火星のどこかで待ち合わせ(前編)⑨

 火星で「谷」と名前が付けられている地の中で、シルヴィア谷はあまりにもスケールが小さい。例えば、他の谷――メラス谷の一番深い部分が十一キロメートルであるから、落ちたのがここでつくづく幸運だったと言えるだろう。この浅い谷に名がついているのはひとえに、第三次調査隊のシャトルが誤って着陸してしまった地点であるからだ。彼らは予定のポイントより二十四キロずれた座標に腰を据えたが、無事に地質などの調査をやり遂げている。まだ火星人の被害が深刻化する前の話だ。

 バギーは置いていくしかなかった。積み荷から救急セットなど必要になりそうなものを拾い、リュックに押し込んで歩き出す。最初はMSが背中にしょっているうす汚れたバックパックに入れて運ぼうとしたが、断られた。

「これ以上入りませんので」

「は?」

「この中にはわたしの自律メンテナンスシステムが収納されています。荷物があるならば、ご自分で持ってください」

 歩きながら、とうとう羽生は指摘した。「おまえ、自我があるだろ」

「すみません。おっしゃることが……」

「わかってるだろ。わからないことにして、命令を意図的に無視できるようにしているな?」

 歩みは止めなかったが、断熱シートの下で、羽生はハンドガンに右手をかけた。こいつの返答によっては、カルミア・インシデントの対策例は、ここで作るしかない。

「なんでそんなことをする?」

「あまり話すと体力を消耗しますよ」

「はぐらかすな」羽生はぴしゃりと言った。

「………」

「だんまりね。そういう反応もできるのか。最近のアンドロイドはすげえな」

「わたしは」MSはそれまでと同じ調子で言った。「上官に虚偽を述べることはできません。命令であればなおさら、そうです」

 ――認めた。

 ゆっくりと安全装置を外す。前を行くMSの歩調は変わらなかったが、風に紛れてもよさそうなその小さい金属音をしっかり聞き分けていた。

「軍曹。わたしは自軍の人間に危害を加えることはありません。ご安心を」

「だったら説明しろ。勝手に動くのはどういう意図なんだ?」

「勝手にというのは……」そこでMSが振り向くようなそぶりを見せた。

「MS-T4400! 説明しろ!」

 弱点と推察した首のあたりを見据える。自分とほぼ同じ背丈、ボディはたぶんカーボン、火星人を殺して回る技能と俊足の持ち主を、警戒してもしすぎることはない。

「わたしは機能を果たしているだけです」

「機能?」

「自我の有無に関わらず、わたしの火星での任務は、火星人の殲滅、およびその支援です。この任務を効率よく遂行するために、時にはいくつかの方法を比較することがあります。先日は、軍曹が狙撃で倒すのと、わたしが接近して倒すのでは、後者の方が早く済むと推察しました」

「つまり、自分が正しいと思ったから、上官の命令をあえて無視したと」

「正確には異なります。軍曹がわたしに声をかけたのは、わたしが行動を決定したあとでした。走行シークエンスを開始してすぐに止まると、エネルギーの無駄になります」

 異なっているかどうかはともかくとして、どうやら、こいつはこいつなりの論理にしたがって動いているらしい。「じゃあ、朝方基地の外をうろうろしてたのはどう説明するんだ?」

「前にも申し上げましたが、警備はわたしの基本機能で……」

 言葉の途中で、MS-T4400は転んだ。風で飛んできた大きなゴミが――コンテナのふたのように見えた――ボディを直撃し、体が傾いたMSは片足を地面にあった亀裂に突っ込んで倒れた。

「……なにしてんだ、おまえ」

「転倒しました」伏せたままMSが言う。「これはさほどの問題ではありません。わたしたちは“転倒からの復帰”のテストを出荷前に千回は行います。出荷前なので記憶は残っていませんが、そうです」

