を地面に着いたらしい。出血はないが、手首は腫れてきている。
「わたしはここより二十メートルほど東に落下しました。軍曹と合流しにここまで来る途中で、火星人が二匹いたので殺しておきました。以上です」
血まみれドロイドの真相はわかったが、状況はなにも変わらない。着任から一か月もしないうちに、車をひっくり返し、装備品をぶっ壊し、基地から遠いところで遭難しそうになっている。
「もうじき夜になります。このままではあなたは死にます。温暖化した火星とはいえ、夜の気温は摂氏零度を下回ります。早急に対策が必要です」
「わかってるよ」
幸い近くには、バギーに乗せていたコンテナとその中身が散らばって落ちていた。おしゃかになった通信機も見つかった。断熱シートを探し出して肩に巻き付ける。どこかで雨風をしのがなければならない。完全な日没まであと二時間あるかどうか。バギーの陰で地図を広げ、現在地を割り出す。ポストの列に沿って走ってきたので、だいたいのところは簡単にわかった。ここはシルヴィア谷だ。
決断を下した。動く前に、左手の応急処置をする。コンテナ補充品が入っていた段ボールの切れ端で手首を巻いて、古い救急セットの包帯を輪っかにして首から吊った。とりあえずの雑な手当だが、やらないよりましだ。「移動するぞ」
「どこへ?」
「第三次調査隊の調査拠点がこのあたりにあったはずだ。雨宿りくらいはできるだろ」
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