「そうか」

「はい」

 荒天の中、羽生は亀裂からの脱出を試みる戦闘支援アンドロイドをしばし見守った。急にバカらしくなってきた。三十秒前までこのポンコツに脅威を感じていたことがやるせない。「ところで、あなたにとって、片手の自由が利かない今、わたしが離脱すると困るのでは?」とMSが仕掛けてくる拙い交渉にも気力を削がれる。

 逡巡の末、羽生は銃から手を放し、地割れからMSを引っ張り出してやった。

「賢明なご判断に感謝します」とMSはのたまった。

「は、そりゃどうも」

「わたしも無事に基地へ帰りたいと思っています。あなたと同じように」

「そうかい」

「見えました。あれが第三次調査隊の調査拠点跡では?」

 前方に向かって指をさすMSの、かかとのあたりに小さく光が閃いた。ボディが帯電している。雷の前兆だ。MSを急き立てて走る。左手に伝わる振動に顔をしかめながら、行く手に見えてきた灰色の建物を注視した。雨煙の中で今にも見失いそうだ。

 調査拠点は多角形の宿舎で、二階と屋上があった。昔の基地だから、鍵はそこまで複雑なものではないだろう、と踏んでいたが事実そうだった。

 ぷしゅう、と弱々しい音を立ててドアが開き、ひとりと一体は中に転がり込んだ。二重のドアを両方とも閉めると、風と雨の音が小さくなる。活動服越しではまだわからないが、暗い室内は冷え切っているのだろう。

「生体反応は?」

「ありません」

 懐中電灯を部屋の端々に向ける。無人の基地の無機質な床と壁が照らし出された。大部屋で、床に固定されたテーブルがある。元は食堂か会議室だったようだ。小さな丸い窓の付いた扉がひとつあり、覗くと個室が並ぶ廊下へ続いているのがわかった。固く閉まって開かない。

 端末で大気組成を確認する。十分な酸素があった。建物に残存していたか、ここが谷底のためか、あるいは両方かもしれないが、二酸化炭素除去装置を温存できる。

 明かりのスイッチを探したが見つからず、手持ちのライトをテーブルに置き、羽生は座り込んだ。活動服の表面を雨粒が滑り落ち、床に小さな水たまりを作る。ヘルメットを脱いで、手袋を外した。左手首は内出血の色が出てきていた。骨折かもしれない。

 救急セットから三角巾を出して、さっきの間に合わせよりしっかり手首を固定しようと片手で苦戦していると、MSが「お手伝いすることはありますか」と訊いてきた。

「……まず、銃を置け」

 銃を床に置きながらMSが訊く。「理由をお尋ねしても?」

「念のためだ」

「わたしは自軍の兵士を攻撃できません」

「どうだろうな。嘘がつけないことが嘘じゃないって、どうやって証明できる?」

「それは悪魔の証明ですね」

「……悪魔がなんだかわかるのか」

「実際に見たことはありませんが」

「そいつはなんというか、幸運だな」羽生はため息をついた。「こっちに来い」

 布の端を結んでもらうことにした。MSは三角巾を銃と同じくらい器用に扱った。

 右肩の上で結び目を作りながら、MSは言った。「軍曹。ありがとうございました」

「何?」

「お礼を申し上げています」

「……なんの?」

「軍曹がバギーの助手席に乗せてくれなければ、わたしは先ほどの事故で深刻な損傷を受けていたかもしれません」

 たしかに荷台にあったコンテナの中には、地面に叩きつけられ、割れてばらばらになっていた物もあったが……。羽生は言葉がなかった。ただ、荷物を積めるところに積んだだけだ。礼を言われることなどなにもない。

「先ほどの衝突事故は、軍曹がもう少し前方に注意して運転していれば防げた事故でしたが……」

「ああ?」

「前方不注意です」

「誰かさんが話しかけてきて不注意になったんだろうが」

「許可を頂いています」

「おまえ戦闘支援ドロイドだろ、運転の支援はしないのかよ」

「ですので、わたしにも責任のほんの一端はあるでしょう」

「このポンコツ……」

「わたしは機能を果たしています。ポンコツにはあたらないかと」

 稲光が閃き、近くに雷が落ちた。激しい雨が建物を叩いている。この分では捜索隊は出ないだろうと羽生は思った。火星の嵐は数か月続くこともあると聞いているが、そうなったら本当に、運の尽きだ。

「できました」仕上げに、肘が滑り落ちないように三角巾の頂点を小さく結ぶとMSは言った。「お休みになられては?」

 妥当な提案だった。羽生は補給食のパックを開けた。栄養バーを食べ、長期保存水を飲むと、かなり持ち直したという感じがした。今後どうするにせよ、天気が回復するまでは動けない。回復したとしても、崖を登る手段がなければ戻れない。もしMS単独で崖を登れるなら、一番近いポストまで行かせるというのはどうだろう……雷鳴がそのアイデアを打ち消した。MSが戦力になるのは事実だ。またひとつ備品を壊すかどうかの賭けに出るにはまだ早い。さっきの言葉――「わたしも無事に基地へ帰りたいと思っています」を思い出したからではない。

「通信機能は?」

 MSは壁際に引っ込み、自分の右足のカバーを開け、なにやら中を調整していた。「修理済みですが、雷の影響か、状況が安定しません。先ほどから第七本部宛てに救援要請を出していますが、エラーになります」

「わかった」

「わたしは機能を果たしています」

「わかったって」

「ところで左手の吊りの具合はいかがですか?」

「ポンコツが気に障ったんなら謝るよ」

「ご理解感謝します」

「さっきから言ってる『機能』って、いったい何なんだ?」

「わたしの存在そのものです」

 言い切るMSに、羽生は訝しげに目をやった。話が終わりそうだったので、「もっと詳しく」と促した。

「例えば、ナイフは『切ること』が機能です。切れないナイフは役に立ちません。わたしは戦闘支援アンドロイドです。戦闘とその支援に含まれるすべてがわたしの機能です」足の調整を終えたのか、工具をバックパックにしまうと、MSは言った。「もしわたしが機能を果たせなければ、ただのゴミです。そのときはポンコツと言って差し支えないでしょう」

 苛烈な言葉に少々面食らう。「……おまえもいろいろと考えているんだな」

「考えるのも機能です」ややあってから、MSは付け足した。「基地に帰還する方法は、今のところ思いつきませんが」

「そのうち何か思いつくだろ。ここはシルヴィア谷だし」

 ライトがチカチカと光る。「この場所と『何か思いつく』の関連性がわかりません」

「縁起がいいだろ……。〈シルヴィア〉って知らない? バレエとかの」

「知りません」

「火星の地名って神話関係から名前を取ってるだろ? オリュンポス山とか、ヘパイストス地溝帯とか。シルヴィアはディアナっていう女神に仕えるニンフだよ」

「『縁起がいい』とは?」

「ディアナは狩りの女神だから、狩人の味方だし、〈シルヴィア〉はハッピーエンドで終わる話だから……」羽生は言葉を切った。「まあ、おれが状況を少しでも楽観的に考えたいだけだな」

「希望的観測ですね」

「そう」

 沈黙が下りた。

 ちょっと自分は判断力が鈍っているかもしれない、と羽生は思った。機械相手になにを話しているんだか。よりによって神話の話など。確かに少し休んだ方がいい。左手のうずくような痛みを意識から追い出す。こういうとき、羽生は“フェーダーを下げる”イメージを使う。自分の感覚は音響ミキサーのような機器で管理されていて、そのうちの「痛み」のチャンネルのつまみフェーダーをゆっくり下げていけば、音量を小さくするように、少しずつ痛みも薄らいでいく――という気がする。あらゆる不快感はこの方法で乗り切れる。MSに周囲の警戒を命じると、瞼を閉じて、重ねた腕に額を付けた。荒れた風の音と――自分の呼吸の音がする。これもフェーダーを下げて――まだ雷が鳴っている――それと何か――ガチャガチャした音が――。

「……軍曹。軍曹!」

 MSの声でハッと顔を上げた。「なんだ!」

「上に来てください」

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